絶えず聞こえるのは雨音だった。
 脳味噌に叩き込むような音。その日の雨は、激しい雑音でしかなかった。
 この都会の街並みから、人を削減させてしまうほどの強い雨。
 ザーザー、ザーザー。
 途切れることのないその音に、ぼんやりと耳を傾けているのは、新宿の情報屋・折原臨也だった。
 そして、日本を沈めるような勢いで降り続ける雨の中で、ガラクタのような有様の一人の男を見つけたのも、折原臨也だった。
 折原臨也はそれを見て、白い息と共に、ある名詞を口にした。


「――シズちゃん……?」


 この真冬の雨の中。水浸しのアスファルトの上に、水浸しのバーテン服を着た青年が一人。
 それは臨也が呟いたように、『シズちゃん』であり……『平和島静雄』、そのものだった。
 静雄が普段と違う事に気づいた臨也は、いつもの調子で適当な言葉を並べることはせず、少し真剣な顔つきで静雄へと近寄る。
「……」
 アクションを起こしたにも拘わらず、何の反応も示さない静雄を、臨也は無言で見下ろした。
 冬の冷たい雨で金髪が濡れ、バーテン服は水を吸収しきっている。
 死んだように動かない静雄。だが、白い吐息が彼の生存を主張していた。
 静雄の想いは、それとはまったくの、別物であるというのに。

 臨也は、傘を静雄に差し出してはやらなかった。
 二人の関係からしてそれは当たり前のことだろう。
 だが今は、それが静雄の自虐をさらに煽った。
 ――笑えてくる。

 雨は容赦なく打ちつける。
 大地を削るように。溝を掘るように。心を抉るように。
 雨は容赦なく、静雄を追い詰める――。

「どうかしたの?」
 長い沈黙を打ち破ったのは、臨也の声だった。
 降ってきたその言葉が、臨也の口からこぼれたものだとは、到底思えない。
 まるで臨也が、静雄を気遣っているように聞こえるではないか。
 静雄は胸の内で失笑すると、そのまま沈黙を保つことにした。
 臨也なんかに返す言葉はない。『どうした』と訊かれて素直に答えてやる間柄ではないのだ。
 それなのに、臨也は大人しく静雄の言葉を待ち続ける。
 筋一つすら動かさずに、まるで空気と溶け込むかのようにして、突っ立っていた。
 だからだろう。
 臨也という違和感を雨音に掻き消されてしまったから、静雄は言葉を吐き出したのだ。
「いっそこのまま、消えて流されてぇ」
 その言葉は、静雄の頭の中で繰り返されていた、無意味な自虐行為。
 吐き捨てられた科白は断片的なもので、後にも先にも他の言葉は繋がらない。
 しかし、静雄が何かに大きく傷ついていることを知るのには、それだけで充分だった。
「……」
 何か言おうとしたのか、臨也の口元から僅かに息を吸う音がする。が、声は出ない。
 躊躇いがちに息が吐き出されるだけで、後には何も接続されなかった。
 妙な感じがした。
 きっと臨也は、真っ直ぐに静雄を見下ろしているのだろう。
 だが静雄は、顔を上げる気力すら残っていなかった。
 サングラスに水滴がついて、視界が悪い。もう、何も見えなくていい。それだけが頭の中にある。
 だから静雄は気づけなかったのだ。
 自分を見下ろす臨也の瞳は、蔑みではなかったということに。
 臨也の瞳は……。ただ、無感動な、何も読み取ることのできないものだった。
「……シズちゃんさぁ……」
 ゆっくりとした調子で、言い聞かせるような臨也の声は、存外すんなりと静雄の耳に届いた。
「自己嫌悪が激し過ぎるよね」
 溜息と共に吐き出された臨也の声に、ピリリと神経を逆撫でされる。
 しかし、何も言い返す気がしてこない上に、『その通りかもしれない』と臨也の言葉を受け止めさえしてしまう。
 静雄はやはり、沈むように俯きながら、押し黙り続けた。
 それに対し臨也は肩を竦めると、数秒何かに逡巡するような動作を取る。
 躊躇うような息遣い。彷徨うように何度も握り直される傘の柄。
 臨也はもどかしげに自身の凍えた指先を、ただただ眺め続けた。
 ――ひたすらに。

 雨は止むことを知らない。
 凍えた雨粒が、黒い傘に触れて弾け散る。
 冬の雨は、戒めるかのように静雄に突き刺さった。
 雨音が、激しさを増す。
 喧しい音。掻き乱される。
 このまま音の波に、呑まれてしまいそうだ。

「俺なんて」
 ストレートに脳に届いた静雄の声に、ぼんやりとしていた臨也の意識が、現実に引き戻される。
 静雄を見下ろしてみれば、彼は、頭を抱えていた。
「壊すしか脳がねぇ俺なんて」
 ポツリポツリ。
 低い声で言葉を吐き捨てる。
「傷付けることしかできねぇ俺なんて」
 その声が、徐々に大きくなっていく。
「何も守れねぇ俺なんて」
 頭を抱える指先に力が篭められ、
 傷んだ金髪を握り締める。
「俺を操作できねぇ俺なんて」
 言葉を、区切る。
 静雄は唇を噛み締めると、絞り出すように、でも消え入ってしまいそうな声で、小さく小さく、呟いた。
「存在する意味、ねぇじゃねえか……」
 何もかもを諦めきったかのような科白。
 彼が今居るのは、暗く深い、絶望の淵。
 失意に呑まれた静雄は、自暴自棄に陥ってしまったようだ。
 臨也は、静雄を見下ろし考える。
 ――このバケモノは、愛すること以外も何もかも、断念したっていうのか。
 何も伺うことのできない淡白な顔。
 色のない表情を浮かべる臨也は、いつになく彼らしくなかった。
 胸が、ざわめく。
 何かがつかえる。
 意味の分からない『何か』が臨也の中で膨張し、破裂寸前のところで、静雄が最後の声を上げた。
「死にてぇよっ……!!」
 悲鳴のような独白。
 助けを求めるような、助けを拒むような、矛盾だらけの声色。
 聞いているだけで息が詰まる。
 奥歯を噛み締めて肩を震わせる静雄は、泣いているように見えた。
 ――ああ、クソ、

 雨が、降っている。
 冷たくて、凍えてしまいそうな、雨だ。
 一つの黒い傘が、放り捨てられている。
 冷え切った静雄の身体を――人の体温が、包み込んだ。
 凍え切った静雄の心を――不器用な優しさが、ソッと包み込んだ。
 雨が、降っている。
 ただ雨が、降っていた。

「……シズちゃんさ……」
 耳の後ろ側から、温かい息が吐き出される。
 肩に乗せられた臨也の喉の振動が、直に伝わってくるのが分かる。
 細くて、簡単に折れそうな首だ。
「逃げられると思ってんの……? 過去から、現実から、今から……。――俺が君を、簡単に死なせるわけないでしょ……」
 薄っぺらくて、頼りない胸板。
 離さないように、強く、腕を回してくるこの男は――
 静雄よりも、もっとずっと、弱々しかった。
「散々痛めつけて、失明したような錯覚さえするほどの絶望を抱かせて、不可抗力になるまで俺は君を死なせやしない。シズちゃんが『死』を望むなら、俺はシズちゃんを殺してやらない。……俺はね、『生』を望むシズちゃんを殺したいの。……だからさ……」


「死にたいとか思うのは……まだ早過ぎるよ……シズちゃん……」


 腕に、力が篭められる。
 すがりつくような、しがみつくような腕の力に、
 何故だか笑いと涙が出た。
 冷たい雨と、温かな涙。
 だんだん冷めていくその腕の中で……
 静雄は歪な優しさに甘えて、泣き叫ぶ。
 子供の頃にできなかったこと。今更、子供のように泣きじゃくる。
 青年の痛いほど伝わってくる悲しみと苦しみの声を聴きながら、
 誰も知らない過去を生きてきた青年は、想いを閉じるかのように、静かに瞼を伏せる。
 静雄は自身の耳の裏側に、
 温かな雨が一滴伝い落ちたのを感じて、華奢な背中に両手を回した。
 抱き潰してしまいそうなほど、強く、強く――。

 この雨だって、きっといつかは止むだろう。






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