二日目

 早起きなんてするものじゃないな、と思いながら、私はあくびを噛み殺すことなく教室のドアを開いた。
 早起きが三文の得だと言ったのは誰だろう。

「おはよう」

 私ノーベル文学賞を差し上げたい。

「おはよう、乾くん。ずいぶん早いね」

 入学したてなので、席は名前順だ。つまりドアを開いた瞬間、大変近くにある彼の笑顔に迎えられることになった。乾貞治フォーリンマイエンジェルグッドモーニングビューティフルワールドアンドコングラチュレーションフラワーオブライフ。
 私は心の涙を隠しながら、朝日に照らされる乾の清らかな笑顔を網膜に焼き付ける。

「部活の朝練を、見学してきたんだ」

 尊い。

「そうなんだ。もう入る部活は決めてるの?」

 白々しい質問が口から勝手に出て行った。
 その間も、私の視線は乾を包み込む。こんな視野の広さは始めてだ。
 彼の下ろしたての制服は、もうすでに丈が合いつつある(菊丸や不二はまだまだ着られている感は否めないのに。育ち盛りである)。それでも成長段階の手や首筋は少年めいていて、筋張る前の不思議な滑らかさだ。

「うん」

 うん!

「テニス部にするつもりだよ。小学校の頃からやっていたしね」

 うん!
 漫画を読んでいた時も思っていたが、このあどけない口調から段々とあの凛々しくもおちゃめな話し方になるなんて、なんという『素晴らしい成長』(ワンダフル・グロウ)。これからはそれをつぶさに見守れると思うと、この感極まりっぷりで世界を平和に出来そうだ。

「そうなんだ。いいね、好きなことがあるって」

 鞄を下ろしながら言う。一瞬、乾は少しだけ自身の凛々しい眉をひそめた。
 多分まだ、彼はテニスのことを考える度に、何も言わずに姿を消したあの男を想起するのだろう。柳蓮二ずるい。ずるいや柳蓮二。

「佐波さんは、もう部活は決めてるの?」

 ああ畜生、にやけそうだ。私も乾のように分厚い眼鏡でも掛けたほうがいいかもしれない。

「まだ悩んでて、どうしようかな」

 ふわふわのほっぺ。小さな口、やわらかそうな唇。通った鼻筋、聡明さが溢れ出る額と眉、腰のある黒髪。

「ああそうだ、入学式の時はありがとう」

 生まれてくれてありがとう。めでたい、愛でたい。

「助かったよ」

 ようやくお礼も言えたし、その後は乗り物酔いに効く食べ物などを教えてもらって、大変、大変幸せな一日のスタートとなった。 





 幸せを噛み締めながら授業を受ける私に、ふいに一抹の寂しさが首をもたげる。
 『本当の私』を誰にも見せられないだとか、『本当の理解者』は一生手に入らないんだろうだとか、青臭い十代の寂しさはすぐに成りを潜めた。唯一残ったのは、この乾への溢れて余りあるパッションを誰にも言えないというオタク特有のアレだ。
 『恋バナ』(オタクトーク)が出来る友だちが欲しい。今日こんなことがあったのキャッキャッ。が出来ない虚しさというのは中々来るものがある。

 欲望には果てがない。そんなことを考えながらも、視線は斜め三つ前の乾の背中に注ぐ。捧ぐ。アイホープユー。
 憂いと愛しさの入り混じったため息が、口からこぼれた。

「……どうしったの? 悩みがあるならこの菊丸さまに話してみろい」

 尊さのあまり涙が出そうだよ菊丸くん。
 授業中なのでひそめられたその声には、茶化すような軽さと心配そうな柔らかさが含まれていた。
 お友達思いのいいやつだとは思っていたけれど、隣の席だと言うだけでこんなにもため息の捕球率が高いなんて。

「なんでもないよ。優しいね菊丸くん」

 いっそ彼に協力を仰ぎついでに話し相手になってもらおうとも思ったが――外堀から埋めるのはあまり私の本意ではない。
 菊丸を信用しないわけではないが、きっと四方八方は嘘でも二方向くらいには筒抜けになってしまうだろう。思いが他のクラスメイトにバレて冷やかされるのも、私は乾となら嫌じゃないっていうかむしろ嬉しい最高ハッピッピ。だが、出来れば普通のお友達期間も欲しい。
 かくもオタクというのは、好きなキャラの360度を味わい尽くしたいわがままな生き物である。

「ふーん? なら、あんま辛気臭い顔すんなー」

 照れたのか、わざとニヤニヤと意地悪そうな顔をつくってみせる菊丸まじまじラブリー。
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