スパイ活動3


 普段は不愉快なだけのバスの振動も、横ではずむトゲトゲ頭のおかげで愛おしいものになる。
 偵察はつつがなく終わった。正直赤澤吉朗しか見ていなかったが。
 今日という日がこれで終わってしまうと思うとさびしいものがあったが、どこかホッとしている自分がいた。もうそろそろ限界だ。

「付き合ってくれてありがとう」

 少ししてから、椅子に座って早速開いていたノートを閉じて、乾が言った。うすい唇はやわらかな弧を描いている。

「楽しかったよ。また誘ってくれる?」

「それはもちろん」

 神様は大層丁寧に乾貞治を作ったのだろう。なんて美しい曲線か。黄金比に次ぐ絶対値として後世に残したいものだ。私が画家なら、この曲線を描けただけで筆を折っても構わない。
 そんなふうに、私は浮かれていた。浮かれきっていた。 

「よかった。共犯者だもんね」

 だからこれは何の気なしの、掛け値なしに心からの言葉だったのだが。

「……佐波さんって、ちょっぴりいじわるだ」

 乾は息を呑み、きまりが悪そうに眉根を寄せた。

「かわいい!」

 ほとんど反射だ。もう無理。我慢できない。乾貞治との接触は今日、最大の長さを誇る。私の彼への愛情は行き場を失ったまま、体中を暴走し続けていた。これはもう乾が悪い。
 言葉一つ一つが、表情の隅から隅まで、まばゆくて可愛くて、萌える。無理。語彙力の消失を感じる。

「え?」

「乾くんは、かわいいなあ」

 理解が追いつかない半開きの唇に、言葉が次いででる。瞬間、乾の顔はくしゃりと歪んだ。

「も、もう……!」

 無理みがすごい。完全に顔がニヤけているはずだ。いや、これは無理。君は可愛いの塊。空間の可愛いが飽和してしまう。飽和した可愛いが結晶化して、乾貞治のまわりはキラキラとしている。天使のハレーションだ。勘弁してほしい。なんなんだ。

「ほんと、かわいい」

 あふれる言葉を絞り出すようにもう一度繰り返すと、乾は唇を固く引き結んで、メガネを押し上げた。それからふいと目をそらす。常は白い耳が、ほんのりと赤くなっていた。それは羞恥と憤りからくる血の巡りで、ああ、私は彼の赤血球になりたい。

「しばらく、口きかないから」

 私は心のなかで絶叫した。いっそ殺してほしい。君の手で、切り裂いて――。
 きっと二年後の乾貞治なら困ったように笑うか、たしなめる程度のことだろう。しかし目の前の彼はより子どもで、あどけなく、男の子だ。すっかり拗ねてそっぽを向いてしまった。そんな乾の姿は、あまりに幼く可愛らしい。胸が苦しくて息が詰まった。可愛いの過剰摂取だ。

 この角度からだと、まだ丸みの残る頬のラインがしっかりと見える。指でつついたら、きっと雪見だいふくよりもやわらかい。胸が掻きむしられるようだ。たまらないというのは、こういった感情を示すのだろう。

「ご、ごめん」

 しかし乾もずいぶんと気を悪くしたはずだ。からかったと思われても仕方がない。私は慌てて謝った。窓に映る乾の表情は、まだむっとしている。かわいい。

「口きかないって言っただろ」

 へそを曲げたすげない口ぶり。それでも少しだけこちらに視線を向けて、また窓の外に。あーーーーーー好きーーーーーー!!
 これが一人っ子特有の拗ね方というやつなのか?甘ったれで意地っ張りな、なんて、なんて、可愛い。

 私はうつむいて肩を震わせる。爆発しそうだった。Twitterで延々と乾貞治(一年生)の可愛らしさを報告したかった。もしくはここに乾貞治像を建てたい。鼻血でそう。
 ここまで考えて、知人に萌えるオタクというのは、迷惑にもほどがあるなと思い立った。
 すまない、乾。本当申し訳ない。ごめん。踏んでくれ。踏んで、ほしい。……良い。お巡りさん、私、だ……。

「佐波、さん」

 欲望を膨らむままにする私に、気遣わしげな声が届く。顔をあげると、眉をハの字にした乾と目があった。かわいい。
 多分うつむく私が、大層傷ついたように見えたのだろう。申し訳ない。踏んでください。

「――ごめんなさい」

 万感の思いでつぶやく。本当に、私は人間のクズだ。己の欲望を律することもできず、気を害しあまつさえ心配までかけてしまった。

「俺も、言い過ぎた」

 そして反省しながらも、困った顔の乾は世界遺産だなと思ってしまうのだから、反省という言葉を辞書で引くべきだろう。むり、かわいい。 

「でも、あんまりああいう……」

 口ごもる乾に、また後悔の念に襲われる。
 
「ほんとにごめんね! つい口癖で」

 手を合わせて拝むように謝辞を並べる。
 これからはますます口には気をつけなければならないと誓い、これ以上余計なことを考えつかないように目をつむった。 

「男の子が言われて嬉しい言葉じゃないよね。もう、言わないようにするから。本当に、ごめん」

 必死の弁明に、乾は小さく息をつく。それに私は、恐る恐る瞼をもちあげる。

「……じゃあ、もういいよ」

 彼はそう言って、ゆっくりと微笑んでくれた。
 ありがてぇ……ありがてぇ……。
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