愛花は私を駆逐する


だんだんと森に入っていく緩やかな坂を一台の車が制限速度に少し欠けた、初見の道を行く様な速さで走っていた。助手席の少年は倒したシートに深くだらしなく座って手に持ったものを持て余している。運転手の男は進路から目を逸らさず少年に話しかけた。

「仲良さげに見えなかったけど」
「良くなんかなかった」
「それにしちゃあ殊勝だな」
「るっせ、早く着けよ」
「るっせ、無茶云うな」

眠くなる様な音楽を背にラジオが滔々と何かを流しているが二人の耳には何も入っていない。男はある少年のことで頭が一杯だったし少年はある男のことで頭が一杯だった。標識を一つ通り過ぎてやっと視界が重なる。一文字目と二文字目が古く掠れて読めたものではなかったが、三文字目からはぼんやり霊園、と読むことが出来た。

「……俺には無理だ」
「何で」
「明日は我が身って嫌でも思う」

そんな状況に自分が置かれてるのを認めたくないんだ、死因がどうあれ。少なくとも今は。悪いな。ここで降りてくれ。少し歩くだけだから。男が手元のボタン一つ押すと追い出す様に少年の左手のドアが開いた。反して冷たい風が招いている。シートベルトを外す音を聞きながら男はハンドルに両腕を、更にその上に額を乗せて声を絞った。

「ごめん、俺は本当に……駄目なんだ、過敏になっちまって、生に……安全に囲まれて生きたい、死のそばにいたくない、俺は、生きたい──だってあいつでさえ、」
「稲葉」

遮って少年は名前を呼ぶ。稲葉と呼ばれた男は肩を掴まれて視界がぶれた。一瞬後に唇が覚えのある感触を伝える。少年から彼へ、触れるだけしたのは初めてだった。驚いて円くした瞳がいつもより少しだけ鈍くぬるい表情を捕らえる。足代。顔を変えず少年は云う。

「往復料金」
「……解った。頭、冷やしとく」

ばたんと乾いた音の少しして、少年は坂の果て、森が尽きた光の向こうへ消えた。死にたくないのなら誰だって同じだ。目的にしている墓の主すら末路は後付けだった筈だ。その位は人生の浅い頭にも解っている。ただ、その悲痛な望みだけは少年にも覚えがあった。


***


「……何でだよ」

赤煉瓦の門を過ぎると微風吹く小高い丘の上に無数の悼みと石が几帳面に並んでいた。頭の中に前もって入れておいた配置図を頼りに少年が歩を進めると十メートル前から余計な影が一つ。不快にならない程度に波立てた黒く長い髪を携えて、すらと締まっていても脆弱を感じさせない体躯が無数の中のたった一つ、よりによって少年が探していた墓石の前に立っていた。

「よう。学校は」
「短縮……じゃなくて何で」
「お前をね、貰いますよって」
「はァ?」
「西こそ珍しく肩入れして」

そんなに大事な人だったの。
少年を西と、長髪の男は云う。西が学生服を着ているのと同様に男も仕事帰りよろしく濃灰色の上着と鞄を抱えていた。首に下げた侭の赤い紐のプレートには会社名に同じ顔の写真、それから武田と名前が載っている。玄野にこの場所を聞いたんだ、同じ学校だったって云うから。線香の代わりに口と右手から白を吐いて、しかしそれを見た西も咎めるどころか墓前を嘲る様に笑う。シオン、イズミ。ローマ字でそう刻まれた墓に煙と声の両方が纏わりつく。

「別にここにあいつがいるなんて思ってねぇし」
「でも来たんだろ」
「笑いにな」

くたばった証拠だろ。プライドの高かった和泉の残した汚点。西は一歩墓に近付くと屈んで右肩に担いでいたもののビニール包装を解いた。束になった「それ」らは透明の檻から放たれて一斉に広がる。薄い芳香が風に乗る。白い霞草と低めに裁ち揃えられた淡い青紫のスターチスに囲まれて、少し濃い桃色が映えるまばらで小さな花瓣がまだ冷たい空気に歓喜した。

「秋明菊か」
「イカニモな花はだせえから」
「本当はアネモネだぞ、それ」
「え……マジ。何で詳しいの」
「元カノが花屋だったからな」

まあいいやどうせ仏花じゃまるで墓参りに来たみたいだし。云いながらも西はちゃんと奇数の対で買われた花々を分けて左右の花挿しに乱雑に突っ込む。やはり手を合わせることなく立ち上がるとざまあみろ、捨てる様に言葉を投げた。故人が故人になってから出来た存在の痕跡を、見下ろす丸まった背は心なしか大きく見える。あぁこの昼下がりの為の夜勤は無駄ではなかったと武田は思った。

「そこまで手は付けらんねえな」
「?墓、荒らす気だったの」
「いやいや何でも」
「武田」
「ん」
「生まれ変わりって信じる」
「……どうして聞くの」
「俺らはガンツの所為で死んでもまだ生きてる訳じゃん」

ヒトの力の届かないところでそういうこと、あると思う?

「あるとしたら」
「…………」
「何の為に生きなきゃいけないんだよ」

霊園を囲む周りの緑が堰を切った様にさらさら音を立て騒ぎ、武田の耳を塞ごうとした。もう少し早ければ良かったかも知れない。幾多の命を奪っては零れるのを見てきた子どもは生に対しても死に対してももう何らか諦めた感情しか持たずにいるのだった。目や耳を覆う自分以外の誰かの手がなかったのだ。小さな瞼と掌だけでは敏い感覚は荷が重かったのだ。それだけのことだ、それだけのことが何より悲しくて嘆かわしかった。

「……お前がそうやって何か考えて、俺がそれ聞いてこうやって何か感じる為じゃないか」
「何、何か感じてんの」
「云ったらお前怒るぞ」
「喧嘩売んなよ」
「若いなァ、って」
「死ねジジイ」
「はは。……産まれたことぐらい手放しで喜べよ」

どんな所のどんな奴の命だって初めは等しく尊いもんだ。初めはって何。大人はこうしてやってることを正当化するんだ、長い時間を生きる程自分と経験が可愛くなるからな。ふうん、嫌な大人。風が止む。灰色の雲が止まる。遠くに差し込んだ柔らかな橙を、武田は天使の梯子だと教えた。

「送っていこうか」
「稲葉、待たせてるから」
「稲葉?また珍しいな」
「ああまでメンタル弱いと一緒にいて逆に楽しいぜ」
「新しい宿り木か」
「バーカ」
「でも安心するだろ」
「そんなんじゃねえ」
「また敵を増やしてくれるなぁ」
「?何」
「いやいや何でも、」

帰るかと背を向けた武田の隙を見て、もう一度西は和泉の墓を眺める。今はこれが彼としてこの世に佇んでいる。嘗て「和泉」だった人間に想いを馳せる為の悼みと石。西とその和泉の間を阻む様に花が優しい色を振り撒いている。追い退ける様に秋明菊が薄赤の首を振っている。他人である男の結果としての死と、その原因である生そのものは、西にとって手放しで喜ぶに値するものだったろうか。


(110930)

秋明菊…花言葉は
忍耐、薄れゆく愛、多感

今鑑みてもすごい取り合わせ





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