変化

 乾貞治も煙草もないので、土曜日なんてこの世で一番嫌いな日になりそうだ。
 起きてから一時間。現在八時。いつもならもうそろそろ乾に会える時間なのに!
 こんなにも学校を好きになるとは思わなかった。アーメン南無阿弥陀仏今生も功徳を積みます頑張ります。
 さて煙草を吸うにも吸わないにせよ、家でじっとしてるわけにはいかない。めでたいことに部屋の窓から見える空は快晴、私の好きな春の空色だ。

「ランニングがてら、散歩でも行こうかな」

 誰に言うでもなくつぶやいて、ぐっと伸びをする。目も眩むような幸せな毎日だ。





 走りながら考えるのは、この身に起きた不思議な現象だ。
 すんなりと今生だの前世だのと割り切っているが、今の自分はどういう状態なのだろう。軽く前世の私と今までの私と今の私を振り返ってみる。

 前世の私は、子ども百人、石油王を庇って死んだオタクだ。テニスの王子様、特に乾と赤澤さんと忍足が好きだった(いつか他の二人にも会いたい。)。コミュニケーション能力に欠けるやや貧弱な煙草とお酒と白米を愛する成人女性、だった。
 記憶が戻るまでの私は、読書が好きな普通のオタクだった。体力に自信があるが、運動は嫌いでも好きでもない。人付き合いも得意ではないが苦手でもない。白米は好きだが、煙草は吸いたいとも思わなかった。
 今の私は、前世だの転生だのなんだの思っている痛々しいオタク(喫煙者)。になるのだろうか。
 
 振り返ったところでどうにもならないほどどうでもいいことしか浮かばない。
 前世の記憶がとち狂った妄想や、突然目覚めた未来予知の能力だろうが関係ない。流れ込んできた二十数年分の記憶は、乾貞治に恋心を、他の青学テニス部に憧憬を抱くには十分すぎた。
 そして私がいま猛烈に煙草が吸いたいと思うのも、しかたがないことだ。

「……」

 家からはまだ三キロ程度しか離れていない。しかし自販機は目の前だ。しかし、しかし青学テニス部のマネージャーになるなら、煙草とは完全に縁を切らなくてはならない。しかし、しかし――!

「あれ、かや。こんなところでどうしたの?」

 買わなくてよかった。

「タカさん、おはよう。最近ランニングに凝ってて」

「そうなんだ。俺と一緒だね」

 佐波もランニングすれば王子様に当たる。
 本当に、買わなくてよかった。

「一緒に、と思ったけど速度が違うかな?」

 立ち止まったせいか冷や汗か、額に滲む汗を首からかけたタオルで拭う。まだ朝方は肌寒いけれど、日差しがあるので動くと暑い。

「それは構わないけど。なあかや、君、少し変わったね」

「え?」

「そうだなあ、なんだか生き生きしてる。中学校、楽しい?」

 そんなに浮かれてるかな。
 苦笑が零れたが、確かに今までよりもずっと毎日が楽しくて輝いて見える。

 私は大きく頷いた。





 タカさんとは小一時間ほど一緒に走って、家の手伝いがあると言うのでさっき別れた。
 そうだ、毎日こんなにも楽しいのなら前世だのなんだのいいじゃないか。浮かれてたら転んだ。
 一応手は着いたのだが、運悪くアスファルトの道だったので、手も膝も擦り傷だらけになってしまった。痛い。
 参ったなと思いながら足を引きずっていると、近くに公園があったことを思い出す。数十メートル先の目的地を目指してもうちょっとだけ頑張った。

 いつもの三倍の時間をかけてたどり着いた手洗い場で、傷口を洗い流す。次に走る時は、ハーフパンツはやめよう。
 恥ずかしさと痛みでちょっと泣けてきた。そんな自分にびっくりだ。

「佐波?」

 佐波も泣きっ面に、転んだ先の王子様。

「あれ、菊丸くん。家こっちの方なんだ」

 慌てて涙を拭って振り返る。オレンジ色のブカブカのパーカーが可愛らしい。「どったの?」と首を傾げる菊丸に、私は「転んじゃった」と手をひらひらとさせた。
 すると彼は両の手のひらをこちらに向けて、

「いたいのいたいのとんでけー」

 そう、念を送るような動きを見せてから、ハンカチを差し出してくれた。
 おおう、テニプリフィーバーイエー……。
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