――もう何年生きてきたのだろう。
それは計り知れない。ただ、『長く』。時間の経過を表す言葉は、それだけしか存在しなかった。
自分が男なのか女なのかすら分からずに、自分が『折原臨也』になった具体的な年代も曖昧で、『折原臨也』という名前を自分でつけた理由も朧気にしか覚えていない。
『イザヤ』とは、前8世紀のイスラエルの大預言者で、神ヤハウェの正義と救い主の出現を説いて、王や民に神への信頼と改心を説いた、旧約聖書中の大予言書の名前にも使われたほどの偉大な人物である。
どのような経緯でその情報を入手したのかも忘れた。ただ、その響きが気に入り『臨む者』を掛けてつけた特に意味のない名に違いない。
しかし『イザヤ』が『臨也』になったのも、『折原』という名字をつけたのも割と最近だった。(最近とは言え、数百年前の話だが)
昔の折原臨也は……『イザヤ』という名の、厄介なただの化け狐であったのだ。
『イザヤ』は人間を見るのが好きだった。
人に化けて町人に成りすましたり、女に化けて男を騙してみたり、あらゆる方法で人間を弄び、同時に繋がっていた。
しかし人間は、気づいた頃には死んでいる。
あまりにも短い、あまりにも儚い、人間の『命』
『イザヤ』はそれが詰まらなかった。
生まれたての赤子がいても、臨也が一歩進めば五十歳の老人になり、二歩目では既に死んでしまっている。
どれだけ化かしても愛でても、人の世というのはあっという間だった。
長年生きて、知識の地層は厚くなるのに。それを御披露目する相手がいなければ何も楽しくはない。
『イザヤ』は人が羨ましかった。妬ましかった。
自分も人と同じように老いることができたなら、自分の『時間』にも制限があれば、どれだけ思い切り人生を満喫することができたのだろう。
その想いは鎮まるどころか膨れ上がり――
現在それは、強い『願い』となっていた。
あっという間の人の時に見つけた――平和島静雄という、一人の青年の出会いによって――。
♂♀
大久保職安通りガード下付近
頭上に昇る太陽が少しだけ西に傾いた頃。
歌舞伎町の裏に位置する場所の歩道沿いに、漆塗りの一台のバイクが停車していた。
ヘッドライトもナンバープレートもついてない、些か不気味な黒バイクの上には、黒いライダースーツに身を包み、猫のようなデザインの黄色いヘリメットを着用した、とんでもなく奇妙な存在が跨っている。
そんな不気味な人型に、ファー付きコートのフードの男が、不自然に膨らんだ茶色の封筒を手渡した。
「はい、運び屋。これ今回の件の報酬ね。毎度のことながら仕事が早くて助かるよー。……流石、20年近く働いてるだけあるね」
運び屋と呼ばれた人型の影は、事務的に封筒の口を開く。
中に詰め込まれていたのは、分厚い札束だった。
人型の影は札の枚数を数えると、大胆に胸のチャックを下ろし、封筒を懐にしまう。
のではなく、
バイクから帯状の影が伸び、封筒を飲み込んでしまった。
異形の事態でありながら、フードの男・折原臨也が動じることはない。
人かどうかも定かでない影は、袖口から素早くPDAを取り出すと、速やかにキーを叩き文字を打ち込んだ。
『お前と同じ年の分繋がりがあると考えるとゾッとする』
まるで臨也を遠ざけるように綴られた言葉。
しかし当の本人は、液晶画面から力一杯伝わる嫌悪感をさして気にすることもなく、大仰に首を竦めて笑った。
「こうして直に会って繋がるようになったのは、つい8年前の話じゃないか。繋がりは大事にしようよ」
『お前との繋がりは首都高速道路にでも投げ捨てたいところだ』
とんでもなく厳しい言葉の筈なのだが、臨也に大した打撃は与えられない。
崩れることのない爽やかな笑顔に、影は『何を言っても無駄か』と呆れかえった。
そして『8年前』というキーワードにあることを彷彿し、画面に文字を叩きこんだ。
『そういえばお前と会ったのは、新羅が高校一年の時期だったな』
「そうそう。新羅が『解剖させて』って俺にせがんできて、丁度シズちゃんと喧嘩して軽く怪我してたから、診てくれるならいいかなーって……」
『静雄の怪我のほうが視覚的にひどかったがな』
「まあ、あいつにとってはダメージになってないからさ」
的確な指摘を軽々しく受け流して、思い出に耽る臨也。
そんな臨也を影も受け流し、再び文字を綴った。
『新羅がお前を連れてきた瞬間、私はギョッとしたぞ。私には一目でお前が人間じゃないって分かったからな』
「あれは驚いたよ! だって開口一番、『お前、人じゃないな』って言われたんだから! ……ま、俺は君がデュラハンってこと、既に知ってたんだけどね」
『
だまれ』
ケラケラと楽しそうに笑ったと思えば、勝ち誇るようにニヤリと笑う。
その笑みが癇に障り、文字を大きくして画面を見せつけた。が、効果はなし。
影は首を横に振ると、もう一度キーを叩いた。
『しかも名前を聞けば「折原臨也だ」って……。「オリハライザヤ」は私の依頼主としてよく聞く名前だったから仰天した……』
「『まさか依頼主が高校生だったなんて』とか言い出すからさ、思わず笑ったよね。だって人間じゃないことを一発で見破ったくせに、『高校生』っていう考えが出るなんて――」
『
黙れ!!』
抱腹絶倒しそうな勢いで「滑稽滑稽」と笑う臨也に、怒りよりも己に対する羞恥が込み上げてきた人型の影は、先ほどよりも一回り字を大きくして画面を見せつけるが、臨也は画面を見向きもしない。
悔しげにPDAを握り肩をワナワナと震わせる影から、険悪な薄暗い影が漂い出す。
ダイヤモンドダストのように地を這う黒い煙状の影は、臨也の足下に忍び寄ると蔓状になり、そのまま臨也の肢体を緩く締め上げた。
「ハハっハハ! ごめんよセルティ! ごめん苦しい解いてってば!」
目に涙が滲むほど一頻り笑うと、締め上げられていることに漸く気が付いたのか、降参を示すように首を振る。
本気で苦しんでいないので、このままもっと力を篭めても良かったのだが、笑う顔があまりにも無邪気で、悪意がないことを読み取ったセルティと呼ばれた人型の影は、しぶしぶ絡ませた影を解いてやった。
セルティの意思により煙の如く霧散する影を見送り、臨也は息を整えると目尻に溜まった涙を人差し指で拭い取った。
『人を騙す九尾の狐が、まるで子供みたいに笑うなんてな』
「……そうだね。少なからず俺自身も驚いてるよ」
『……そうやって素直に返されると、気味が悪いんだが』
「ひどいなぁ」
人ならざる者同士が、この人で溢れる東京都市で邂逅できた奇跡。
邂逅した『バケモノ』は、仲睦まじくとはではいかないが、こうして軽いやり取りを行っている。
今や東京の街は、バケモノでさえも歓迎してくれているのだ。
「――なあ、セルティ。セルティは一体いつから生きてるの?」
唐突に投げ掛けられた質問に、セルティは暫し記憶を辿る。だがすぐに、小さく肩を竦めて受け答えた。
『さあな。それはきっと私の頭のほうにあるんだろうし……。あったとしても、どれくらい生きたのかは分からないかもしれない』
「ふーん……」
臨也はPDAの文字を目で辿ると、徐に空を仰ぎ見る。
そして小さく、独白のように呟いた。
「俺もね、よく分からないや」
感情の脱け落ちた、抑揚のない、声。
セルティは掲げたままのPDAを静かに下ろすと、黙って臨也の横顔を眺めた。
「俺達はさ、存在意義とか見失うくらいお互い長いこと生きてるじゃん? 俺なんかは尾が九つにわかれるくらい生きてるわけだ。まあ……存在意義なんてハナから求めちゃいないんだけどさ……」
覗き見える臨也のチョウジで染めたような薄茶色の香色の瞳は、真っ青に澄み渡る空を映している。
雲の流れが穏やかだ。
「そうやってなあなあに生きてきたわけだけど……俺は『今』が最高に楽しい。嘗てないほどの高揚感が俺を突き動かして、毎日が豊かで幸福さ」
空を映す瞳が、爛々と輝いている。
きっとその言葉に嘘はないのだと、根拠はないがセルティは密かに悟った。
すると臨也はセルティに向き直り、おやつが待ち切れない子供のような眼差しでセルティを見て言った。
「セルティはさ、新羅が死んだら、どうするの?」
――え……?
その何気ない調子で紡がれた質問に、セルティはヒュッと息を飲む。
『ふざけてるのか』そう返してやろうと思ったが、臨也の双眼は真剣だったので、笑い飛ばすことも激怒することもできなかった。
――新羅が……死んだら……?
思えば今まで考えてみたことがなかった。
岸谷新羅とは相思相愛と言い張れるほど恋人同士で、セルティにとってかけがえのない大切な存在だ。
しかし、彼は他と同じ、人である。自分とは違う。
セルティがどれほど大切に想っていようがお構いなしに、人には必ず終焉の時というものが訪れるのだ。
――新羅が……死んだ、ら……。
数秒の沈黙。セルティは静かに文字を打ち込み、PDAを臨也に手渡した。
『きっと、生きていけなくなる』
「……」
それを無言で見下ろす臨也は、完全な無表情となっていた。
後ろのほうで、電車がガタゴトと音を立てながら通過する。
辺りは静けさに包まれた。
「――愛し合ってるねぇ」
低く響いた声に俯き気味だった顔を上げれば、臨也がセルティに受け取ったPDAを差し出していた。
「君はさっき俺に『九尾の狐がそんなのでいいのか』って言ったけど……君こそ死期を伝えるデュラハンがそんなのでいいの? 惚気ちゃってさ」
いつもの調子に戻り、ひらひらと手を振りながら歌舞伎町方面へと足を進める臨也。
ステップを踏むようにクルリと振り返ると、
「デュラハン失格だね!」
臨也は『べーっ』と小さく舌を出して、セルティを馬鹿にするように笑った。
そして何事もなかったように歩き出し、振り返る素振りはない。
――三歳児か、あいつは。
大人げない動作に肩を落とし、PDAに視線を移す。
と、そこに新たに文章が記されていることに気が付いた。
『長い年月を経てきたが、「今」こそが永遠だよ。せいぜい噛み締めて生きることだね』
――……今こそが永遠、か……。
歩く拍子に揺れるファーのついたフードとPDAに綴られた文字を見比べながら、セルティは思う。
――その通りだな。
バイクは音もなく走り出す。
エンジン音の替わりに、馬の嘶き声が――
新宿の街に反響した。