:: 君との色んな距離、±0。 | ナノ

06:君の隣、伸ばしかけた手


「佐倉君、緊急で申し訳無いんだけどこの資料に15時までに君が持ってるデータの打ち込みお願い出来る?」
「はい。大丈夫です。」
「ごめんね。まとめ終わってたんだけど急な変更箇所が出てきちゃって。他にもまとめなきゃいけないデータがあるから間に合いそうも無いのよ。」
「まだまだ修正するデータってあるんですか?」
「うーん……終電で帰れるかな、って思うくらい?」
「……。自分の方は緊急も無いし大方の仕事は目途が付いてるんで、他に手伝える事あったら言ってください。」
「ありがと。じゃあ、まずそれお願い。申し訳ないけど他にも何かあったら頼むかも。」
「はい。あんまり一人で溜め込まないで下さいね、須藤さん。」





真奈美さんと一緒に飲んだ日から三ヶ月が経っていた。
あの日は結局、先に眠ってしまった真奈美さんに続く様に俺もソファですぐに寝てしまった。内容は覚えていないけれど、何だかとてもふわふわした気分になれる夢を見た気がする。白く霞んだ視界の中で温かいものに包まれる様な、そんな抽象的な夢。
そんな夢から俺を目覚めさせたのはコーヒーの香り。その香りに誘われる様にゆっくりと瞼、そして身体を持ち上げてみれば、先に起きていた真奈美さんがコーヒーを淹れている姿が眼に入った。目が覚めて同じ空間に彼女が居る不思議。部屋を満たすコーヒーの香りと、いつの間にか掛けてくれたブランケットから僅かに香る彼女の香りが溶け合った。


「おはよう。」
「おはようございます。」
「ごめんね、起こしちゃったかな?」
「いいえ。自然と目が覚めました。」
「あと先に寝ちゃってごめんね。あとベッドに運んでくれてありがとう。」
「こちらこそ、コレ掛けてくれてありがとうございます。」


そう言ってブランケットを掲げて見せれば「いいえ。寒く無かった?」「温かったです。」などと続いていく会話。昨夜からずっと幸せな夢を見ているかの様にも感じる時間。


「お腹は空いて無い?」
「あ、大丈夫です。始発も出たろうし会社行って鍵取って来ます。」
「そう言えば、鍵忘れたんだったね。すっかり忘れてた。」
「会社でネタにしないでくださいよ。『佐倉はアホだ』って」
「しないよ。っていうか忘れ物で人を馬鹿に出来る程、あたしもしっかりしてないし。」
「……そういえば、ランチ前によく『財布が無い!』って騒いでますよね。」
「ははっ。結局バックの底の方にあるってオチだけどね。あっ、調度淹れ終わったからコーヒーだけでも飲んでってよ。」


真奈美さんが淹れてくれた少し濃いめコーヒー。それは今というこの瞬間が夢では無く現実だとしっかり思わせてくれる。いつもなら目覚めてから「もっと寝て居たい」と思うのに、こんなにも清々しい気分で朝を過ごしたのは一体いつぶりだろうか。
そんなコーヒーをご馳走になってから真奈美さんの部屋を出て、いつもより少し遅めの電車に乗って会社に向かった。平日よりも人が少ない朝の電車。ガタンゴトンと揺れながら俺の身体を会社へ、そして俺の意識をまどろむ世界へと運んで行った――…。



あれから変わらないもの、それは職場に居る時は互いを今まで通りで名字で呼び合う事。けれど職場を離れればあの日と同様に互いを名前で呼び合う様になっていた。二人の関係に劇的な変化は今のところは無いが、仕事が終わって家に帰ってから仕事以外の内容のメールや電話を交わしたり、仕事の面でも以前までは何でも一人で何とか片づけようとしていた彼女が少しずつ頼りにしてくれたり。そんな変化を少しずつ感じる様になっていた。





「……なーんか、すーちゃんと佐倉君って前から仲は良いけど最近は違った意味で仲良くなったよね?」
「…っ、げほっ!」


俺の隣、真奈美さんの真向かいのデスクに座る小林さんがポツリと溢した言葉。その言葉にコーヒーを飲みかけていた真奈美さんは勢いよく咽込んだ。


「え?動揺?すーちゃん本当に佐倉君と良い感じの仲になっちゃったの?」
「マナが急に変な事を言うからでしょ!」


ワイワイとし始めたデスク周り。日常的なワンシーンと言えばそうなのだけど、自分としても正直真奈美さんが俺の事を後輩として以外の目で見てくれてるのかどうなのか気になるところで。平静を装いながらも小林さんとやりとりする真奈美さんの一挙一動に神経を集中させていた。
自分から動き出せない自分を情けなく思う。だけど、人間は幾つになっても誰かと新たな関係を築こうとすれば臆病にだって、慎重にだってなる。
一度築いてしまった先輩と後輩という関係。それを変えようとするのは容易では無い。


「何だ、随分楽しそうだな。」
「井上さん。お疲れ様です。」
「あっ、井上さんお帰りなさい。聞いて下さいよ!知らぬ間にここの二人が良い感じの仲になってたんですよー。」
「マナっ!」
「……って、須藤は言ってるけど佐倉はどうなの?」
「えっ?俺ですか?」


そう言って俺に話を振った井上さんは、小林さん同様にこの状況を面白がってる様子に面白がってる様に見える。話の矛先が自分に向かった事に対して本当は心臓が跳ね上がっている。
「正直、そうなれば良いんですけど…。」なんて本音を言える訳も無ければ、変に否定したらしたで怪しがられるだろうし何より真奈美さんへの気持ちに嘘を付く事も出来なくて。


「須藤さんが手一杯になってるみたいだったんで手伝ってたんです。お礼は明日の昼飯に録禅亭の焼き肉弁当が良いなと思って。」
「は!?録禅亭の焼き肉弁当とかめっちゃ高いし!缶コーヒー一本で我慢しろ!」
「佐倉も言う様になったなー。須藤奢ってやれよ。」
「えー、それじゃあマナも手伝うから奢って欲しい!」
「だから!何で!」
「小林、あんま邪魔すんな。手が空いてるならオマエは俺の仕事手伝え。」
「何で井上さんの仕事手伝わなきゃいけないんですか。」
「手伝ってくれたら明日のランチにオマエの好きなもん奢ってやるぞ。俺は須藤と違って本当に奢ってやる。」
「本当ですか?じゃあ手伝います!30分くらい。」
「オマエ30分は手伝いに入んねーっつうの。」
「井上さんは人遣い荒いから30分でも3時間くらいの労力を使うんです。」


話題が逸れてガヤガヤ言い始めた二人を横目に、モニター越しに真奈美さんと眼が合う。どちらとも無く笑って、和む雰囲気。だけどそれはあくまでも職場の先輩と後輩としての雰囲気。
職場の雰囲気は凄く良いけれど、職場以外でもそろそろ次のステップ的なものが欲しいと思う様になっていた。変わらないままでいい、そう思っていた関係を変えたくて。

課長のゴホンというわざとらしい咳払いが遠くの方からこちらに向けられた。皆で顔を見合わせ、「さぁ仕事仕事〜。」なんて言いながらそれぞれの席について意識を目の前の仕事に集中させた。

定時が過ぎ、段々と人数が減っていくオフィス。気が付けば俺と真奈美さんは黙々と目の前にあるモニターに集中しながら手を動かしていた。カタカタとキーボードを叩く音が響く。集中力を切らす事無く黙々とパソコンと向き合いようやく頼まれたデータをまとめ終えモニターから視線を外すと、俺と真奈美さん以外オフィスに残ってる人は居なくなっていた。真奈美さんはまだ手を休める事無く真剣にモニターを見つめている。

データをまとめ終わった事を告げると、彼女もう少しで自分の方も終わるからもう大丈夫と言ってくれた。そんな彼女を置いて帰るなんて事も出来る訳が無く、席を離れ自動販売機へ向いブラックコーヒーを2本買って戻る。


「須藤さん、これどうぞ。」
「え?あ、ありがとう。」
「いいえ。あの、迷惑で無ければ…終わるまで待っててもいいですか?」
「……うん。あと15分くらいだから煙草でも吸ってきて。」
「15分くらいならここに居ます。須藤さんが終わったら一緒に一服しましょう。」
「ありがとう。だったら尚更すぐに終わらせなきゃね。」


俺が買ってきた缶コーヒーに口を付け一瞬ホッとした様な笑顔を見せてから、またモニターと睨めっこする真奈美さん。見慣れている筈の真剣なその表情に胸がドキっと高鳴った。
こんな風に真剣に仕事と向き合う先輩として、仕事の合間におどけて笑い合う仲間として、俺なんかの言動に照れたりしてくれる女性として。色々な表情を見せる彼女から目が離せない。そんな真奈美さんの姿を見つめながら自分も買ってきたコーヒーに口を付けた。あの日飲んだコーヒーよりも薄い味だけど温かくて身に沁みていく。
完成している自分の仕事のデータの見直しなんかをして真奈美さんの仕事が終わるのを待った。


「終わった―!佐倉君のお陰で助かったよ。」
「いいえ。半分も手伝えなかったですけど。」


やっぱり真奈美さんの仕事の早さには頭が上がらない。終電に間に合うか、と言っていた仕事。それは俺一人だったら終電どころか始発が出るのと仕事が終わるのではどちらが早いかと言う程の量だったにも関わらず、真奈美さんは大方自分でその量の仕事をさばいた。


「一人でやるよりも効率良かったし、佐倉君にまとめてもらったデータも分かりやすかったし。本当にありがとう。さて、一服して帰ろうか。」


「そんな事無いです。」と続けようと思ったけど、きっといつまでもそんな会話が続く気がしてその言葉を飲み込んだ。時間はまだ21時過ぎ。終電の心配なんてまだまだしなくても大丈夫な時間。俺達は帰り支度を整え、そのまま一度喫煙所に立ち寄った。今度は真奈美さんが買ってくれたコーヒーを片手にゆらゆらと吐き出した煙を見つめる。

こうして隣に居られる事の幸せ。先輩と後輩以上の関係を俺が望む事で、最悪の場合この幸せも手放してしまうかもしれない。
だけどそんな事を気にしていたらいつまで経っても、変化なんか訪れやしない。今の俺に足りないものは踏み出す勇気以外の何でも無い。


「さ…、健吾君。考えておいてね。」
「はい?」
「明日のお弁当じゃなくて、せっかくだから今度都合の良い日にでもちゃんとお礼させてくれない?」


そう言った真奈美さんの笑顔。変化を求めているのは自分だけじゃないと思ってもいいのだろうか。
例え俺の勘違いであっても、きっと今が踏み出すタイミングなのかもしれない。踏み出さなきゃ何も始まらない。

「二人の関係が変わっていきます様に…」と願うのでは無く「二人の関係を変えていこう」そう心から思った瞬間だ。
すぐ近くにある彼女の手を握りしめる事が出来る様になる様に。


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