夜の池袋
 賑わいを見せる場所とは反対側の方面へ向かっていた俺は、次の角を曲がって細い道に入ったところで、そいつに出くわした。

 膝のあたりまである、ファーのついた黒いロングコート。
 闇にも負けねぇ、漆黒の髪。
 一瞬黒い狐が具現化して現れたように思えたが、黒い狐なんてこの世のどこに存在するってんだ。つか、まず狐が具現化なんてあり得ねぇだろ。
 ……ともなれば、浮かぶ奴は一人しかいねぇ。
「よお、また殺されに来たのかー? いぃーざぁーやぁーくーんーよぉお……!!」
 どうやら、俺とこの細い道でご対面しやがったのは、俺の仇敵であり大っ嫌いな男、『折原臨也』だったらしい。
 こいつには憎悪とか嫌悪しか抱いてねぇから、俺の体は瞬間湯沸かし器のように簡単に沸点を超える。臨也を見ると青筋が浮かぶようインプットされているらしい。
 まぁ、それは置いといて、だ。
 大嫌いな俺と遭遇したってのに、俺のうぜぇ同窓生くんはその場にずっと突っ立っている。
 普段なら俺の顔見た瞬間全速力で逃亡する奴が、なぜか今日は逃げようとしない。……それどころか、何の反応も示さねぇ。
 俯いたまま黙っている臨也に、いつもと雰囲気が違うことを感じ取った俺は、思わず眉を潜めた。
 けど、まぁ、あれだ……
 苛々してることに変わりはねぇからよぉ……!

 俺は偶々踏んでいたマンホールの蓋を片手で持ち上げた。
 臨也の野郎は相変わらず何もしようとはしねぇ。
 逃げようとも向かってこようともしない臨也に、武器を持ったはいいが俺は戦意を削がれた。
 苛々を溜め息に換えて吐き出して、マンホールの蓋を元の場所に戻し、今回ばかりは何も見なかったことにして、野郎を見逃してやろうと踵を返そうとした、ら――

 ナイフが煌めいた。
 月の光の反射のせいか辺りが暗いせいかは知らねえが、臨也の瞳は昼は琥珀色をしているのに、夜になると淀んだ紅蓮の色になる。
 キレイとか、そんなことは思わねぇ。
 ただ、いつも不気味に思う。
 そして、今日のそれは数倍不気味だ。
 今日の瞳は何かが違う。
 いつも鋭い眼孔をしているのは承知の上だが、今日はそれよりもっと目つきが悪いっつーか……
 荒んでる、っつーか……。
 そうこういらねぇこと考えてるうちに、俺の体が少しだけ後ろに傾いた。
 間近に見える漆黒の髪と鼻をくすぐった匂いに、臨也が突進してきたのがわかる。
 ナイフが煌めいていたことから、恐らく今俺は、臨也によって脇腹でも刺されているんだろう。
 だが残念だったな。
 俺の体は他より作りが違うんだ。
 痛みを感じねぇことから、ナイフは5ミリ程度しか刺さっていねぇんだろう。
 大したダメージはねぇが、俺を怒らせるにはそれだけで充分だった。
「手前……少し油断すればこれか……!」
 頬やこめかみに血管が浮かぶのは意識済み。
 俺は野郎の頭を鷲掴みしようと手を伸ばした。
 けど臨也は、あろうことか俺の右肩に、ぐいぐい額を押しつけてきやがった。そのせいで思わず手が止まる。
 なんだこの行動?理解できねぇ。
 やっぱり今日の臨也は変だ。勘違いなんかじゃねぇ。
 臨也が額を押しつけるに従って、ナイフも僅かに食い込んでいるのに気がついたが、きっと内蔵にまで至らねぇから平気だと思う。
 この場をどうやり過ごせばいいのかわからずに悩んでいると、微かに臨也の声が聞こえた。
 聞き取れなかった声に、耳を澄ませてやると、
「シズちゃん、嫌い」
 それは何度も聞いたことのある、科白だった。
 第一声がそれかよ。
 んなのとっくに聞き飽きたし、重々承知だ。
「嫌い、嫌い、嫌い」
「……そうかよ」
 もはや呆れて溜め息しか出ねぇ。
 ただ、いつもより口数が少なかったことが奴の救いだろう。
 これでいつもみたくベラベラわけの分からねぇこと喋っていたら、今頃臨也は俺にぶん殴られて横倒しになっているとこだ。
『嫌い』。
 それだけ言うと臨也は、また黙りこくりやがった。
 うぜぇ。うぜぇはずなのに、
 不思議とこの沈黙には、何の感情も抱かなかった。

 時間にして数秒。けど、軽く二分は経過したと思う。
 腹に突き立てられたナイフは形だけで、もうそこに力は込められていなかったが、肩に額を押しつける力だけは変わりねぇ。
 触れている部分から、臨也の温もりが徐々に伝わってくる。
 先のほうで電車が通り過ぎる音がした。

 ――なにをしてるんだ、俺たちは。

 遠慮せずに殴り飛ばせばいいじゃねぇか。
 この身を引いて、さっきのマンホールを投げつけてやればいいじゃねぇか。
 そうすればきっと、臨也だってナイフで応戦してくるに決まってる。
 動けよ、俺。
 働けよ、暴力……!
「……」
「……」
 静寂。
 俺と臨也の間に、今までも、そしてこれからも存在しないと思われていた静寂が、訪れた。
 俺たちのところに訪れたそいつは奇妙としか思われないが、この空気に、僅かに安息している俺はやっぱり異常なのか…?
 静寂の空気は壊さずに、沈黙のほうを先に破ったのは、臨也だった。
「俺は、人間が好き」
「……知ってる」
「人間を、愛してる」
「…………ああ」
「シズちゃんは、……嫌い」
「……」
「………………………………でも……」
「…?」


「たまに、わからなく なる」


 変なところで区切られた言葉から、俺はやっと理解した。
 こいつが普段と違う理由。
 折原臨也が、折原臨也らしくないワケ。
 きっと今のこいつは――
 自分に余裕がないんだ、と。
「人間がなによりも好きだ。人間をどれよりも愛してる。確信が……ある、のに…… …………どうして俺は、上手くそれに頷けないんだろう……」
 陳腐な言葉だ。
 けど、いつも新奇なセリフを口にする奴だからこそ、陳腐な言葉は逆に斬新に聞こえちまう。
 臨也はまた、消え入りそうな声で、それでも言葉を繋いでいった。
「人間を弄ぶのが愉しい。なのにどうして、こんなに悲しくなるんだろう……。 人をそそのかすことに躊躇いはないのに、どうして吐き気がするんだろう……。……なんで………… なんで『折原臨也』は、こんな人間なんだろう……?」
 微弱な振動が伝わる。
 臨也の肩を見れば、
 小刻みに震えていた。
「シズちゃんなんかより……俺は、俺自身のが嫌い。もっと、ずっと、嫌い。……それ以上に……」
 そこで言葉を切る。
 なんとなく、臨也が唇を噛み締めているような気がした。
「……ほんとは、人間だって…………」

 先のほうで電車が通り過ぎる音がする。
 掻き乱す、うるさい音だった。
 小さく呟いた後、臨也は言葉の代わりに沈黙を結んだ。
 俺たちにとって、奇妙な沈黙を。
 不思議と嫌いにはなれない、あの沈黙を……。
 沈黙を破ったのは、今度は俺のほうだった。
「手前はよぉ……」
 その声は自分でも明確にわかるほど、呆れを含んでいる。
「そうやって自分を見失うぐらいなら、最初からんなウゼェことするなよな……」
 言葉の意味は、自分でもよく理解していない。
 ただ、自然にこぼれていた。
 そして、未だに震え続ける臨也を見かねた俺は、

 自然な動作で、
 その後頭部に左手を添えていた。
 さも、それが当たり前であるかのように。
 纏う空気が、
 臨也が、
 俺自身が、
 信じられないような行動を難無く受け入れていた。
 おかしなほど、簡単に……。

 臨也が、苦しげな声を漏らした。
 肩に押し当てる力が増す。
 震えが大きくなる。
「……どうして……」
 その声だって、震えていた。
「……なんで俺…………シズちゃんのとこに来ちゃうかなぁ………………?」
「……そりゃ、俺しか手前を止められねぇからだろ」
 自分自身に怖がっているくせに、
『折原臨也』を、恐れているくせに、
 なぜこいつは、俺の腹に突き立てたナイフを手放せないのだろう。
 手放してしまえば、いいのに。
 そんなもの本当は、必要ないのに。
 なぜこいつは俺にしがみつけないでいるのだろう。
 崩れそうな自分の肩さえ抱けずに、
 ギリギリまで堪えて、
 不安定になって、
 目に見えないものに押し潰されかけているのだろう。
「やっぱり、シズちゃんなんて嫌いだ」
「……そうかよ」
 ああ、
「俺も嫌いだ」
 うぜぇ……


「「大嫌い」」





静雄さんは黒い狐なんて存在しないと言いましたが、実際はいたりしちゃってます。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -