どれくらいの間そうしていたのか。 いや、多分時間的にはきっとそう長くはない。だけど、互いに真っ赤になったまま口を噤んで流れる時間はあまりにも長く感じられた。 会社の先輩と後輩としての付き合いでは「須藤さん」と呼んできた俺が思わず呼んでしまった「真奈美さん」というのは、彼女の事を心の中で先輩としてではなく一人の女性と想うが故の呼び方で。 たかが呼び方。 されど、そんな呼び方ひとつに酷く動揺してしまう俺達。 呼び方ひとつでここまで意識してしまうなんて、どうかしてしまったのだろうか。特別な意味など持つ事なく女性の下の名前で呼ぶ事だって、今まで付き合ってきた女の子だって当たり前の様に名前で呼んできたのに、どうしてこんなにも甘酸っぱい様な気持ちになってしまうんだろう。 それは俺だけじゃなくて、真奈美さんも一緒の筈だ。これまで家族や友達、それに恋人にだって当たり前の様に呼ばれてきたであろう下の名前の筈なのに、まるで呼び慣れてないみたいな反応。それが余計にくすぐったくて、でも決して嫌なものなんかじゃない。 「………。」 「………。」 「「あのっ、」」 気まずい空気を変える為に声をかけようとした二人の声が重なる。同じタイミングで発した互いの声に一瞬戸惑いながらも、今度はタイミングが重ならない様に真奈美さんの言葉を待った。 「えっと、何?」 「いや、須藤さんからどうぞ。」 「あ…、戻った。」 「え?」 「え、あっと、……呼び方。」 「それは…、さっきはすみませんでした。『真奈美さん』なんて慣れ慣れしかったですよね。」 「いや、こっちこそ何か変に意識しちゃってごめん。……中学生かってのね。」 「……今時の中学生がそうかは分かんないっすけどね。」 「何よ。自分だって、ちょっと動揺したくせに。……ふふっ。」 「ははっ。」 さっきまでの気まずさとか気恥かしさを吹き飛ばす様に二人で笑い合った。そうすれば二人の間に広がるのは穏やかな雰囲気。 恥ずかしがったり戸惑ったりしながら、最終的に感じるこの雰囲気にさっきまでとは違って心の底から安堵した。 「でも別に今は会社に居る訳じゃないし、自然に出ちゃったなら意識しないで真奈美って呼んでくれてもいいよ。」 「え?」 「……「え?」ってさっきも聞いた。君はそれが口癖なのか?」 「そうゆう訳じゃないですけど。でも……。」 「今更照れてる?それなら、あたしも下の名前で呼ぶからさ。ねっ、健吾君。」 初めて真奈美さんから呼ばれた下の名前。それは今まで色々な人から呼び慣れてる俺の名前の筈なのに、他の誰からも呼ばれた時よりも胸に温かく広がって行く様な感覚だ。 さっき感じた雰囲気の様に胸の中に広がるのは照れ臭さよりも安堵で、自分の顔がみるみる綻んで行くのが分かる。 「なんか俺、真奈美さんには敵わない気がします。」 「当たり前じゃない。先輩なめんなっつーの。」 「でも、弱点見つけましたよ。」 「え?弱点?」 「はい。……女の子扱いとか、不意打ちとかで動揺する可愛い所。」 「なっ……!」 「ほら、赤くなった。」 「……からかうな!生意気!」 「ははっ。やっぱり照れてる。可愛いっすね。」 「……あたしは健吾君は凄く恐ろしい子だと思い知った気がする。」 「何でですか?」 「こんな風に誰かにすっかりペース乱される事なんて今まで無かったもん。あたしの方が実は健吾君には敵わないのかもね。」 そう言って目を細めて笑う真奈美さん。敵わないのは間違いなく俺の方だ。そんな表情ひとつひとつに胸の中を取り乱されていく。 「さて、改めて今日は会社での先輩後輩じゃなくて気楽にいこうか。」 「何か、今更ですね。」 「今更で結構。」 もう何度と交わした乾杯を再びし、俺達は缶ビールを口にした。真奈美さんが作ってくれた一品料理や居酒屋でも色々話したのに、まだまだ尽きない話題をつまみにして。 さっき話しそびれた学生時代の事だったり、家族や友人の事。それから彼女の部屋に訪れて知った共通の趣味。どのバンドの音源が良いとか、いつ行ったライブが良かったとか。それから好きな映画の事だったり。 取り留めの無い事の様でこれらが彼女の事をもっと知っていく為の、俺の事を知って貰う為の材料にもなるんだと感じながら、たくさんの話をした。 そしてやっぱり、真奈美さんは不意打ちだったり褒め言葉だったりにとても弱い人だ。 職場ではサバサバしている彼女だけど、本当は人に弱さを見せるのが苦手で、照れ屋で、女性としての魅力に溢れている人。 煙草を吸いながら浴びるほど酒を飲む姿は、職場での彼女のイメージ通りだけど。 でもどっちの真奈美さんもやっぱり魅力的で。そんな彼女の色々な面を知れば知る程、もっと色々な姿を見たくなる。 そして、心から俺はこの人の事が好きなんだと再認識した。 酒豪と言えど延々と飲み続けた結果、空がほんのり明るくなり始めた頃にはソファに背中を預けて静かな寝息を立てた真奈美さん。初めて見る彼女の寝顔は普段よりも少し幼くてあどけない。下がった眉尻に薄く開いた唇から聞こえるのは気持ち良さそうな寝息。そんな彼女を起こさない様に静かに窓際のベッドも運び、小さな子供をあやす様にそっと頭を撫でればより一層穏やかな寝顔を見せてくれた。 これから先も別に何かを期待する訳ではなく…。なんて出来そうにも無い。彼女が、真奈美さんの事が愛しくてたまらない。 この数時間で起きた出来事が全て夢ではありません様に。ゆっくりでもいいから二人の関係が少しずつ変わっていきます様に。 そんな事を思いながら俺はソファを借りてゆっくりと瞼を閉じた。
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