携帯電話1

 新学期がはじまった。つまり、席替えだ。
 もう泣くかと思った。それまで乾の斜め後ろの席という最高のポジションだったというのに――三つも後ろの席になってしまった。乾の背中が、遠い。……本当に、人間の欲と言うのは際限がない。
 ため息をつきながらも、携帯についたストラップを眺める。
 黄色の飾り紐に、白と青の混ざったとんぼ玉。こわばっていた頬が自然とにやけてしまう。

「おばあちゃんの家に行ったんだ」

 盆明けの活動日。そう言って、乾はこれをくれた。乾からのお土産というだけで私の幸せは許容範囲以上だったのに、「佐波が着てた浴衣みたいだなと思って」。
 ――泣き崩れなかったことを褒めて欲しい。

 夏休みの間はそれはもう夢のような日々だった。宿題ははじめの三日間で終わらせて、さっさとないものとするのが前世からの習慣だった。
 つまり残りの一ヶ月以上、私は乾のことだけを考えて、部活に行ったり、乾と他校に偵察に行ったり、お祭りで偶然あったり、部活に行ったり、本を読んだり、部活に行ったり、友だちと遊んだり、部活に行ったり、乾にお土産をもらったり、部活に行ったりした。部活漬けだ。

 日焼け止めは一応塗ってはいたが、そこは大雑把な私である。見事に焼けた。乾貞治、褐色の女の子はどうですかね。







 教室に広がっていた休み明け独特の落ち着きのない空気も、九月の一週目を過ぎれば収まっていった。かと言って夏はまだギラギラとしているし、セミはうるさい。
 学校にいる時は気にならないのだけれど、家の最寄り駅に着いた瞬間、もう。ジワワワワワ――。ジワワワワじゃないわよ。

「電話してても、友だちにうるさいって言われた」

 恒例の朝の会も、席が離れてしまってから話しにくくてしょうがない。明日こそ、乾の机まで椅子を引っ張っていこう。

「佐波の家の方って、たしか大きい公園があったよね」

「あそこに密集してるんだろうなあ。踏むからやめてほしいよ」

「踏むんだ」

 ふと笑い声とともに揺れる乾の背中。その眩さに、毎朝のことなのにいまだに目がくらむ。瞳に録画機能が欲しい。

「踏むんだ……」

 私に踏まれたセミも、この輝きの為だと思えば本望だろう。成仏してくれ。そして来世はうちの玄関で死なないでくれ。
 
「そうだ。佐波は携帯電話を持っていたよね」

 セミの冥福と来世の平穏を願っていると、乾が思い出したように鞄に手をやった。「もしかして、乾も買ってもらったの?」とつい食い気味で尋ねてしまう。

「ああ。その、他校に偵察に行く時の待ち合わせの時とか、連絡したいから」

 乾は真っ白な携帯を握りしめて、こちらを振り返った。

「……メールアドレス、交換してくれないかな」

 するーーーーーーー!!

「よければ、だけど」

 もう無理死にそう。
 無意識だろうか。乾は顎を引いて、珍しく上目がちにこちらを伺っている。なにその顔。かわいすぎる。心に暴風雨。君の瞳はハリケーン。

「教えてくれなかったら、泣いちゃうところだったよ」

 それにしても、自制がうまくなったものだ。冗談めかして笑ってみせる私の声色は、金田一の犯人もかくやという名演技だ。
 乾はふと緊張を解いて、「それは困る」と笑った。

 私は困っている。
 席を立って、手が震えないように、必死に赤外線を合わせる。気を抜いたら喜びと緊張でヴァイブレーション佐波になってしまう。
 私はメールアドレス受信と出たダウンロードバーがじわじわと伸びていく様を、幸せを噛み締めながら見つめた。
 赤外線通信。真新しくて、懐かしい文明だ。


 授業が始まっても、携帯から手が離せない。机で手元を隠して、何度めかわからない確認作業をする。
 乾からもらったストラップがついた携帯には、乾のアドレスが入っている。嘘じゃない。これが、現実。
 ――私の幸せは、いま携帯電話の形をしている。

 それにしても、
・亜久津
・乾
 と並ぶアドレス帳は冗談みたいだ。
 そういえば、亜久津は元気だろうか。どうせ返ってこないだろうなと思いながらも、魚の絵文字だけのメールを送信する。
 それから三時間後、怒りマークの絵文字が送られてきた。亜久津って絵文字とか使うんだ。
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