逆風に酔う


空を飛ぶなんて俺たちには訳もなくて、それも飛ぶと云うよりは跳んで、いたんだけれど、それが夏だったか冬だったかも思い出せなくて抵抗する風が冷たかったことだけを唯覚えてる。でもあの日からずっと身体に付き纏うのは鉄みたいにひんやりした空気ばかりだ。和泉は何もかも終わった後に、高く、それでいて毎回より見晴らしの良い場所を探して空を渡る。靡く髪と、黒の中に映える黒と、遠近法なんか無視したばかに広い背中を追いかけている時だけ、俺も何だって出来た。慈悲なんてない速さがより一層頬を冷やす原因だった。速度を緩めずに駅を通過していく貨物車の風に似ていて、コンテナのない車両に乗り移れたら、なんて小学生の頃考えてたのを思い出した。何となくその日、追い付いたら云ってみる気になった。

「良いなそれ……やるか」

思ったことなら俺もある。そう云った和泉はそれからがやっぱり速かった。適当に見つけた明かりのない伽藍堂なホームの、助走の為とはいえ律儀に白線の内側で来るかも解らない列車を二人して待って、本当に来た時はアァこいつは何か持ってんだなんて何だか面白くなくて、危うく云い出した俺が乗り遅れそうになった。珍しく和泉は俺の手を引いた。踏み切る感覚。一瞬浮いて、爪先にまた何か触れる感覚。いつもより固い空気が身体に当たるけど夜の貨物車は出来るだけ息を殺して静かに走っていた。駅の時点で解っていたけど暗青と茶褐色の車体の何処にも光はなく、月だけが和泉の鼻と頬骨を照らして、何かを考えて動かないその石膏の白さが不安にさせた。黒目が此方を向く。安心する間もなく伏せる睫毛。消える白。逆光の黒、影が俺を覆って自分の喉の鳴る音がした。

「俺の顔に」
「あ?」
「何か付いてるか」
「目と鼻と口と毛が少し」
「ふ、落ちてなくて良かった」

滅多に云わない和泉の冗談にますます夢見心地が頭を食っていく。穏やか過ぎるこの時間が少し怖かった。月がやや陰って列車が微妙に速度を変えた。昇ってみるか、コンテナ。答えを聞く前に和泉は巨大な箱の角に手をかけていた。

「ケーブルが邪魔だ」
「そのウザい髪引っかかるぜ」
「感電はまだしたことないな」
「ドM」
「結構だ」
「…………」
「No pain, No gainってな」
「……あんたは何が欲しいの」
「…………」
「痛いことって、あんの」

少しだけ視界が高くなっても見える景色は線路沿いに沿って建てられた家の向こう側だけだ。座り込めば頭一つに満たない目線の差が今は果てしなく大きい。これからもずっと大きい侭だと思った。お前は俺なんかじゃないし、その通り俺はお前なんかじゃない。決して振り返らない和泉が上に何を視てるかなんて解らなくて、追いかけたって解らなくて、振り返ってしまう俺にとって昇る途中で見下ろしたが最後で、そこから見える景色はただ

(怖い、だけなんて)

「……絶対云わないけどな」
「勝手に俺の行動を決めるな」
「は?」
「俺だって痛くないに越したことはない」
「え?あ、ああ……どうだか。先陣きって突っ込んでく癖に」
「痛みを嫌うのはそれが恐怖の対象でしかないからだ、異常に慣れない臆病者は衰退して堕落して勝手に死ね」
「誰に云ってんの」

西。普段良く通る声が寒さに中てられたのか少し掠れてた。

「お前或いはお前以外の総て」
「若しくはあんた自身」
「……云ってくれる」
「和泉が和泉以外のこと、考える訳ねぇもん」
「ふ、本当俺のこと好きだな」

はァ?噛み付こうとして開けた口を大きな風が塞いで、その代わり和泉の口も長い髪に隠れた。目だけが、その双眸だけが細くなってるのが解った。笑ってる。何の心算で?その日の和泉は何処かおかしかった、俺のことをやたら眺める和泉なんて。後ろにばかりいる俺を、こんなに見下ろす和泉なんて。お前の云う異常じゃないのか。異常でもたかが和泉だ。怖いもんかよ。意地になって睨み返すと肌が感じる刺激が弱まった。乾いた目で泣きそうになった。和泉はやっぱり薄く笑って、いた。

「何だ、泣いてんのか」
「笑ってんじゃねえよ」
「怖いか、俺が」
「お前の髪が入ったんだよ!」
「はは」
「せめて謝れ、笑って、んな」

笑って、で胸元を掴まれた。スーツなら出来なかったのに、服なんか着てこなけりゃ良かったと思ったけど引き寄せられたと感じた後もいつまで経っても何も起きなくて、瞼を開くと両目には、両目しか映らなかった。一瞬何があるのか解らなくて、解らない内にこつ、と、お互いの皮膚に阻まれた頭蓋の音がした。聴いたことのない柔らかさが風の唸りよりもっと深く突き刺さって痛い。和泉は。和泉の中では、痛いのか。これは、俺は。

「残念だな、お前の追い風だ」

お前の何かに、なれてるのか。

「俺の髪は目に入らないぞ」
「!」
「さて。いつもより厄介だな」
「……和泉」
「帰る時のことを考えなかった……何だ」
「死ね」
「殺してみろ」

立ち上がった和泉が手を引いた。二度目だった。力の向く方に流される。総て気紛れで、風なのだ、和泉は、なんて今更に覚った。その日だけは悪い気がしなかった。髪も、ばかに広い背中ももう見えない。追いかけることも多分もうない。だけどあの時の手と、目と、額の温度は忘れない。あの日からずっと身体に付き纏う空気が鉄みたいにひんやりしてても忘れない。気付けば高台を走っていた貨物車の上、二人で棒立ちの侭遠くに見下ろした街の、ぼんやりとした光は怖くて、美しかった。


(110822)

BGM:真夜中の貨物列車

あれ飛び乗りたいって
誰もが一度は思う筈





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