闇の向こうは
マスターはコミュニティ障害を自称している。コミュ障、つまり人付き合いが苦手と言うことらしい。確かに、マスターが家に誰かを招いた事はないし、ボーカロイドも俺、KAITO一人だけ。せっかく動画を投稿していてファンもいるのに、交流はまったくない。お陰でネット上では「謎の人」と呼ばれている。
「マスター。構って下さい。」
一人いつものようにパソコンに向かいながらぼんやりしていたマスターに声を掛けた。マスターの黒い瞳がちらりと横を向いて俺の様子を伺う。その瞳はいつだって真っ黒で、何を考えているのか伺い知れないのだけれど、大抵寂しそうな印象を抱かせる。
「いいけど。」
そう答えたマスターの視線はまたパソコンに戻る。チカチカと明滅するパソコンのライトがマスターの心模様の様でなんだか居たたまれない。
「マスター。」
溢れた声は随分苦々しかった。
「俺はここにいます。」
「…。そうだな。」
自嘲気味の声。大好きで大好きで堪らないマスターなのに、俺の全身全霊を掛けても救えない。
所詮機械だからなのか、ただのオモチャだからなのか俺の声が届いた試しがない。
「カイト。」
椅子に座ったまま俺の腰を片手で抱き寄せて下を向いたまま頭を預けてきたマスター。
こんなに近いのに、こんなに想っているのに、俺の名前を呼ぶ声は消え入りそうだった。
「マスターは優しいですね。」
「…どこが?」
「俺の事愛してくれるから。」
ぎゅっと腹部の圧迫が強くなる。すがり付くマスターの腕には力が籠っているのにまったく痛くない。
「俺は優しくない。弱いだけだ。」
知ってる。愛する事に怯えてる事も、何を優しいと呼ぶか知らない事も。
だからと言って俺がどれだけマスターを想っているか、マスターはみんなに好かれているか言い聞かせたって響かない事も分かっているんだ。
熱のこもったマスターの頭を労るように撫でる。俺にはない生きた温もり。
「俺は無力ですね。」
ぽつりと呟いた声に、マスターが勢いよく顔を上げた。
「そ、そんなことない!俺はカイトがいるから、お前が居てくれるから…。」
尻すぼみな言葉と共に下がる視線。
屈んで覗き込むと、歯がゆそうに瞳が揺れていて、マスターは壊れて泣いてしまうんじゃないかと心配になる程頼りなく危うい表情をしていた。
そっと額に唇を押し当てて囁く。
「マスターの未来は俺が保証します。」
例え誰一人マスターに見向きしなくなつても、マスターが落ちこぼれたとしても、俺を必要としなくなっても。
俺だけはマスターを記憶回路の中で生かし続ける。
「だから、そんな顔しないで下さい。寂しくなったらいつでも俺を起動すればいいんです。」
「寂しくなったら、なんて都合の良い扱いはしたくないよ。俺はほんとにお前が大事、だから。」
マスターは自分に言い聞かせるように慎重に言葉を選びながら、俺の肩を壊れ物を扱う様に抱き寄せた。
「俺はその言葉だけで十分です。」
マスターは一瞬息を飲むと、圧し殺しながら少し泣いた。
自責の念から涙するマスターを、俺はどうしたら救えるのだろう。
俺がどう足掻いたって生きた血肉を得られる訳でも、完全に自立した思考回路を得られる訳でもないけれど、それでもマスターの支えになりたい。独り善がりかも知れないが、俺はマスターが将来居なくなっても思い続けていたい。
この思いがマスターを苦しめる一因だとしても。
「本当は俺もずっとずっと死ぬ時までカイトに隣にいて欲しいんだ…。」
でもそれじゃ駄目なんだ、と静かに泣くマスターに俺は何も言えない。
俺はオモチャだから。
人の姿をしたオモチャだから。
ずきりと痛んだ胸にマスターの涙がしみる。
「マスターは優しすぎます。」
「そんなことない。」
「俺なんかにそんなに優しくする必要ないんです。」
否定の言葉はない。ただマスターの熱い涙が俺のマフラーを濡らすだけだった。
「ジレンマがあるから人は成長する、と聞いた事があります。マスターの苦しみは無駄じゃないんです。」
マスターが毎日眺めているパソコンはいつの間にかスクリーンセーバに変わっている。パソコンでさえ、休憩するんだ。マスターだってもっと休憩してもいいのではないか?
「俺を、棄ててもいいんですよ?」
やはり、否定の言葉はなかった。
ただ、唇を塞がれて息が止まった。
どれだけの時間そうしていただろう。
苦し気に息を吐いたマスター。
「俺は、お前を。」
続きはなんだったのだろう。俺の記憶はそこでブラックアウトしてしまっていた。
真っ暗な世界。
次に目覚めた時、マスターはどんな顔をしているのかな。
一秒か一年か十年か。
流れのない時間の中、最後に見たマスターの幸せそうな表情だけが記憶回路に焼き付いていた。
FIN.
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