スパイ活動1

 それにしても、土曜日の乾は最高に可愛かった。
 思い出すだけでニヤけそうになる頬を抑えて、私は退屈な授業を乗り切る。

「おはよう、乾くん」 「お、おはよう。佐波さん」

 部活がはじまる前にすれ違った瞬間、彼のまだ華奢な肩は大きく弾んだ。
 理由がわからずに私は困惑した。しかし乾の浮かべる表情から、嫌悪や煩わしさの色を見つけられなかった。そのことに内心ホッとした後、彼と交わした最後の会話を思い出した。
 そして、悶絶することになる。

 他校を訪れて情報収集をしようと誘ってもらって――「これで、共犯だね」。

 乾貞治の可愛さは世界一。実質ディズニープリンセス。
 自分の少しキザな台詞に照れて居心地悪そうにするだなんて。だなんて。だなんて――だなんて……。エコー。

 それに気づかないふりをしてなんでもないように会話を続ければ、乾の強張りは段々と溶けていった。
 気まずそうな乾貞治も勿論かわいいのだが、やはり気を許してくれたような柔らかい笑顔が一番かわいい。

 そして、今日はその『スパイ活動』の当日だ。
 私の気分は、朝からずっと高揚していた。心臓はドキドキ、目はキラキラ、背後には花の一つや二つ飛んでいるのではないだろうか。瞳の輝きは、隣の席の菊丸に「日曜日、アマゾンにでも帰ってたの?」と言われるほどだ。
 機嫌麗しく寛大な私は、「誰がゴリラだ」と満面の笑みを浮かべてやった。

 それにしても、一日が酷く長い。私は時計の進みの遅さに焦れながらも、消されてしまいそうな板書を慌ててノートに写す。
 才女とまではいかなくとも、やはり乾に呆れられない程度の成績は欲しい。あいにく蘇った記憶は20数年間の記憶は、勉学においてそれほど役に立たない。
 くだらない雑学ばかり色濃く覚えていた。前世の私は、一体どんな頭の作りをしていたんだ。
 
 ……しかし乾に勉強を教わるというのも、夢のあるシチュエーションだな。
 そんな妄想に耽っていれば、午後の授業は終わっていた。



 時は来た。
 もうこれは乾貞治とのデートと言っていいんじゃないだろうか。バス停まで並んで歩くだけで、私の心臓は小鳥のように弾む。乙女だ。私、いま最高に乙女だ。

「今日は聖ルドルフを見学しにいこうと思うんだけど、いいかな」

「もちろん。ニ年前出来たばかりの学校だよね」

「そうそう。スポーツ特待生を呼ぶだけあって、運動部にもすごく力を入れてるらしいんだ。来年再来年には、もっと強くなってると思う」

 データもそれほどないしね。と熱心に説明してくれる乾の瞳はキラキラとしている。気がする。レンズの反射かもしれない。かわいい。

「もう来年のこと考えてるんだね。すごいなあ」

 先を見据える彼のことを、心から尊敬する。こうやって一つ一つ、全国優勝の為の努力をずっとし続けていくんだろう。同い年とは思えない目的意識だ。
 そういうところが、すごく好きだなと思う。
 
「……ありがとう」

 私の愚直な言葉に、乾は照れたようにはにかんだ。え、天使?
 拝みたくなる気持ちを抑えて、私は乾とバスに乗り込む。
 ――バスの座席というのは、こんなにも狭かっただろうか。

 近い……。乾の肩が、足が、匂いが、全部が近い!
 骨ばった肩や足は、バスが揺れるたびにこつりと当たる。そして清潔な香りがふわり。
 私の心臓のビートは、最高潮に達した。その音はゴリラのドラミングのようだ。誰がゴリラだ。  

「佐波さん」

「は、はい?」

 不意に声を描けられて、喉が裏返った。恥ずかしい。
 乾は気にした様子もなく、ただ気遣わしげに小首をかしげる。

「乗り物酔いするんだよね。席変わろうか?」

 え、現人神?
 優しくて可愛くてかっこよくて面白くて賢くて優しいとかすごい。私の愛した人は、神様の最推しかもしれない。ライバルは最高神。ナウオンセール。

「酔い止めの薬飲んだから大丈夫だよ。ありがとう」

「そっか。無理しないでね」

「うん」

 もうすでに乾貞治の過剰摂取で死にそうです。無理してます。好きです。
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