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   ―――   ――――――



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      目が、覚めた。



 ゆるゆると意識が浮上する。
 ダルさのない、清々しい目覚め。
 しかし、私の目の前に広がっていたのは、残念ながら実にどんよりとしたものだった。
 ひどく淀んだ暗い空。まるで、深い深い、海の底にいるような錯覚を起こすくらいの、沈んだ色。
 どんなに目を凝らしてみても変わらない、絶望感のある世界。そう思わせる原因は、きっとこの果てしない、闇の空間のせいだろうか。
 ……それにしても、今日はやけに視野が広い気がするな。寝起きなのに……。……それだけよく眠れていたということだろうか? いや、でも……。

 暗い謎の空間で目覚めた女は、ゆっくりと上体を起こした。
 体を起こして地平線の方角を眺めてみるが、空同様に、そこに続くのはやはり薄暗い闇ばかりだった。
 さらに遠くを見据えようとした彼女は、両目を擦ろうとした。
 しかし、
[――あれ……?]
 擦っている感覚が、ない。
 何度繰り返しても手に瞼の感触はない。
 ただ、宙を切るばかり。
[……どうして……?]
 不可解な状況に、困惑する彼女。
 そんな彼女の頭の奥で、誰かの声が蘇った。

 ――"君は、死んだ"……

 唐突に、突然。
[……ああ、そうか……私は……]
 信じられないようなことだが、彼女はその『声』の信じがたい言葉を、素直に受け止めていた。
[死んだん――だった、な……]
 納得したように呟くと、胸の内がそこはかとなく軽くなる。
 しかし、不意に不思議なほどに『声』の言葉を肯定しまった自分自身に疑問を抱き、首を傾げた。
 そして再度、今度は四方八方をぐるりと見渡す。
[ここは本当に……どこなんだ……?]
 どちらを見渡しても続く果てしない闇。
 漸く彼女は、この空間の不気味さに気がついた。
 右も左も、前も後ろも上も、同じものが貼り付けられているかのような世界。
 ならば、下はどうだろうか?
 自分の下にも、同じものがあるのだろうか?
[違う……]
 彼女は、確信していた。
 自分の下には、今見ている景色と同じものは広がっていないということ。別の何かであるということを……。
 そうと分かっていながらも、彼女には下を見る勇気がなかった。
 なぜならば――
 別の何かの感触が……手や足、尻の下に……あるからだ。
 しかし、そこを見なければ先には進めない。どんなに恐ろしくても、踏み出さなくては状況は進展しないのだ。
 彼女はゆっくりと、ゆっくりと下を見る――。
 そして凍りついた。
 彼女が下に敷いていたのは――血の気が通ってない肌をした、首のない死体達だったのだ。
[な……!?]
 恐れ戦いて反射的に立ち上がると、『下』の世界がより広く見える。
 下にあったのは、首のない死体が敷き詰められた道。
 どの方角を向いても地平線の彼方に続くのは、死体の絨毯だった。
[これは……一体……!?]
 あまりにも惨い景色に、身体が震える。
 猛烈な吐き気が込み上げると共に、自身の肩を抱き締めた、その時だった。

 ――"今の君は、完全なアリスじゃない"……

 また、声が聞こえた。
[なにが……どういう……]
 戸惑う彼女に、畳みかけるように再び声が響き渡る。

 ――"君の瞳はどこへ行ったのかな?"……
 ――"しなやかな髪は、"
 ――"筋の通った鼻は、"
 ――"林檎色の唇は、"
 ――"どこへ、行ってしまったのかな?"……

 溢れ出す『声』の言葉。
 淡くて、儚い、朧気に覚えている、一度聞いたことのあるような科白に……
 彼女は、忙しなく震え続けた。
 嫌な予感が、して止まない。
[私の……顔……]
 恐る恐る顔へ手を伸ばしてみるが、瞼の時同様に、何の感覚もないこと。
[私の……頭……]
 さらに手を伸ばすが、何も。
 何も、触れない。
 そんな彼女に、まるでトドメを刺すかのように――声が蘇る。

 ――"はじめまして……"



 首 な し ア リ ス ――……



 ――――声が。
 声が声が声が、
 蘇る。
[首が……ない……!!]
 そこまできてアリスは、自分の首がないということを初めて知った。
 下にある屍同様に、彼女自身にもまた、首から上が存在しなかったのだ。
[なぜっ……どうして、私の首がっ……!!]
 現実離れしたどうしようもない真実に、困惑するアリス。
 その彼女の存在しない筈の頭に、ふと別の声が聞こえた。

 ――『その女の首をはねなさい』……

[!]
 断片的な記憶が流れ込む。
 その一つ一つを繋ぎ合わせるかのように、アリスは必死に頭の中を整理しようとした。
[確か、あの時……私はみんなといて……だけど突然、何者かの襲撃に遭って……それで、私は――!]
 しかし、組み合わさらない。
 どうしようもない真実の欠片は、どうしようもなくただの欠片であることに変わりはないのだ。
[……ッ!? ……ッッ……!!]
 完全に思い出せないことに対して、歯痒さだけが虚しく募る。
 アリスは堪えるかのように、肉に爪が食い込むほど強く強く拳を握り締めた。
 血が溢れそうなほど、強く――。

 ――「やあ、アリス。状況はなんとなく掴めてきたかな?」

[!]
 皮膚が破れる一歩手前で、まるでタイミングを待っていたかのように、あの『声』が聞こえた。
 しかし、先程までに聞いていたのとは、違う。
 先程までの『声』は、蘇る『声』だったが……今の『声』は、今聞こえた『声』である。
 その証拠に、今鳴った『声』の言葉は、ここにいるアリスの姿を見て向けられたものだった。
[お前は……夢の中の……]
 驚きのあまり、呆然と、呟く。
 頭がないため、声になっていない筈のアリスの言葉を――まるで聞こえているかのように、『声』が言葉を返してきた。

 ――「おやおや、死人が夢を見るのかい? 滑稽な話だねぇ」

 神経を逆撫でするような口振り。
 しかし、アリスの意思が伝わるというのはありがたい。
 ホッと胸を撫で下ろした時、続けざまに『声』が言った。

 ――「あれは夢じゃない、れっきとした現実さ。空白の現実、虚夢の現実だよ」

[……意味が分からない]
 うたうように紡がれたワケの分からない、意味不明な言葉に不意を衝かれる。
 声は『アハハ』と楽しげに笑った後、『俺にとっては「分からないこと」が「分からない」な』と付け足したので、ますますアリスは混乱をする。
 どれほど言葉の意味を考えてみても、『声』の言っていることは理解できなかった。

 ――「ところでさ、アリス。君は俺の言葉を忘れちゃいないかい?」

[……?]
『何を?』。そう聞き返そうとした時だった。

 ――"この屍の海から出なくちゃならない"……

[……あ]
 思い出した。
 というよりも、タイミングを見計らったように、突然『声』に言われたであろう言葉が脳裏をよぎったのだ。(まあ、頭はないのだけれど)

 ――「その様子だと、思い出してくれたみたいだね」

 嬉しそうにその一言をこぼす『声』。
 その『声』に対して、アリスは率直な疑問を投げかけてみた。
[だが……出ると言ったってどうやって……? 見たところ、出口はなさそうだが……]

 ――「出口はないよ」

[……は?]

 ――「だから、この世界に出口はないの、存在しない。ないものを探したところで、見つかりっこないでしょ?」

[じゃあ、どうしろと言うんだ!!]

 謎だらけの『声』の言葉に、怒りの頂点に達したアリスが怒鳴る。
 それを聞いた『声』は――

 ――「そう熱り立つなよ、レディーだろう?」

 先程からと全く変わらぬ、爽やかな調子で答えるだけだった。

 ――「ほら、アリス。時間がないよ。早くここを出なくちゃ、君は永遠にここへ幽閉されることになっちゃうよ? それじゃあ俺が君に命を与えた意味がないじゃないか」

[……なんなんだ、お前は……]
 その少しも改善されない物言いに、疲れ果てて肩を落として落胆する。
 アリスが自分のせいで疲弊していることを知らないのか……あるいは、故意的に知らないふりをしているのか、声はやはり容赦なく言葉を紡ぐ。
 意味深でチンプンカンプンな、意図の読めない謎の言葉を。

 ――「俺が『何者か』か……。それは、まあ……君の頭のほうにあるんだろうけどね」

[?]
『頭のほう』つまりは、頭のほうに記憶はあるということなのか。
 そう訪ねたつもりだったが、返事はなかった。
 代わりに矢継ぎ早な言葉を山のように浴びせられる。

 ――「さて、アリス。何度も言うが時間がない。早く脱出してくれないかな?」
 ――「膝を抱えて嘆いてる暇はないよ。君が死んでからワンダーランドは、崩壊間際さ。君にはこれから、もっともっと頑張ってもらわなくちゃいけないんだからね」
 ――「じゃあ俺は……そろそろいなくなるとしようかな」

 その一言に、アリスが我に返る。
[ま……待ってくれ! 私一人では無理だ、手をかしてくれ! 頼むっ!!]
 半ば縋るようにして、懇願をするアリスに、『声』は初めて沈黙を吐き出した。
 しかし、彼女がここまで縋りつくのは、無理もない話だ。
 記憶が曖昧な上に、目が覚めたら暗い空間にいて、見渡す限り屍で、おまけに自分には首から上が存在しない。
 その上唯一の救いである『声』までいなくなってしまえば、絶望的だ。
 アリスは『声』にしがみつく。
 しかし、彼女の祈りは――冷たい一言によって、簡単に砕かれた。

 ――「情けないアリス。前の君は、もっとずっと、強かったのに」

 蔑むような、呆れるような、『声』。
[え……]
 アリスはその時、返す言葉を奪われた。
 たった少しの言葉に、自分がアリスであることを根本的に否定されたような気がした。
 自分はアリスじゃなくなった。自分のどこが、『アリス』と違うと言うのだろうか……?
 答えはやはり、『分からない』だった。

 ――「大丈夫、君は賢いんだ。たとえ頭がなくても、ね!」

 打って変わって、優しい声色で柔らかい言葉をかける『声』に、ほんの少しだけ、少しだけだけれども、安心してしまっている自分がいた。
 それにも気づかずに、アリスは『声』に耳を傾ける。
 既にヒントは出されていることにも、気づかぬまま。

 ――「もう一度言うよ、アリス」
 ――「早く、この世界、から、抜け出して」
 ――「あとは俺の言った通りに」

 その時アリスは、『声』が、だんだんと遠くなっていくことに気がついた。
[お……おい!]

 ――「そのうち会うことになるからさ。ちゃんと出ておいでよ?」

 ――やはりだ。
 やはり、『声』が遠退いていっている。
 止めの言葉を叫ぶが、届かない。

 ――「みんな待ってるから……ね……」……

 その音を最後とし、『声』は聞こえなくなってしまった。





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