――それから数日後
「誠二、お腹すいてない?」
「ああ、姉さん、大丈夫だよ」
 池袋の俺の事務所に……出入りする人物が一人増えました。




佳人薄命


♂♀


 事の成り行きは数日前。誠二君の狭い……それはもう狭過ぎる世界に俺という存在がインポートされた日のことだ。
 あの後、シズちゃんに風俗店の看板を投げつけられたのが逃走劇開始の一ベル。幕上げ合図の二ベルの音を聞く前に、俺の脚は俊敏に動いていたとも。
 そこからは、いつものパターン。
 辺り構わず手当たり次第に公共物を引っこ抜くは投げ放つは蹴り飛ばすは……。
 まあ、結局シズちゃんが諦めて、俺の勝ち――なんだけど。
 そんなこともあって俺が事務所に到着したのは、19時頃になってしまった。
 この時間になってしまえば、蘭君や美影ちゃんや春奈もいないだろうし、いたとしても四木さんが俺の鎖としてつけたスローンくらいだろう。
 だから当然波江さんも、いない。
 なんてったって彼女はいつも定時ピッタリに帰るからね。
 だから少しだけ。
 1ミクロンくらいはあの忌々しい人間戦闘機に感謝してやってもいい。
 やっと帰ってきた我が家。嗚呼、やっぱり自宅っていいね。マイホームほど落ち着くものはないよ。恐れてた波江さんもいないことだし……。家サイコー。家、ラブ。
 そんなことを思いながらエレベーターに乗り込み最上階で降りた俺は、ルンルンと軽い足取りでドアの前に立つと、慣れた手つきで鍵を差し込んでノブを捻った。
 愛しのマイホーム。ただいま、俺。おかえり、俺――
「あら、遅かったわね」
 ……。
 ……そんな俺を出迎えたのは俺の家だけじゃなかった。
「……や、あ、波江さん……。珍しいね、君がまだここに残ってるなんてさ……」
 精一杯につくった笑みは、見事痙笑になってしまった。
 なんてったって俺を出迎えたのは、あろうことかあの、俺が最も接触を恐れていた矢霧波江だったんだから。
 波江さんは普段俺が座っている質の良い椅子にどっかり腰を下ろして、指を組んで俺を真っ直ぐに見据えていた。
 池袋の夜という街の背景が、彼女の存在を妙に引き立てている。
 ――まさか……誠二君とのこと……バレてる……?
 嫌な考えが頭を過ぎる。
 その瞬間、俺は自分の額や背中からドッと汗が吹き出るのを感じた。
 ああ、これが冷や汗っていうのか。なんて呑気なことを客観的に考えてる自分を叱咤して、俺は普段通りの俺を演じきることにした。
 大丈夫。俺の演技力なら、波江さんをも欺くことができるさ。そうだ。冷静になるんだ俺。動揺を見せるな。飄々と振る舞え。
「クルリとマイルから聞いたわ。誠二、張間美香やデュラハンの首から、あなたに乗り換えたんですってね。よほど驚いたんでしょうね、あの子達。速報だったわよ。律儀に写真付きのメールも送ってくれて」
 言いながら自分の携帯を開いて、ディスプレイを俺に見せつけてくる波江さん。
 そこには確かに、俺と誠二君の姿が映し出されていた。
 ああ、そうだった。
 あそこはマイルが通っている楽影ジムの近くだったな。
 しかもクルリとマイルは誠二君の尾行を波江さんに依頼されているんだっけ。
 そのことに漸く気づいた時、俺は目の前が真っ暗になっていくような感覚に陥った。
 これが絶望を目の当たりにした人間の思考か。そう呟くであろう客観的な俺は、もういない。
 波江さんが不適に微笑む。
 冷たくて、凍りつくようなその笑みに、慄然とした。
 ――もう終わりだ。
 何の言い訳も見つからない。あるのは残酷な現実と、冷徹な過去のみ。
 紀田正臣はこんなものに中学生の時に襲われ、それを長年抱えて引き吊り歩いてきたというのか。
 だとしたら、やはりあの子は脅威だ。流石俺が目をつけただけある。
 ……て……。なぜ今この状況で復活した、客観的な自分! ログアウトした筈じゃなかったか!?
 ……? 待て。戻ってきたということは……

 絶望が薄らいだことを……俺の中で何かが察知したからじゃないか……?

 俺はもう一度波江さんを見た。怯むことなく、真っ直ぐに。冷たい空気を吐き出す波江の不適な笑みを臆することなく、ジッと眺めた。
「!」
 そこで気がついた。彼女の氷点下の瞳の奥底のほうに、暖色系の柔らかい光が仄かに灯っているということに。
「波江……?」
 彼女らしからぬ瞳の色に、俺は思わず声をこぼす。
 すると波江さんは、淡い微笑みを濃いものへと徐々に塗り替えていった。
「この泥棒猫」
 どこぞの昼ドラで出てくるような台詞を吐いた波江さんは、なんとなく嬉しそうに見えた気がした。


♂♀


 ――今思えば、波江さんのあの科白には憎しみ・怒りを上回る歓喜――つまり俺への称讃がこめられていたのかもしれない。
 美香ちゃんから誠二君を引き離した俺に対して、『よくやった』という意味が含まれていたんだろうね。
 なんてったって、憎きあの首に抱く弟の長き淡い恋心を俺が断ち切っちゃったんだから。
 ……まあ、故意でやったわけじゃないんだけど。
 けど、そうなってしまえば俺の身が危ないんじゃないか。絶対に波江さんに痛めつけられながら殺される。そう確信していたんだけど――
「誠二、久しぶりに私がお菓子を作ってあげるわ。あなたのために……」
「ありがとう姉さん。じゃあ、いただくよ」
 ……クソ。なんだ今の甘ったるい声。おまけに少女のように頬を赤らめちゃってさ。年自重しろよ。
 まったく……白壁微瑕とは正にこのことだ。我が優秀な秘書の噂以上の豹変ぶりに感服するよ。
 ……これでお分かり頂けただろうが、俺が未だ無事でいる理由というものを一応説明しておこう。

 張間美香と別れた矢霧誠二。矢霧誠二は張間美香を捨てて、折原臨也を選んだ。
 第二に想定されることは、矢霧誠二は折原臨也を束縛したがるだろうということだ。
 この推測に行き着くまでの事柄は、矢霧誠二の愛は固執型であるということが重要な鍵となる。
 彼の愛はひたすら一途で、一点に集中する傾向だ。だから当然、俺のことを好きになったら束縛したがるだろうからね、おえっ。
 それを見越していた矢霧波江は、折原臨也と矢霧誠二の愛を歓迎したってわけさ。
 弟への壮大なる彼女の愛故にね……。
 だってさ、束縛したがるってことは、まず姿を求めるだろ? 姿を求めるには情報を集める。そして、集めた情報で求める人を捕まえる。そうすれば束縛完了。目的は果たされるというわけだ。
 だが折原臨也は情報屋だ。
 素人に俺の尻尾を掴むことは絶対不可能。
 行き詰まった矢霧誠二は頭を抱えた。
『会いたい』『触れたい』そんな熱い想いばかりが虚しく募る。
 そこへ現れたのが、矢霧波江だ。
 矢霧波江は折原臨也の情報を矢霧誠二に無償で提供した。情報と言うだけあって、勿論、住所もね。
 矢霧波江は最愛の弟・矢霧誠二の愛のために、自ら望んで踏み台になってやったのさ。素晴らしい姉弟愛だね。
 折原臨也の居所を知った矢霧誠二は、折原臨也のもとへ行く。
 そして忘れちゃならない重要ポイントがここ。
 折原臨也のもとには、矢霧波江もいるってことだ。

 ――これでもう分かっただろう?
 波江さんが俺を抹消しない理由というのは……誠二君と同じ空間と時間を共有できるから、なんだ。
『俺←誠二君←波江』
 なにこの歪なトライアングル。涙出そう。
「臨也」
 さらにその涙を煽るように、誠二君の口から誠二君の声で俺の名前が発音される。
 堪えろ俺の涙腺。いつもの『人、ラブ』で乗り切るんだ……!
 ……まあ、色々取り乱す思考とは裏腹に、実際俺は何一つ変わらない態度でいるんだけど。流石俺。内心は東池袋駅周辺のように、滅茶苦茶にごった返してるのに凄いじゃない。
「……なにかな? 俺、今仕事中なんだけど」
「俺を見てほしい」
「……だから今、仕事で手が離せないんだってば」
 最初は笑顔で受け答えていけたものの、気を抜くと冷たくあしらってしまう。
 しまったと思って慌ててキッチンに目をやると、やはり波江さんがこちらを睨み付けていた。
 そう、これだ。これが肩凝るんだよ。
 自ら進んで余計なことしてもダメ。かと言って拒んでもダメ。……誠二君の要望を受け入れないのは、もっとダメ。
 ハッキリ言って苦痛だ。ストレスだ。
 誰かの言いなりになる調教済みの犬になるのも、操り人間になるのも俺のポリシーに反する。
 なのに波江さんは、『誠二に尽くせ』って無理無体に押し付ける。
 シズちゃんといい、誠二君といい、波江さんといい、なんで俺の周りはこうも理不尽な人だらけかなぁ……。
「臨也」
「?」
 離れた位置にいる波江さんと、軽いジェスチャーだけでやり取りをしていると、不意に俺の頬に手が添えられた。
 促されるままにそちらに顔を向けた瞬間――

 パキッ

 キッチンの方から音がしたのとほぼ同時に――
 俺の唇に、誠二君のそれが、重ねられていた。
 それは、紛れもない、キス。
 そっと触れる程度のものだったが、それでもキスだということに変わりはない。
 恐る恐るキッチンにいる波江さんの方角を見てみれば、彼女は恐ろしい表情で俺を睨み付けていた。
 睨む、なんてレベルじゃない。呪い殺されそうなくらいの、怖い顔をしていた。
 きっとキッチンから聞こえた乾いた音は、プラスチック製の計量カップの柄の部分でも割ったのだろう。後でハンズに行って仕入れる羽目になるのは俺なのになぁ……。
 後の仕打ちが恐ろしくて、どうしたところで何も変わらないけど、俺は波江さんから目を逸らした。
 ――絶対後で押し倒されて、キスされるな……。
 事前に受けた忠告を思い出し、俺の顔はみるみるうちに青ざめていった。

 ――「もしあなたが誠二と性交をした時の話なんだけど……」
 ――「誠二が触れたり舌で撫でた部分は全て、私が上からなぞるわ」
 ――「当然、あなたは受けでしょ? だから誠二が……」
 ――「……は? ……あなたが誠二を汚すなんて許されるわけないでしょ。あなたは受けよ、絶対に」
 ――「……それで、さっきの続きだけど――」
 ――「あなたの中に出された誠二のモノは、一つ残らず私が処理するわ」

 ……。
 ……うーんと……。
 ……。
 誰か男としての折原臨也の立場を、矢霧姉弟から取り戻してきてくれないかな……?
「俺だけを、見ていてくれ」
 ああ、もう……。うるさい黙れよ。
 真っ直ぐな愛と赤く錆び付いた嫉妬の炎。
 この板挟みは当分続きそうだ……。








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