わくわくともっととはじめてと
梅雨が開けると世界はペンキを塗り替えたように、一気に夏へと染まった。
肌を刺す日差しがテニスコートに濃い影を刻む。真っ青な空を侵食する入道雲は、カリフラワーに似ていると思う。断続的に聞こえる、熱気を切り裂く鋭いサーブの音。この鮮烈な響きが俺は好きだった。
「いーぬい!」
開いたコートの片隅で球拾いをしていると、クラスメイトでチームメイトの菊丸が楽しげな声とともに後ろからぶつかってきた。勢い余って、抱えていたテニスボールをこぼしてしまいそうになる。
「なんだよ」
「なんだよじゃなーい! あっち見ろよあっち!」
友人ははしゃいだまま、俺を羽交い締めにした。それから、首を無理やり校舎側のフェンスの方に向けられる。
いつものことながら見学者が多い。関東の強豪校と呼ばれるだけあって、練習を見ているだけで楽しいのだろう。俺も先輩たちや手塚くんたちのプレイを見ていると心が躍った。
けれど菊丸がなにをそんなに喜んでいるのかわからなくて、「なに?」と尋ねる。彼は驚いたというように目をまん丸く見開いた。
それからわざとらしくため息をついて、「乾に言った俺がバカだった」と失礼なことを言う。
「そう言わず、教えてよ」
全く腹が立たないと言えば嘘になったが、それよりも好奇心のほうが勝った。なんだか興味深いデータの予感がする。
「……しょうがないなー! あそこ! 一年女子が固まってるとこの真ん中」
一拍置いて、菊丸は気を取り直したように笑った。
彼は跳ねっ返りが強く気分屋なところもあるけれど、実は結構面倒見がいい。年上の兄弟ばかりだと言っていたから、頼られるのが新鮮なんだろうか。人懐っこさも相まって、来年にはいい先輩になると思う。
彼が示した場所には、同じクラスの髪の長い女の子がいた。最近宿題の確認なんかをするようになった、隣の席の子だ。「相田ってちょっとかわいいよなー。誰のこと見に来てるんだと思う?」と、菊丸は更に声を弾ませる。
「誰だろうな」
なるほど、菊丸はああいう子が好みなのか。そう思いながら相槌を打つと、もう一度ため息をつかれた。
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朝練のある日は6時10分から、ない日は7時20分からの三十分間。
こうやって佐波と二人で話す時間は、なんだか秘密の作戦会議みたいでワクワクしてしまう。話す内容はそんな大層なものではないけれど。
「昨日図書館に本を返しに行ったんだけど、やっぱり九巻だけなかったよ」
この時間、俺はデータをまとめたりしているけれど、佐波はいつも本を読んでいる。この間までは『ファーブル昆虫記』、今日は『はじめての経営学』。その前は確か、『そして誰もいなくなった』。あまりにもジャンルがバラバラなので理由を尋ねてみると、「他の本を読んでると、名前が出てきたり引用されたりしてるから」と答えてくれた。それから「『カラマーゾフの兄弟』はね、途中で寝ちゃった」と照れくさそうに。
「だから新しい本なんだ」
「文字は見たことあるけど、意味は知らなかった言葉がやさしーく説明されてる」
「へえ」
「クライシス・マネジメント!」
「どういう意味?」
「……ちょっと待ってね」
「乱読は身にならないなあ」と慌てて前のページに戻る様子がおかしくて、俺は肩を震わせた。
佐波は大人っぽいようで子どもっぽくて、子どもっぽいようでミステリアスだ。
たよりなさげで、穏やかで、気が強くて、不器用で、よく笑って、あんまり笑わなくて、意外とミーハーで、しっかり者で、結構ドジ。
彼女の新しい一面を見つけるたびに、俺は変わり種のマトリョーシカを開けている気分になる。女の子の中からパンダが出てきたと思ったら、そのパンダからはブロッコリーが出てきたり。
佐波は今までにないタイプの友だちで、話す度に次はなにが出てくるのだろうとワクワクした。
「佐波は読書家だな」
はじめて彼女を呼び捨てした時は、テニスではじめてサーブが成功した時と少しだけ似た達成感があった。――ちょっとラインぎりぎり、むしろオーバー気味に日和ってしまったけれど。振り返った佐波の顔ははじめて見る柔らかい表情をしていたので、勇気を出してよかったと思う。
「この朝読書の会のときだけだよ」
「朝読書の会なのかこれ」
「ふふ、乾はなに書いてるの?」
「先週、緑山を見学に行っただろ。その時のデータと、月刊プロテニスの情報をまとめてたんだ。今月はちょうど、あそこのコーチのプロ時代の特集があって――」
佐波は興味深そうに相槌を打って話を聞いてくれるので、ついつい喋りすぎてしまう。俺の長い話を、こんな風に真剣に話を聞いてくれる子は少ない。
柔らかな声で「やっぱりコーチの教え方で変わるんだね」とか自分なりの解釈を話してくれる顔が、俺は好きだ。
先月の日曜日、彼女から俺と話す時は緊張してしまうと言われた。驚いた反面すこし嬉しかった。
俺も――『教授』と友だちになったばかりの頃は、肩に力が入ってしまっていたことを思い出したからだ。もっと仲良くなりたくて、呆れられたり嫌われたりしたくなくて。そういう風に佐波も思ってくれていたなら、とつい考えてしまった。
なにせ俺はこの気のいいマトリョーシカのような友人と、もっと仲良くなりたいと願っている。
本当は毎朝の三十分じゃ足りない。もっと話したいことも、もっと聞きたいこともある。
それでも他の時間に話しかけられないのは――。
「そろそろ、部室行こうか」
話しかけられないのは、なんでだろう。
佐波の色の薄い髪が、窓から入り込んだ夏風になびいた。
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