金曜日:共犯
佐波さんは、クラスメイトの女の子でテニス部のマネージャーだ。そして彼女は、俺の共犯者だ。
「大丈夫?」
部活は職員会議でお休み。校門へと続く桜並木はそろそろ盛りも過ぎて、ピンク色の花びらは風がなくともハラハラと散っていく。その木の根本に、小さく蹲った女の子がいた。
近づいて声を掛けると、佐波さんはぱっと顔を上げる。
「乾、くん?」
彼女の目にはいっぱいの涙が溜まっていて、顔色は空を映したようにほの青い。それからゆっくりと一度瞬き。花びらと同じように、涙が頬を伝って落ちていった。
「ぼーっとしてたら、木に頭ぶつけた」
額は痛々しいほど赤くなっている。笑っては失礼なのだが、つい口からはふと息が漏れてしまう。俺も考えごとに熱中していたせいで、電柱にぶつかってしまったことがあるのだ。痛みよりも驚きで涙が出たことを思い出した。
「はやく冷やしたほうがいいよ」と手を差し出すと、佐波さんは涙を拭って「ありがとう」と立ち上がる。その手は小さくて、少し冷たい。
「でももう痛くないから大丈夫だよ。びっくりしただけで……」
彼女の気恥ずかしそうに首筋に手をやって、ふいと目をそらした。
「佐波さんは、ちょっと心配だからなあ」
茶化したように言ってみせると、クラスメイトは心外だと言うようにこちらを睨み、すぐにまたそっぽを向いた。思い当たるフシがあるのだろう。
俺の口から、また笑い声が溢れる。
「保健室、行こう?」
もう一度誘いかけると、佐波さんは苦笑しながら頷いた。
保健室のドアを開けると、消毒液の匂いが鼻に入ってくる。養護の先生は会議かなにかなのか留守にしていた。代わりに、不二くんが丸椅子の上にちょこんと座っている。
「あれ」
佐波さんと不二くんの声が重なる。この二人は部活でもクラスでも仲がいい。
不二くんは、珍しく目を見開いて俺と佐波さんを順番に見た。彼としては、俺と彼女が一緒にいるのが少し意外なのだろう。彼女とは、クラスメイトたちが来る前の教室で話すことが多い。話すと言っても俺はノートをまとめながら、彼女は本を読みながらの、ほんの二三十分間のことだけれど。
「不二、怪我したの?」
佐波さんが尋ねると、彼はなぜか、ぐっと親指を立てた。すかさず佐波さんも同じように。なんなんだろう。
不思議な光景を見つめていると、不二くんはこちらを向いてまた親指を立てる。俺も真似してやってみると、彼は満足そうにうんうんと頷いた。不思議だ。笑顔の真意が読めない。
「図書室で指を切っちゃってね。絆創膏を貰いに来たんだ。佐波たちは……どうしたのそのおでこ」
「ぶつけた」
佐波さんは冷却シートを探しながら、おざなりに答える。「ぼーっとしてたら、桜の木に気づかなかったらしい」そう告口をすると、不二くんはお腹を抱えて笑い、佐波さんは俺を睨んだ。それから不二くんに、絆創膏の箱を投げつける。
もう少し穏やかな子だと思っていただけに、新たな一面を見た気分だ。
「どうも」
彼はそれを難なく受け取ると、手慣れた様子で左手の親指に巻いた。佐波さんは冷却シートのフィルムを剥がすのに四苦八苦している。
「不器用だね」
今度は俺と不二くんの声が重なった。彼女は「不器用なんだよ」と眉を寄せて、大分丸まってしまったシートを無理やりに引き伸ばした。随分とアバウトだ。
「貼る時また失敗しそうだね。乾にやってもらいなよ」
と不二くん。なぜ自分でやらないのだろうか。彼の顔を見ると、「僕は怪我人だから」と絆創膏の巻かれた左手をひらひらさせた。
別段断る理由もないし確かに危なっかしいので、冷却シートを佐波さんから受け取る。また、二人の親指がぐっと立ち上がった。本当に仲がいい。
前髪をあげてもらってシートを額に貼ると、佐波さんは冷たそうに目をぎゅっと閉じる。少しだけドキドキした。
それから部活のことや中学校生活のこと、趣味の話に花を咲かせているうちに、外から夕焼けチャイムが聞こえてきた。
「ああ、もうこんな時間か」
「すっかり話し込んじゃったね。じゃあ二人とも、また明日」
「明日土曜日だよ」
「部活だよ」
「部活だ!」
佐波さんが諸手を上げる。表情はフラットだけれど、その姿はとても嬉しそうに見えた。不二くんはフフと笑って、椅子から立ち上がる。それから出ていく途中にそっと、佐波さんに短く耳打ちをした。
「……」
すると彼女は息を飲んで、両の手のひらで勢いよく顔を覆う。高笑いをする不二くんというのも、かなり新鮮だ。彼は手をひらひらとさせながら立ち去っていった。
「なんて?」
ようやく顔を上げた佐波さんに声を掛けると、彼女は「中学生のくせにぃ」と苦々しげに言った。
「え?」
「なんでもない! もうちょっと図書室にいるから先に帰っててって」
「そっか。じゃあ行こうか」
校舎から連れ立って出ると、外は夕陽に照らされている。冷たいオレンジ色と赤。
バス停で立ち止まると、佐波さんは思い出したように「あ」と口を開けて、
「そう言えばごめんね。今日、用事とかあったんじゃないの?」
「えっと、せっかくだから他の学校の練習を見に行こうと思ってたんだけど」
嘘をつくのもなんなので本当のことを話すと、「ホント!? うわ、ごめん!」と申し訳なさそうに彼女の眉が下がった。俺は慌てて首を振る。
「いつでも行けるし、大丈夫だよ」
「でも……いや、ありがとうね。それにしても乾くんは、研究熱心だね」
そう褒めてくれるけれど、彼女も部活にはかなり力を入れている。さっきの喜びようもそうだし、随分とマネージャーの仕事が好きなようだ。
「君も、随分マメに記録を取ってるよね。聖ルドルフか、六角中を見に行こうかと考えてるんだけど」
「よかったら、次の火曜日に一緒に行かない?」と言葉にするのには、いささかの勇気がいった。けれど、
「いいの?」
ぱあっと表情を明るくする佐波さんを見ると、思い切ってよかったと思う。彼女の白い頬はやはり白いままだけれど、見開かれた瞳がキラキラと輝いているのは見間違いじゃないはずだ。
「嫌じゃなければ」
「い、いやじゃない。全然いやじゃない! 嬉しい!! 潜入捜査!」
「潜入捜査って。なんだか、悪いことするみたいだ」
「だってスパイしに行くんでしょ? ふふ、楽しみだな」
「それじゃあ、決定」
子どもみたいにはしゃぐ姿を見ていると、こちらまでワクワクとしてきた。勿論他校の練習風景というのは興味深く楽しみだったけれど、それとは違う、どちらかと言うと冒険に出かける前のような高揚感だ。
「これで、共犯だね」
なんて、キザなセリフが出てしまうほど。
「え」
しまった。ぽかんとした佐波さんの顔に、一気に我に返って恥ずかしくなる。しかし言い訳が口を出るよりも早く、家に向かうバスが来てしまった。
慌てて乗り込んで、「ま、また明日」とだけ告げる。恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
けれどバスから見た彼女は、なにか力強く、ガッツポーズをキメていた。
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