これはいい拾い物をした。
DIOは、窓ガラスを磨く少女の後ろ姿を眺めながら思った。
彼女の動きは実にテキパキとしていて、見ていて気持ちがいいほどに洗練されている。天涯孤独の彼女は、生まれてから直ぐにランドリーメイドとして働き始め、それからずっとハウスキーパーとして生きてきた。
そんな少女と百年の眠りから覚めた吸血鬼は如何にして知り合ったか。
「あれは私が生きてきた中で一番奇妙な出来事でしたわ、お館様」
水を向ければ、ナマエは実に気持ちのよい笑顔を見せた。彼女はDIOのことを『お館様』と、親しみを込めて呼ぶ。
彼女は勤勉で真面目で、人が持つ殆どの欲を持たなかった。雨風と糊口さえ凌げれば、他になにもいらないのだ。
しかし、決して己の矜持を捨てたりはしなかった。誰にも媚びることなく、けれど己の納得したことには精一杯尽力する。家事の得意な女や見目の美しい女ならば掃いて捨てるほど見てきたDIOが、彼女に数ある屋敷の一つを任せているのはそういうところが気に入ったからだった。
「まさか、お使いから帰ったら主が代替わりするでもなく、すっかり入れ替わっているとは思いませんでしたもの」
DIOの奇妙な魅力は、時に人から全てを奪い取る。ただ一言、この家が気に入ったと微笑みかければ、ナマエの仕えていた女主人はすっかり家から何まで彼に譲ってしまったのだ。
今その女はイスカンダルの別宅で、DIOが訪れる日を今か今かと乙女のように心待ちにしている。
「丁度、最近知り合った友人を招く場所を探していたものでね」
DIOが椅子の上で指を組み換えながら言えば、ナマエは手を止めぬまま彼の顔に視線を戻す。
「プッチ様のことですわね。私もあの方は好ましく思います。今時珍しいほど、清廉な少年ですもの」
自分も少女である癖に、妙に大人ぶった話し口だ。それがやけに可笑しくて、DIOは微かに微笑んだ。
ナマエは珍しいものを見たように何度かまばたきをして、「ご機嫌麗しゅうようで、何よりですわ」と微笑み返す。
この主人を主人と思わない態度が許されるのも、DIOがプッチに抱く友情の半分とまでは言わないが親しみを感じていたからだ。
「でも、なぜ私をこうして雇い続けてくださるんですの?」
物怖じすることなく、子どものように疑問をすぐ言葉にするナマエを、DIOはどこか娘を見るような目で見守る。
「なぜだと思う?」
「そうですわね。もしかして、お館様は可愛らしいガールフレンドが欲しかったんじゃありませんこと?」
「そういうところを、わたしは気に入っているからだよ」
エジプトの夜は長い。それ以上に、DIOはこれから己がいくつの夜を越えるのか、考えてから手軽な暇潰しを欲したのだ。ナマエには気を張る必要もなければ、気を使われることもない。なかなかに調度良い、友人だったのだ。
いずれ必要となる友人に災が及ばない為にも、信頼の置けるメイドが必要だったのもある。
「たまには損得勘定のない友人を側に置くというのも、悪くないでございましょう」
「ああ、君は実によく尽くしてくれているよ。わたしは幸せものだ」
「お館様。やっぱり、今日は随分とご機嫌ですわね」
そんな話をした次の日、数週間ぶりに神学生がナマエの任された館を訪れた。
DIOはまるで昨日会ったばかりのようななんでもない態度で、彼をそれまでのように歓迎した。当然のことながらメイドたるナマエも、嬉しそうに二人のためにグラスを準備する。
プッチが顔を見せない間、DIOもそうこの館を訪れることがなかった為退屈していたのだ。前日DIOが訪れたのも随分と久方ぶりのことだった。
不思議と、彼は客人がいつ来るか感覚で分かるらしい。ナマエは『引力』の話と共に、そう聞いたことがあった。
「よく来たね」
「久しぶり、DIO」
挨拶もそこそこに、二人は広間のカウチに向かい合う形で腰を落ち着けた。
その日、二人の間でどんな会話がなされたのかナマエは知らない。律儀な彼女は同室を許されない限り、二人の声の届かないキッチンや中庭で細々した仕事をしていた。
そういうところも、DIOは高く買っていた。無関心からではなく、弁えての行動だからだ。
ナマエが次にプッチの顔を見たのは、彼がそろそろお暇しようと立ち上がり、預かっていた荷物を返す際。
扉を前に、DIOが「そうだ」とナマエを振り返る。
「昨日、君のことをナマエが褒めていた」
急な発言に、ナマエは意地悪な方と首を傾ける。それから「一メイド風情がお館様のご友人を評価するなんて。プッチ様がお気を悪くなされるじゃあないですか」と神学生を上目遣いに見上げる。
それは媚態というよりもただただバツが悪そうな表情で、プッチはすぐに否定を入れた。
「照れくさいことだが、いい噂なら僕も悪い気はしない」
メイドは眉をハの字にしてから、神の慈悲を有難がるように頭を下げる。そうしてきっかり三秒後、きちんと居住まいを直して、「またお会いできるのを、お館様共々楽しみにしていますわ」と言った。
「ああ。では、お邪魔したね」
「次は、わたしがそちらに向かおう。ナマエには悪いがね」
▼
ナマエは普段DIOが何をしているのか、一つも知らなかったが到底カタギの人間ではないことは特有の勘の良さで気付いていた。しかし彼はナマエの前では紳士的だったし、メイドの仕事は己の天職だと思っている。
DIOはここをプッチと会うためと、たまの気まぐれでしか使わなかったので自由な時間はいくらでもある。その時間にナマエがすることと言えば、いつ主人が帰ってきてもいいように埃一つなく廊下を磨き上げること。それが趣味だと微笑むのだから、やはり世間一般からは多少ずれている。
「明日、また彼がくる。適当なワインとチーズを準備しておいてくれ」
「かしこまりましたわ、お館様」
それでも、ナマエはDIOの一等気に入りのメイドだった。
彼女はクラシカルな黒のメイド服をひるがえし、嬉々として次の日の準備に取り掛かった。
▼
予定通り館を訪れた友人を招き入れ、DIOは一旦「見せたいものがある」と部屋を出た。
残されたナマエは、客人を一人にすることも出来ず、そのまま扉の横に立っている。
「見せたいもの、か」
プッチは独り言のように呟いてから、思い出したようにメイドの方に目をやる。視線に気付いたナマエが「何を持っていらっしゃるのでしょうね」と神学生に敬々しく言った。
プッチとナマエは殆どの場合、一言二言しか言葉を交わさない。それでもその短い会話を何度も交わすうちに、プッチもこの聡い少女にいくらか心を開き始めていた。
そのせいか今日は珍しく、「こんにちは」と「邪魔をするよ」以外の三句目が彼の口をついた。
「さて……それではきみは、『天国』があると思うか?」
最近の交わす言葉の端や、館の主の集めだした本から、全貌は分からずとも二人の『天国』への執心は察しのついていたナマエだ。彼女は突拍子もない質問に驚くでもなく、少しだけ悩むように首を傾げた。
「さて……でも、お二人なら、きっと似たようなものはお作りになれるんじゃあないでしょうか?」
そうして「僭越ながら、そう思いますわ」と白い頬に華奢な手を当てて答えた。
彼女の柔らかな笑みと返答を受けて、プッチは同じように微笑む。
しかしすぐに、彼の目は大きく見開かれた。視界は一瞬にして、絶望の黒で塗りつぶされてしまった。
▼
DIOが地球儀を片手に部屋に戻ると、広間は真っ赤な香りに包まれていた。
床の上には、死体が一つ。
「ああ――」
熱に浮かされたような声が、吸血鬼の鼓膜を撫でる。声の主の手には、壁に飾ってあった装飾用のナイフ。細やかな意匠と宝石の施されたそれは、今は血液にテラテラと輝いていた。
「ああ、DIO。すまない。話すつもりじゃあなかったんだ。けれど彼女、ナマエは賢い。DIO……違うんだ、私は君との友情をこんなことで不意にしたくはない」
死体など目に入らないように、プッチはDIOに歩み寄る。
神学生は吸血鬼の足元の床に膝をついて、祈るように両手を組み合わせた。
「本当にすまない。DIO、私を許してくれるかい?」
プッチは殊更哀れっぽく嘆いて見せた。後悔というよりも、目の前の友人への申し訳なさで彼の胸はいっぱいだった。
なにものへの罪悪感か。それは懇意のメイドを殺したことではなく、ただただDIOの信頼を裏切って『天国』という神聖な言葉を他人に漏らしてしまったことに起因した。
「ああ、勿論だ。彼女は本当に、わたしたちのいい友人だった、そうだろ?」
跪く彼を見据えて、DIOはいつもの様に目を典雅に細めて笑ってみせる。
それから、「それじゃあ、口が滑ってしまった君だけを責める訳にはいかないな」と軽い調子で言い含めるのだった。まるでティーポットを割ってしまった子どもに、危ない場所に置いていた自分が悪いのだと伝えるように。
聡明な吸血鬼にとって、きちんと片付けが出来るならそんなことはなんの問題にもならない。
「プッチ、君はなにも気に病むことはない。これからはこの家ではわたしが紅茶を淹れることになる。ただそれだけのことだ」
good friend