その日は生憎の雨だった。溜め込んだ憂鬱を少しずつ吐き出すように降る雨粒は、細く途切れることなくコンクリートを濡らしていく。日中でまだ明るいはずの空色も所々に隙間を残すような雲で覆われ、天気予報を裏切るこなく真面目にトーンを落としていた。そんな曖昧な天気を鬱陶しげに見上げる人々の中で、比較的軽快な足取りで歩く男がいた。

片手を腰のそばのポケットへ引っ掛けるように仕舞い、もう一方の手には大きなビニール傘を携えている。跳ね返る雨水が革靴を汚すことを気にかける様子もなく、頬のまあるい赤を軽く持ち上げ口元を結ぶその表情はむしろこの天候を楽しんでいるように見えた。

ふと、黒のスーツに身を包んだその男―エクボはそれに気がついた。比較的人通りの少ない住宅街の道の端、塀のすぐそばに、地面すれすれで傾かされた傘がある。何だあれ。片眉が器用にあがる。すこうし上半身を倒し覗いてみればその傘の奥に人が見えて、さらに言えばエクボはその人物の服装に見覚えがあった。さあさあと降り続ける細かな雨の向こう側に、赤いスカーフと青色のスカートがみえる。ありゃシゲオんとこの制服だな。道の端っこにしゃがみ込み、女子中学生が一体何をしているのか。エクボは怪訝に思いつつも、足を止めて思案する。ちょっとした好奇心だと誰に言うでもなくつぶやいた。決して暇を持て余しているわけではない。

シゲオの交友関係は把握しているつもりだが、あの少女を見かけたことは一度もない。知り合いという訳では無さそうだ。しかしこれだけ人通りが少ない住宅街で子供が一人となれば、物騒な事件の匂いがしないこともなく。どの時代にも一定数いる奴らの思考なんざ考えずともお見通しだとでもいうように、エクボは気だるそうに肩の力を抜きながら、遠方に見える不自然な動きをする男を眺めた。先ほどから少女を意識しすぎなのか、携帯に滑らせる指が震えているのがわかる。やれやれと漏れそうになった溜息は男に対する軽蔑というより、呆れの方が強いように思えた。どちらにせよ度胸も計画性もなさそうな男の挙動は何とも言えない気持ちにさせられる。耳の裏をくすぐる雨粒の擦れる音を聞きながら、エクボは考えた。

ここで自分が何もしなければ、間違いなく不審な男はそれを実行に移すだろう。とんとんと肩の上で軽く跳ねさせられた傘が溜まった水を落としていく。シゲオの知り合いでないとはいえここで素知らぬ顔をした上に事件が起きれば、何かあった場合巡り巡ってエクボ自身に火の粉が降りかかる可能性がある。とにかくシゲオ関連で面倒くさいことがあっては敵わないと、エクボは記憶に新しい相棒の凄みを思い出し半笑いのまま背筋を震わせた。

まあ、シゲオの知り合いでないのならむしろ好都合だ。人間は誰しも何かしらの問題を抱えている。相手が思春期の子供なら尚更だ。自分の話術があれば心の隙間へ入り込むことは朝飯前。この先神になる為に繋がりをつくっておくのも悪くはない。エクボは自身の打算的な思惑に笑みを深める。暇つぶしとはいえ我ながら有意義な時間を過ごせそうだと、止まっていた足を動かした。

男の足元で、溜まった雨水が音を立てる。エクボが動きを見せたことで、遠目に見ていた男が目に見えて動揺した。本物の素人かよ。笑い出しそうになる口元を隠すことなく口を開き、あえて声をはりつつエクボは少女に話しかける。


「よう嬢ちゃん。困ってんのか?」


なまえは傘で雨を避けながら、突然聞こえた声に驚いて顔を上げた。しゃがみこむ彼女の腕の中で子猫が小刻みに震えている。黒いスーツに身を包み堂々としたたたずまいを見せる目の前男に、なんとなく不安を感じつつもなまえは小さく頷いた。それに満足そうに口角を上げた男が、なまえと同じようにしゃがんで携帯を取り出す。「あの、お、お兄さんは…?」なれた手つきで電話をかけ始めたエクボが、少女の不安げな声を拾い自身の身分を明かす。とたんに目に見えてほっとした少女はまるで救世主をみるかのような眼差しでエクボを見上げた。ま、眩しい。エクボは憑依先の人間の名刺を握りしめる少女の、その真っ直ぐすぎる視線にたじろぎながら、けれど悪い気はせず片眉を上げた。


嬉しそうに猫を抱き寄せるなまえは知る由もない。目の前にいる男の正体が悪霊であることも、その悪霊によって知らない間に不審者が追い払われていたことも。


捨て猫を飼うことができず、けれど放っておくこともできずにいたなまえにとってエクボは突然現れた頼れる大人だ。だから、簡単に心の底から安心してしまうような危機感のなさや思わず心配になってしまうような素直さが、悪霊の神への憧憬を大いに煽っていることにだって気づくはずもなかった。

人ならざるものに気に入られた少女の青春は、少しづつ色を変えていく。雨粒の途切れた空に傘を閉じた悪霊が、赤くまあるい笑みをつくった。
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