初挑戦1
入学してから一ヶ月半。衣替えも間近だと言うのに、乾貞治と私の交流は、いまだ早朝の教室での三十分間だけ。
あとは時々部活がない日の放課後(他校への偵察)。
――部活中もクラスでも、私は乾に話しかけられずにいる。彼と話すときの私は猫かぶりがすごく、他の人がいると気恥ずかしくなってしまうからだ。なにせ声がオクターブで違う。
なにが言いたいかと言うと、その毎朝の貴重な三十分間を私はとても大切にしていた。何よりもかけがえのないものだと思っている。
……だというのに、今日はしっかり三十分、寝坊してしまった。
私は普段は使わないバスに、渋々乗りこんだ。青春学園は最寄り駅から、結構な距離がある。いつもは乗り物酔いが酷いので根性で歩いていたが、今日はそんなこと言っていられない。
バスの不愉快な揺れを思慮外に追いやり、さて今日は何を話そう。貴重な三十分の過ごし方を考えていれば、あっという間に――。
「あれ? おはよう、佐波さん。バスなの珍しいね」
このバス、三時間くらい道に迷ってくれないかな。
「おはよう、乾くん」
座って、と隣の席を叩く。並んで座るのはもう慣れたもので、心を乱されたりなんか、「いつもより話せるね。嬉しいな」ンーーーーアッ!
朝日を背にした無邪気な微笑みに刺されて死ぬ。3コマ戻る。明日もバスにしようかしら。
「私も嬉しい」
それからあれそれと話していれば、本当にあっという間に学校についた。アインシュタインは真理だ。
公共の場なので声を潜めていたけれど、いつもよりはしゃいでしまったと思う。私は勿論だけれど、乾も。思いがけないタイミングで友だちに会うというのは、なかなか嬉しいものだからだろう。友だち。乾と友だち。甘美な響きだ。
「そう言えば、昨日おばあちゃんの家から野菜がたくさん届いたんだ」
教室についてから、乾は思い出したように言った。乾、野菜、中学一年生、台所爆発。それはもう少し先の話。
嫌な汗が背筋を伝ったが、なんでもないように「そうなんだ」と相槌を打つ。全てを愛するよ乾。いつでも持ってきなさい。
「絹さや、キャベツ、ニラ、アスパラ、新ごぼう――」
指折り数え、乾は嘆息をついた。
彼の口から発せられると、ただの野菜の名前もまるで魔法の呪文のように聞こえる。メルヘン。
「父さんも母さんも忙しいから、あんなに食べきるのは大変そうで」
凛々しい眉も今は柔らかくハの字を描く。その物憂げな表情はたまらないものがあった。具体的には心の中のおじさんが。
しかし大量の野菜か。我が家だったら絶対に使い切れないな。祖父と二人暮らしの身には、そう思われてならない。老人と女子中学生では、食べる量もたかが知れている。
「野菜は手間かかるもんね」
「佐波さんって料理出来るの? すごいな」
さりげないアピールに、『苦手科目:家庭科』の乾貞治は、ぱっと表情を明るくして褒めてくれる。いやいやそんな。必要に迫られただけで。おほほ。
自分でほのめかしておいて、照れくさくなる。私は誤魔化すように笑顔を作った。
「俺も挑戦してみようかな。そうしたら、野菜も無駄にしなくてすむし」
――エプロンつけて三角巾巻いて、包丁を白い手で握る。キッチンに立つそのいとけない姿を想像するだけで、目がくらんだ。家族に、なろうよ。台所爆発してもいいよ。一緒に荒野でテントを張って、そして遊牧の民になろう。
「何か作ったら、食べさせてほしいな」
「今お願いしようと思った。頑張るね」
新婚みたいな会話じゃないか、これ。
次の日、乾貞治は大量のレシピ本と、栄養学の本を持ってきた。勉強家……好き。
今朝の三十分間は、読書で終わりそうだ。
「食べ合わせとか、料理方法で栄養素が壊れてしまうとか。料理って、色々奥が深いんだね」
ひときわ分厚い本に目を通しながら、乾は関心したように言う。
そんなこと考えたことがなかった。私が人参の皮を剥かないのは栄養というより、面倒だからだ。きんぴらや煮物なんかなら気付かれない。
「難しいねえ」
私も借りた本に目を通す。フルーツをたくさん食べると禁煙出来る確率が三倍!? これはメモしておこう。今のところなんとか我慢出来ているけれど、いつ限界がきてもおかしくない。今日は帰りに、さくらんぼでも買って帰ろうと思う。
「料理の手順も大変そうだし……実験みたいで楽しそうではあるんだけど」
効率を重視した結果が、あの地獄の汁に。
……飲むけど。どんなものでも、乾貞治手付からなら飲む。三年間飲み続けたら、きっと多少の抗体くらいは出来るんじゃないだろうか。いくら断りたくはないとは言え、意中の相手に吐瀉物や失神姿を見せるのは忍びない。
「あの、佐波さん」
私がまだ見ぬ乾汁への覚悟を決めていると、乾はこちらをじっと見つめてきた。反射的に目をそらしてしまいそうになるが、ぐっと首を固定して「なに?」と微笑む。首の裏あたりがビキビキする。つらい。
「今度の日曜日、空いてるかな」
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