「初めまして。」

あなたを一目見たその時。

「よろしくね。ミク。」

恋の雫が落ちました。



ぼーっと眺める梅雨空。アスファルトに溜まる水溜まりは幾重にも水紋を重ね、無数に紋様を描き続けている。ぽたぽた、ぽたぽた。私の心の中みたい。

「お兄ちゃん…。」

お兄ちゃんがこの家にきて、もうすぐ半年が経とうとしているのに、私の心の中からは波紋が消えない。あの日落ちた雫は静かに、確かに、波紋を広げ、私の全身を小さく揺らし続けていた。

「ミク。」

優しいテノールが私を呼ぶ。だけどなんとなく振り向けなくて、私は頬杖を付いて外を眺めたまま。

「何見てるの?」

すぐ横にやってきて空を見上げるお兄ちゃんを横目で盗み見。

「雨、止まないなぁと思って。」

いつも白っぽい服が多いお兄ちゃんの今日の服装は黒のボートネックのカットソーとジーンズ。窓枠に触れる大きな手にはいつも通り青いマニキュア。いつも首もとを隠しているマフラーは無くて、代わりに細いシルバーのロザリオが光っている。

「お兄ちゃん、マフラーは?」

いつもと違う服装にどきどきしながらお兄ちゃんを見上げる。綺麗に浮き出た白い鎖骨と青い髪が今日の服装のお陰でよく映えて、綺麗。
その首筋がやっぱりいつもと感触が違うのか、お兄ちゃんは首筋を撫でながら溜め息を吐いた。

「見てるだけで暑苦しい、ってマスターに取り上げられたんだよ。」

もう6月半ば、雨は降っているけどじめじめと暑い今日この頃。5部袖のレースのブラウスから出た腕にまとわりつく湿気と髪がうっとおしい位。マスターの尤もらしい言い分を納得させれには十分な気候だった。

「マフラーがないと、なんか違って見えるね。」

ちょっとシャープで大人っぽくみえる。
だから良い意味で違うと言ったんだけど、何故かお兄ちゃんは嫌そうに眉をひそめて、窓の外に視線を戻してしまった。相変わらずの空みたいにちょっと不機嫌そうな顔。

「マスターにも言われたよ。マフラーは俺の本体じゃないんだけどな。」

思わずくすりと笑みがこぼれてしまった。お兄ちゃんは解ってないみたいだけど、ミーハーで口べたなマスターは、私みたいに良い意味で違うと言ったんだろう。なんだかおかしくてクスクス笑っていると、苦笑いになったお兄ちゃんが、私の頭を撫でた。ちょっと撫でられただけなのに、私の中の波紋が大きくなって細波がゆっくりと心臓に押し寄せる。2、3回ゆっくりと動いた手は、そのまま私の長く垂れた髪を一房すくい上げてお兄ちゃんの口元へ。

「お姫様が笑ってくれるなら、それでもいいけどね。」

優しく緩んだ瞳に見つめられて、私は俯いた。

「私がお姫様なら、お兄ちゃんが王子様?」

何言ってるんだろう、私。照れと速まる脈を俯いてやり過ごす。どきどき、どきどき。自分の中から響く音がうるさい。相変わらず雨は窓をパタパタと叩いている。静寂の中、小さな衣擦れの音。のぞき込んでくる青い瞳に、私の中の全てが見透かされた気がした。

「俺で良ければ、王子様にでも、奴隷にでもなるよ。」

ちらりと上げた視線がイタズラっぽい瞳とぶつかる。かあっと頬が熱くなって目眩がした。優しく目を細めるお兄ちゃん。だけどお兄ちゃんの笑顔の意味を私は知らない。期待してもいいのか、愛妹として可愛がられているのか。ぐちゃぐちゃの思考は、おでこに触れた柔らかな唇の感触で、完全に止まってしまった。

「かわいい。」

思考と共にまばたきすら止まった私の耳に滑り込む囁き。とぷん、と一際大きな雫が落ちた音がした。それは耳の中なのか外なのか分からなかったけど、音に合わせて心臓がきゅぅっと縮んだから、きっと例の雫なんだろう。

「こんなに心臓に悪い王子様なんて、聞いた事ないわ。」

それは残念、と明るく笑うお兄ちゃん。なんだか気が抜けて、私は熱くなった体温を吐息に乗せて吐き出した。思っていたより随分熱い吐息に戸惑う。戸惑いを持て余しながら、高い位置に戻ったお兄ちゃんを見上げると幾分真剣な眼差しが私を見ていた。

「ミクが求めてくれるなら、俺はいつでも応えるよ。」

「え?」

お兄ちゃんの眼差しが、私の体液を大きく揺さぶって、音を立てる。その音と雨の音だけが支配する空間。絡み合う視線だけでの遣り取りは、私には高度すぎる。
沈黙を嫌ってか、ふ、と熱い呼吸音が不自然に響いて、空間に微妙な色彩を生み出した。灰色と、水色と、何色だろう。桃色のような、橙色のような、青色のような。

「それとも、ミクはまだ、曖昧な世界がいいのかな?」

お兄ちゃんの青い指先が、私の唇をそっとなぞって、世界は彩度を上げる。

「ううん、私はぐずぐず曇っているより、すっきり晴れている方が好きよ。」

幾重にも重なり消えない波紋も綺麗だけれど、いい加減、快晴の空が恋しい。
私に触れるお兄ちゃんの暖かな手を、両手でそっと包んでみる。その優しい手のひらに頬をすり寄せると、お兄ちゃんの、見た目より高い体温が私に染み込んだ。

「私だけの、王子様になって?」

この波紋を止めて、私の心に夏風を吹かせる事が出来るのはあなただけ。

「よろこんで。」

まるで芸術品の様に美しく微笑んだお兄ちゃん。
ぽたぽた、ぽたぽた。あの雫はもう落ちない。だけど私の心臓は熱くうるさく飛び跳ねて、結局私は新たな音に支配される。

「詰まるところ、お兄ちゃんと居ると寿命が縮まっちゃうのね。」

はは、と笑うお兄ちゃんの瞳がすっと細まって、僅かに色香が漂う。私の心臓を食らいつくそうとする、ほんの少しの獣の匂い。

「俺は所詮、王子の振りをした獣だからね。」

両頬を包んだお兄ちゃんの手が熱い。静かに重ねられた唇から、私の心臓が出て行ってしまうんじゃないかしら、なんて考えがふと過ぎる。
吐息を交わしたお兄ちゃんの瞳に、一瞬ギラリと灼熱が見えて、私はのぼせる一歩手前。ああ、食らいつくすつもりなら、私を早く楽にして。

「ミク。」

「なあに。」

「好きだ。」

私も、って言葉は声にならなくて。でも心音でバレバレよね。

梅雨明けの快晴はあっと言う間に真夏に変わる。
これからきっと、ジリジリと身を焦がされて、私は最期干からびちゃうんだわ。

「お兄ちゃんは、麻薬みたい。」


「今頃気付いても、手遅れだよ。」


甘い甘い恋の雫は、愛の麻薬。
私の体は中毒状態。





「最初の一滴で運命は決まっていたのね。」


にっこり笑うお兄ちゃんの胸に、思い切って飛び込んだ。


ぽたり。ぽた。





もうすぐ、夏。










FIN.


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