└2

 カレーを食べ終えたヒナちゃんは「ちょっと失礼」と言って部屋を出ていった。
 トイレやろか。

「……」

 急に静かになった部屋に、開けた窓から穏やかな風が入り込んでくる。部活棟は本校舎から少し離れたところにあるので、聞こえてくる遠くの会話は言葉にならず、ただざわざわとしたざわめきとして耳を撫でる。
 今日は梅雨に入ってから久しぶりの晴天で、六月の太陽はぽかぽかと暖かい。ええ天気やなあ。
 しかし腹も満たされて、内側からも温まってくると――急激に眠気が襲ってきた。

「あかん」

 眼鏡を外して目頭を抑える。それから、缶に残っていたブラックコーヒーを飲み干した。それでもまだ眠たい。昨日も日付を超えるギリギリまで、謙也の新しい必殺技開発の電話を受けていたのが敗因だろうか。いや……どれだけ睡眠を充分に取っていても、この陽気では慈郎でなくとも昼寝に興じたくなる。
 眠気覚ましにと読みかけの本を開くが、眠気に覆われた頭はぽやぽやとしていて中々文字を追うことが出来ない。

「ふぁふぁいま」

 そうして四苦八苦していると、歯ブラシをくわえたヒナちゃんが戻ってきた。
 ……ああ、まあ、カレー食ったしなあ。

「おかえり」

 頭では理解出来ても、シャコシャコという愉快な音につい笑けてしまう。文庫本で顔を隠すように俯いて、肩を震わせる。

「うん?」

 つられて少し笑い声の混じった問いかけ。その声はいつ聞いてもひどくなめらかで、彼女の柔らかい部分が垣間見えるような気がした。
 


 

「忍足って歯並びいいねー。スポーツ選手には、必要らしいよ」

 今日はお互いに部活もなく、並んで電車に揺られる。駅のホームでたまたま会ったのだ。

「そうなん? 矯正かけてくれた親には、感謝せんとなあ」

 午後の授業はなんとか乗り切ることが出来たが、心地よい揺れにはやっぱり瞼が重たくなってくる。キラキラと流れていく日差しが、かろうじて意識を留まらせた。
 それは隣に座ったヒナちゃんも同じようで、いつもより声に覇気がない。

「そうねぇ……眠いねぇ」

「それなぁ……」

 ――ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 十六時ちょっと前。電車の中は今日に限って人数が少なく、向かいの小さなおばあちゃんもうつらうつらと船を漕いでいる。日差しは穏やかで、空はまだ水色。緑は夏に向けて少しずつ濃い色に変わっている。
 肩に、さらりとヒナちゃんの長い髪が触れた。

 気づけばきっちり一時間も乗り過ごしてしまった。
 俺とヒナちゃんは真顔で顔を見合わせて、どちらともなく見知らぬ駅に降りていった。





 普段降りない駅というのは何を見ても新鮮で、簡単な冒険気分を味わえる。ヒナちゃんは物珍しそうに、商店街に並んだ店を眺めている。
 喉も乾いてきたので、喫茶店でも探そうということになった。

 探索をはじめてから十分ほどすると、ヒナちゃんが「あそこは?」と一件の店を指差す。
 そこはいかにもちょび髭のマスターこだわりの珈琲――コーヒーやなくて珈琲なのがポイントや。――を出す古きよき喫茶店といった店構えだった。「スタバとかじゃなくてええの?」とからかえば、「あそこはおやつだから」と笑い返される。
 『夕陽亭』と書かれたその店は、やっぱり黒いベストを着たマスターがいて噴き出してしまいそうになった。

 注文したアイスコーヒーを飲みながら、向かいでオレンジジュースを美味しそうに飲むヒナちゃんを眺める。
 日差しは金色で、彼女の明るい髪の毛も同じ色に光っている。映画のワンシーンのようだと思う。思ってから、まだ寝ぼけているのかと自分の頬をはたいた。

「うん?」

「なんでもあらへん」

 それから俺が今日読んでいた本の話になった。『オペラ座の怪人』だと表紙を見せれば、「映画は見たよ」とヒナちゃん。
 いわく彼女はあまり読書はしないらしい。その代わりに映画、とくに恋愛映画が好きだと言う。彼女は他人の恋愛話を聞くのが好きなので、それの一貫としてだろう。

「俺も映画がよかったから、買うたんや」

「すごいキレイな映像だったよね。衣装も可愛かった」

 それからクラシカルな美貌のヒロインを丁寧褒めて、少しだけ顔を曇らせる。

「ただ……三角関係って、苦手なんだよねぇ。恋愛なんて、二人だけの話でいいじゃない」

 恋愛映画で三角関係にならないものを探すのはさぞや大変だろう。
 俺自身はそういう恋の鞘当てなんかも映画を盛り上げる一因だと思っているので、嫌いではない。ただしは浮気や心変わりは却下。

「恋愛が人生の一部やったら、第三者が関わるのもしゃあないと思うで」

 そう言ってから折角の『珈琲』が氷で薄まってしまう前にと、ストローを吸い上げる。
 しばらくの沈黙。……やめてや。
 顔を上げれば、ヒナちゃんが感心したように瞳を輝かせていた。

「がんちくー」

 どう聞いてもひらがな発音。多分意味してるのは『含蓄』だろう。その表情に悪意は見受けられないけれど、「すっごい煽り方しよるなあ」。口は素直だった。
 ヒナちゃんはクスクス笑って、「煽ってない煽ってない」とのたまう。

「なるほど、恋愛が人生の一部……ねえ」

「ヒナちゃんは、誰かが悲しむのがキライなんや」

 言ってからなにを知ったような、と思ってしまう。こっぱずかしくなる前に、さっきの仕返しとして「お優しいわ」と付け足した。
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