今日は何故だか一日中体が怠くて、そしてことごとく運がなかった。何もないところで転ぶは、授業では毎回難問をあてられてそれはそれは散々であったのだ。挙句には尋常ではない程の寒気にも襲われ、これは早く帰宅せねばと考えた私はそそくさと自宅を目指していた。額に手を当ててみたが特に熱もない。にもかかわらず冷えきっている両手を懸命に擦り合わせて、私はその鉛のように重たい両脚を必死になって動かした。風邪ではないとしたら一体この症状はどこからくるものなのか。もしかしてこれが"悪霊の仕業"というものなのだろうか。そう思考した途端背筋が一段と冷たくなって、ぶるぶると体が震えだした。とにかく、早く帰ろう。体を縮こませながらいつもの道を歩く。
しかし突然「危ない!」と、女の人の悲鳴に似た声が耳を劈いた。それは誰に向けているのか、弾かれるように顔を上げれば何故か近くに立てかけていたはずの鉄パイプが数本、こちらに向かって落ちてくるではないか。彼女の言葉通り、危ない状況だ。そう思ったところで怠い体は何も変わらないまま、指先すら動かせない。私はゆっくりと死を覚悟した。

「嬢ちゃん、あぶねえぞ」

そんな私の耳元で響いた優しい低音に、思わず息を呑んだ。気付けば私は誰かによって抱き竦められていて、少しの間宙を浮きやがて地面へ着地した。何が起きたのか思考が追い付かない。けれども視界の隅には私を押し潰すはずだった鉄パイプが地面を転がっており、少なくとも私が最悪な未来を迎えずに済んだということは理解できた。
そして、今私をかばってくれたこの男の人が紛れもない救世主だということも。

「ふーなんとか間に合ったな、大丈夫か?」
「あ……ありがとう、ございま、っ」

命の恩人にしっかりお礼を伝えたいのに、声が掠れてうまく出せない。怖かった。もしかしたら死んでいたかもしれなかった。そう考えるだけで体の震えが止まらない。するとまるで泣く子をあやすかのように、男の人は私の背中を優しく撫で「怖かったな、」と。また低い声が耳を擽った。

「それにしても相当強いもの憑けてんなァ、お前さん」
「……え?」
「中にはさっきみたいな攻撃的な霊もいるから気を付けろよ?」

ま、俺様にとっちゃあ下級野郎だがな。そう言って彼はポンポンと私の肩を二度叩いた。すると不思議なことに、今まで感じていた怠さや寒気が嘘のように一瞬で消えたのだ。まさか本当に、あれが悪霊の仕業だったなんて。目を丸くしているとすぐに男の人は私から手を離し、そしてじゃあな、と早々に背を向けてしまう。私は慌てて彼のスーツの裾を掴んだ。

「あの……!何かお礼を、」
「はあ?そんなのいらねーよ」
「そういうわけには、せめて名前だけでも!」

危ないところを助けて頂いた上に、悪霊も祓ってくれて。そんな命の恩人に失礼はできない。お願いしますと頼み込めば彼は小さく「エクボ、」と呟いた。

「エクボさん、あの、また会えますか……?」

今度改めてお礼がしたい、そんな思いも込めて彼にそう伝えると、エクボさんはゆっくりとこちらを振り返った。ぱちりと合った彼の瞳はどこか憂いを含んでおり、私は首を傾げる。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には彼の大きな手が伸び私の頭を豪快に撫でてきた。

「また会えるといいな、嬢ちゃん」

やがて手を離し、私と視線を合わせながら彼は口角を上げた。悲しそうに笑うひとだと思った。そして彼は今度こそ踵を返し、人混みへと消えていく。私はその背中を、ひとり眺めていた。

(おかしいな、)
彼に祓ってもらったばかりだというのに、胸の奥がずしりと重くなった。体も手の先もどうしてか熱くて仕方がなく身震いさえしてしまうこの感覚は、まるで彼に取り憑かれてしまったかのようで。本当に、おかしな話だ。彼が悪霊のはずもないのに。
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