携帯電話4
「リメイク元も見てみたくなるな」
「そうねえ。私はもう……スネコスリ……っ!」
映画を見終えて、私と乾は映画館の近くにあるお蕎麦屋さんに入った。鴨南蛮うまい。
乾はシュールな顛末にしばし言葉を失っていたけれど、映画館を出る頃にはようやく「おもしろかったね」と感慨深そうに言った。彼なりにあの展開を消化したんだろう。あずき。
私と言えば、なんとか上映マナーの映像が終わるまでには正気に戻ることができた。なぜ気を失ったのか。なぜ俳句を読んだのか。そもそも二人きりじゃない。日曜日の映画館は満員御礼だ。
「あそこは、辛かったね」
「スネコスリ……」
かくも恋する乙女というのは難儀なものだね。世の片思い女子の九割は、映画館で失神はしないだろうけど。
それにしてもスネコスリ。思ったよりぬいぐるみだったスネコスリ。思い返すだけで、涙腺が緩んでしまう。
「それにしても――『真っ白な嘘』、かあ」
『他人のためにつくのが真っ白な嘘、自分のためにつくのが真っ赤な嘘。それが大人になること。』
ハチャメチャなキャストとコミカルな展開を織り交ぜながらも、締めくくりはどこか切ないものだった。
「まっしろな、うそ」
意味のないおうむ返し。
お蕎麦をズルズルとすすりながらも、頭の片隅がひんやりとする。
こうやって乾と話している間も、私は彼に嘘をつき続けている。どうでもいいものから、色々。これは白い嘘か、赤い嘘か。言ったところで仕方がないことは、前世について。後ろめたいのは恋心。ならこれは、ピンクの嘘とでも言おうか。
「川姫、えっちだったね」
口先から出ただけの言葉だ。ヒロインのぬるりと濡れた白い太ももは、映像として私の脳裏には浮かばない。なぜだか文字情報としてだけ、意識下にあった。
――嘘と真実と、黙ってることと本当のこと。
「……そ、そうだっけ?」
白かろうが赤かろうが嘘だろうがなんでもいいな。乾が可愛いことだけが真実だ。
乾は耳まで真っ赤にして、お蕎麦の器に顔を埋めんばかりに俯いた。
KAWAII。トゥルーオブカワイイ。なんて、初でピュアで天使で愛らしいんだ。
鼓膜に染み渡る言いづらそうな相槌を噛み締めながら、飴色のテーブルに顔を突っ伏せる。かわいい。可愛いオブ可愛い。
「ごめん、なんでもない」
しかしこれは、まごうことなきセクハラ。性犯罪だ。ごめんね乾、射殺を許可します。
「う、うん……」
はーーーーーーー射殺してくれーーーーーーーー。
「佐波、大丈夫?」
「もみじおろしが、目に染みたの……」
▼
最近は乾貞治に関するものなら罪悪感さえ甘美だ。とてもよくない傾向だと思う。
手慣れた自己嫌悪に浸る私と、店内に陳列されたスニーカーのソールをじっくりと眺めている乾貞治。わーいかわいいー! 好きー!
ここは映画館、蕎麦屋に続いて目的地三つ目、靴屋だ。
ランニングシューズを見繕ってほしいという私のわがままに、乾は笑顔で快諾してくれた。多分天使なんだと思う。
私の為に、私の為に!? 悩んでくれている乾の顔は、真剣でそれでいて楽しそうだ。チームメイトの練習メニューを考えたりするのが好きな乾は、きっとこういうこと嫌いじゃないんだろう。
そうだといいなあという私の願望が、目を曇らせていないなら。
「好きなソールの種類とかあるかな?」
「い、いいえ」
区別もつきません。
美しい横顔をいつまでも眺めていたかったけれど、流石に不審に思われてしまう。
棚と棚の間の狭い通路をウロウロとしながら、この靴乾貞治(15歳)に似合いそう! とか、この靴は29歳! とか、選のない遊びをしていく。今履いてる黒のスニーカーもとても似合ってるよ乾。好き。
狭くない店内をぐるりと一周しても、乾は先ほどと同じ場所でスニーカーを見つめていた。私もスニーカーになりたい。今はちょっとしたストーカーだ。なんちゃって。
「佐波」
しばしその美しい佇まいを眺めていると、こちらに気付いた乾がちょいちょいと手招きをする。かわいい。一挙一動がかわいい。この世の奇跡。世界遺産登録決定。ミリオンセラー。
「これ、履いてみてくれる?」
さながら花に誘われる虫のように彼の元へ舞い戻る。さすがにそれは比喩だけど、もしかしたらスキップくらいはしてたかもしれない。
差し出されたのは、白地にピンクのラインが入ったランニングシューズだ。パンプスを放り出して、いそいそと靴を履き替える。
あらかじめサイズは伝えておいたので足にぴったりとおさまった。ちょっとしたシンデレラ気分だよ王子様。
「うん。似合ってる」
店員さん、これダースでくださる?
「履き心地はどうかな?」
シンデレラから有閑マダムに転身をとげた私を満足げに眺めてから、乾は小首をかしげる。
例え百kgの靴だろうと、君が選んでくれたなら履く! 褒めてくれたらもうそれしか履かない!
勿論そんなものを彼が選ぶはずもなく、足踏みしてみると予想以上の軽さに驚いた。パンプスに収まっていた指先の開放感を差し引いても、とてもいい靴だと思う。さすが乾。好き。ヒューヒュー。
「軽くていいよ。折角乾が選んでくれたし、三足くらい買おうかな」
私としては本気×4だったのだけれど、冗談として受け取った乾は朗らかに微笑む。
「足は一つなのに?」
「足は二つだよ」
「靴も二つだよ」
そうですけども。
▼
靴屋の次は出来たばかりのクレープ屋に行って、本屋をぐるっと見て、帰ろうかの時間になるもなんとなく離れ難くて駅への途中にあった公園で三十分くらい話をして、バイバイして、いま!
時間が剛速球で過ぎた。剛速球すぎてまだ午前中の気分だけれど、駅のホームは夕陽できっちり赤い。
幸せな、日曜日だった。――私は今日という日を、忘れるまで忘れません。
楽しすぎて幸せすぎて、夢だったのではないかと思う。でも手に確かな重みを伝える靴屋の紙袋が、今日一日が現実であったことを証明してくれる。
にやけそうになる頬を抑えていると、携帯が浮かれたメロディをチャカポコと鳴らす。
なんだよ、人が浸っている時に乾!?!?
「は、はい! お疲れ様です、佐波です」
慌てて電話に出る。ちょっと前世も出た。
「もしもし、乾です」
こちらに合わせて名乗る乾貞治は、もう聞き飽きただろうけどめちゃくちゃ可愛い。もしもしだって。福音書の一行目じゃない?
「さっきぶりだね。どうしたの?」
一旦携帯から口を離して咳払いをして、平静を装って笑う。
「今日はすごく楽しかった。映画、付き合ってくれてありがとう」
そんなアカデミー賞ものの演技も、優しい声にグズグズと崩壊してしまう。「わ、私も! すごく楽しかった……こちらこそ、ありがとう。あの、靴とか」と返事する声は、笑えるくらい上ずっていた。
「それなら、よかった。それだけ、なんだけど……じゃあ、また明日」
携帯電話越しに聞く乾の声はいつもと少し違っていて、いつもと同じように愛しかった。
「また明日。――あの、さあ! また……どっか、遊びにいってくれる?」
しかし一世一代の勇気は、けたたましい音を立てて到着した電車にかき消される。世界の性格が悪い。負けぬ!!
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