目を凝らしても先の見えない、墨のような闇を掻き分けて進む。風のひとつも吹かない夜であったけれど、白い長そでのワンピースに裾のほつれが目立つカーディガンを羽織っただけの彼女にとっては、まこと耐え難い寒さであった。

 枷でもはめられているのではと錯覚するほど重い足取りで、一歩ずつ踏みしめるように先を行く。彼女自身、自分がどこに向かっているのかなんて分からなかった。無我夢中で動かし続ける両足は、一心に暖かい我が家へと帰る道を望んでいた。
 けれど、いくら望んだところで正しい帰路へとたどり着くことはおろか、道標となるような建物も、標識すらも見とめることは出来なかった。彼女の視界を埋めるのは、一瞬でも気を抜けば呑み込まれてしまいそうな暗闇と、両脇を陣取るコンクリート塀だけだ。濃い闇の中で恐ろしい存在感を放つ双璧は延々に途切れることはなく、ただ前に進み続ける事しか許してはくれない。
 住み慣れた町であることは違いないのに、見覚えのある道であるのに、そこがどこであるのかだけが分からなかった。常ならば肌身離さず構えていた携帯電話もどこかに置いて来てしまったらしい。これまで感じたことのない圧倒的な孤独が、彼女を深い絶望に落とし込まんとその手を拱いていた。ぽつりぽつりと等間隔で立ち並ぶ青白い街灯を、もういくつ見送ったことだろう。数える事すら億劫になって、ただ惰性のように強張る両足を動かした。

 そんな彼女の眼前に、これまで浴びていた無機質な光とは違う鮮やかな緑が飛び込んできた。墨の海を漂う緑は、幼い時分に昔話として語られた火の玉よろしく何かしらの意思をもっているかのように揺らめいた。けれども、不思議と恐ろしさや薄気味悪さといったものは湧いてこなかった。今の彼女にとってその光は、まさしく無間地獄のひと時に見つけた蜘蛛の糸であったのだ。

 彼女は僅かな希望に追い縋るように走った。どうか消えないでくれと全霊を込めた祈りが聞き届けられたのか、緑の玉は一層眩い輝きを放っている。
 今にも途切れそうな呼吸で一歩その距離を詰めるたび、彼女の足元には数多の暗闇が纏わりついた。水中を蹴るような重みに耐えて、やっとの思いで伸ばしたその右腕を力強い誰かの温もりが捉える。

 「もう、寄り道はすんなよ」

 低く、穏やかに響いた声。途端これまでの寒さは嘘のように立ち消えて、底知れぬ安堵と心地よさが全身を包んだ。

 次に目が覚めたとき、彼女は真白いシーツの海にその身を横たえていた。腕から伸びたチューブの先には、命を繋いだ点滴と、歓びの涙で頬を濡らす母の顔。瞬間、未だ不明瞭な意識の中で、気立しいクラクションと耳を劈くブレーキの音が回想される。
 ああ、助かったんだ――体中から発せられる鈍痛に生を実感して思わず目頭が熱くなる。そうして色を滲ませていく世界の中で、腕に残った緑の温もりに「ありがとう」と呟いた。
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