日曜日:風船

 佐波さんはテニス部のマネージャーだ。彼女は、面倒見のよい女の子だ。多分。きっと。

「どうしたの?」

 涙に濡れたまん丸の目と、「大石くん」、佐波さんの困ったような笑みがこちらに向けられた。
 おつかいの帰りに通りすがった、児童公園の中心にある木の下。そこにはうつむくちいさな女の子と、かがんで女の子の様子をうかがう佐波さんがいた。その姿はなにやら困っているようで、つい口を出してしまった。

 「風船が――」

 佐波さんは木の上の方を指差す。生い茂る葉に隠れて見えにくいが、よくよく目を凝らせば赤い風船らしきものが見えた。
 手を伸ばしただけでは到底届かないだろう。佐波さんはまた困ったように笑う。
 ちいさな女の子――5歳くらいだろうか――の顔がくしゃりと歪む。そしてぽろぽろと、こらえていた大粒の涙がこぼれ落ちた。
 途端、僕と佐波さんはうろたえてしまう。僕はあわててハンカチを取り出して、女の子に差し出す。それとほとんど同時に、佐波さんは手をうった。その顔はさきほどよりずっと明るい。

「そうだ。おねえちゃんが登って取ってきてあげるよ」

 女の子もつられて笑顔になる。コロコロと変わる表情はめまぐるしい。
 
「ほんとう?」

「うん!」

 約束、と小指をからめる姿は姉妹みたいだ。そして「さて」と意気込むと、佐波さんは木に足をかけた。僕はまたあわてて、彼女に声をかける。

「僕が、とってくるよ」

 女の子にさせられない。僕が言うと、佐波さんはちょっとお母さんに似た顔で微笑んだ。それがやけに気恥ずかしくて、誤魔化すように背をむけた。卵とブタ肉が入ったスーパーの袋を地面に置いて、木に手をかける。

 実は、木のぼりなんてしたことがない。
 体を動かすのは嫌いじゃないけれど、なんとなく、遊具じゃないものに登るのは抵抗があったからだ。しかしそんなことも言っていられない。ようはのぼり棒やジャングルジムなんかと同じだ。
 木に抱きつくようにしがみついて、少しずつ上を目指す。枝に手が届くところまできたら、できるだけ丈夫そうなものを掴む。そこからは慎重にのぼっても、いくらもしないうちに風船の元までたどり着けた。
 しっかりと枝をつかんだ反対の手を、ゆれる紐に伸ばす。
 一瞬、体が宙に浮くような感覚がして、じわりと汗がにじむ。風が吹いただけのことだったが、心臓に悪い……。けれど無事に、風船を掴むことが出来た。ほっと息をついて、下にいる二人に「とれたよ」と報告をする。
 きゃあと、嬉しそうな女の子の声が届く。
 僕は(さっきの風のせいで)登るときよりも慎重になりながら、下へとおりていった。

「はい」

 真っ赤な風船を女の子に手渡せば、風船と同じくらい赤いほっぺたに満面の笑みを浮かべて「ありがとう!」と言ってくれた。
 胸があったかくなるのを感じながら、僕も少しだけ笑顔を作る。

「よかったね。――ありがとう、大石くん。実は私、木のぼりってしたことなくて」

 佐波さんは女の子の頭を撫でながら言った。
 ……なんというか、僕が言うのもおかしいけれど、それでよく取りに行こうと思ったものだ。さっきの表情といい、佐波さんは長女なのかな。
 「いや、風船が飛んでいかなくてよかったよ」と返しながら、いつの間にか持ってくれていたスーパーの袋を受け取る。

「お兄ちゃん、お姉ちゃん。ほんとにありがとう!」

 女の子はもう一度礼を言って、深々と頭を下げた。しっかりした子だ。「どういたしまして」と、僕と佐波さんの声が重なる。
 さて、無事に終わったし帰ろう。二人に手をふって別れを告げる。しかし歩き始めようとした途端、ついと服を引かれた。
 振り返ると、女の子がじっとこちらを見上げている。

「どうしたのかな。まだなにか?」

 しゃがんで問いかけると、「これ、お兄ちゃんにあげる」と手を差し出した。
 その手には、どう見てもさきほどの赤い風船しかない。

「え?」

「わたしのだいじなふうせん、とってくれたから。お礼にあげます! はい!」

 ……え?
 ちょっと理解が追いつかない。ちいさい子どもというのは、こんなにも突拍子もなかっただろうか。

「大丈夫だから。ね。大事なものなんだろう?」

「だいじだからあげるの! ありがとうございました!」

「いや、でも……」

「お兄ちゃん、ふうせん、きらい?」

 乾いたはずの女の子の目が、ふたたびうるみはじめる。まずい。

「佐波さん……!」

 なんとか説得してくれるように水をむけるが、佐波さんは「――も、もらっていいんじゃないかな?」と肩を震わせていた。完全に笑いをこらえている。
 ひとごとだと思って!
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