「俺行きたい所あるんだけど、今からそこに行ってもいい?」 とある日曜日のお昼前、今からだいたい30分くらい前。そう言った健吾君に連れられ、あたしの身体は行き先も分からないまま電車に揺られていた。 平日は仕事帰りに一緒にご飯を食べたりするものの、特別な何かが無ければそれぞれ自分の家に帰って翌日また会社で顔を合わせる。週末は金曜の夜だったり土曜の夜だったり、はたまた両方だったりをどちらかの家で過ごしたりする。 一昨日の夜と昨日の日中は互いに用事があり、昨日の夕方前から健吾君と会ってあたしの買い物に付き合って貰ったり街を少しぶらついたりご飯の買い出しをしてから家でご飯を食べ、その後そのままあたしの家に健吾君が泊った。 昨日の時点では今日の予定は特に無かったけど、昨日は私の都合に付き合わせてしまったし健吾君が行きたい場所があるのなら、今日はこうやって急遽どこかに行く事にするのは全然構わない。 家を出る前、駅に向かう途中、電車に乗ってから「ねぇ、どこに行くの?」と健吾君に行き先を尋ねてみたが何度聞いても答えは決まって「着いてからのお楽しみ」と言われ、結局あたしは行き先を教えてもらえないで居た。 ガタンゴトンと走行音以外は静かな車内。だけど私は、左耳だけでテンポの良い、今日の天気みたいな爽快なメロディを拾っている。左耳だけしてあるイヤホン。もう片方は健吾君の右耳に。 彼の右耳からイヤホンコードの行方を目で追って視線を私の斜め左下に向ければ、健吾君が自分の膝の上で音楽プレイヤーを持っていないもう片方の手で小さくリズムを取っていた。 頻繁では無いけど、電車に乗ってる時とか、カフェでゆっくりお喋りをした後とか、どちらかの音楽プレイヤーを取り出してこうやって一つの音楽プレイヤーで音楽を共有するのがあたしは好きだったりする。単に音楽を楽しみたいからとか会話に困ったからとかじゃなくて、こうやって音楽を共有する事は会話とはまた違った心の通わせ方の手段のひとつの様な気がするから。 今日は健吾君が乗車駅から二駅程進んだ辺りでプレイヤーを取り出し、片側のイヤホンを渡してくれた。 そんな健吾君の音楽プレイヤーから流れてくるのはあたしの知らない曲だったり、あたしも知ってる曲だったり。今流れてるのは健吾君の好きなバンドの曲。健吾君と付き合う前までは名前だけは知ってたバンド。こうやって彼と一緒に音楽を聴くうちにあたしも好きになってったバンド。 健吾君と同じ様に自分の左膝の上で小さくリズムを刻み始めると、それに気が付いた健吾君がこちらを向いて小さく微笑んだ。小さく揺れる身体と、小さく踊る心。 小さくリズムを取っていた手をどちらとも無く止め、絡まる指先。「着いてからのお楽しみ」と健吾君が言うのだから、きっと今向かってる先はあたしの心をもっと躍らせてくれる場所なのだろう。指先から伝わる温度、左耳にだけ響くメロディーの心地良さにあたしの意識は次第に薄れて行った。 急に左耳からイヤホンを静かに抜かれた。電車の揺れと音楽、そして今も絡まる指先の温度が心地良くて、どうやらあたしは本格的にうとうとしてしまっていたらしい。 ぼんやり、ふわふわ、どちらが適正か分からない感覚のままゆっくりと隣に座る健吾君の方に視線を向ければ、いつもの柔らかな笑みに少し申し訳そうな色が混ざっている。どれだけうとうとしてしまっていたのかと、車内の電光表示に目を向ければ乗車駅から十駅程先、あたしの記憶がある駅から五駅程先の駅名が表示されていた。 「……ごめん、うとうとしちゃってた。」 「いいよ。気持ち良さそうだったのにごめん。次の駅で降りなきゃいけなくて。」 そう言われてもう一度次の駅名を確認するため電光表示に目を向ければ、そこは最寄に大きくて有名な水族館がある駅だった。 「水族館に行くの?」 「当たり。って流石に駅まで来たらバレるよね。」 「水族館…、凄く久しぶりだから嬉しい。」 「そっか。」 「健吾君は?………、」 (前の彼女とか、これまでデートでは結構行ったりしてたの?) と言葉を続けそうになって、その言葉を飲み込んだ。あたしにだってこれまで付き合った人達の思い出だったり、それこそ水族館でデートした事だってあった。なのに自分の事はさて置き、みたいな感じでいちいち過去の事を持ち出すのは何か違うよな、と思ったから。 あたしは恋に恋するタイプの人間では無かったと思う。相手の事は勿論好きだったけど、互いの過去に嫉妬や後悔を抱く事なんてほとんど無かったし、相手の事を想ってはいるけどそれだけで心の中が埋まるとか、いつだって恋愛で頭がいっぱいになる事は無かった。 「真奈美って恋愛に関して淡白な方だよね?」と付き合いの長い友人に言われた事がある。だけどそう言われた時、あたしはあたしなりに恋愛してきたと思っていたから「そんな事なく無い?」と言ったけど今なら何となくその友人が言っていた真意が分かる様な気がする。自分の中で色々なカテゴリーが存在していて、あくまでも恋愛はその中の一区画と言った感じが正しいかもしれない。 だけど健吾君を好きになって、あたしの中から色々なものの間を隔てる壁みたいなのは無くなったと思う。四六時中健吾君の事ばかりを考えてる訳じゃないけど、いつだって何をしてても何を考えて居ても最終的にそれは彼への想いと繋がる様な、あたしの中で全てが溶け合って彼を想う気持ちになってる様な、そんな気がしてならない。 こんな風に自分の中で何かが変わる様な恋愛は初めてで、そしてそんなあたしの内側まで全てを包み込んでくれる様な健吾君の前では、あたしは年甲斐も無く恋に一生懸命になってしまってる。 彼の言葉、行動、色々な事であたしの中で色々なものが溶け込んで、自分でも驚くほどドキドキしたり冷静さを失ったり、些細な事にさえ一喜一憂してるのだから。 きっとこんな風に過去を気にするのも相手が健吾君だから。知りもしない過去に勝手にヤキモチに似た感情を抱くのも相手が健吾君だから。 そして、そんなあたしの内側を見透かしてしまうのも相手が健吾君だから……。 「俺は多分もっと久しぶりだよ。小さい頃に家族でとか、あとは遠足とかでしか来た事無いかな。」 「そうなの?大人になってからは?」 「大人になってからは無いな。別に興味が無いとかじゃなくて水族館に行くって発想が無かったって言うか。……今まで水族館デートとかした事あるんじゃないの?って思ってるでしょ。」 「え!?」 「無いよ。だから、初めての水族館デート。」 ほら、そうやってやっぱりあたしの中を全部見透かしてしまう。だけどそれを煩わしそうにする訳でも咎める訳でも無く欲しい答えをくれて、そして見透かされた私がこの後変に意地を張ったりしない様にその場の空気を穏やかにしてくれる。 「……それじゃあ、何で急に?」 「え?」 「水族館デート、する気になったのかなって。しかも昨日まで全くそんな話してなかったのに。」 「昨夜テレビでやってた海中映像見て「凄く綺麗」って言ってたでしょ?ちょっと違うかもしれないけど。」 「昨日のあたしの一言がきっかけ?」 「最初はね。でも今は真奈美さんの一言の為とかじゃなくて、ただ俺が真奈美さんと一緒に水族館に行ってみたいなって。」 そう言って笑った健吾君。本当に健吾君には敵わない。今まで何度そう思っただろう。 『○△×。○△×。出口は右側です……』 車内アナウンスが小さく響いた後「じゃあ降りようか」と今度は健吾君の声が耳に届く。ホームに着いて止まる電車、まるで水族館の水槽の中を泳ぐ魚みたいに流れる人々。その流れにあたし達も乗って電車を降りた。 改札を抜け歩いて数分の水族館までの道の途中、解かれる事無く絡まったままの指先から伝わる体温に心地良さを感じながら、ハッキリした目的地に楽しみな気持ちを募らせていたら「あのさ、」と健吾君が小さな声で呟く。 「えっ、何?」 「俺もだよ?」 「……何が?」 「過去とか、俺が知らない思い出があるのは仕方無いし構わないと思うけどただ、……ちょっとだけ妬けるって話。」 思っても無かった言葉に耳を疑う。健吾君がそんな事を言うと思って無かったから。 「……で、」 「……で?」 「真奈美さんは初めてじゃないよね?」 「何が?」 「水族館デート。」 「……えーっと、それはまぁ、その、………ありますけども…。」 「ふーん。」 さっき直接聞かなかったものの、過去の事を最初に気にしたのはあたし。「自分の事は棚に上げて」みたいな感じで呆れられてるだろうか?なんて思いながら健吾くんの表情を見てみれば、そこには玩具を見つけて目を輝かせてる子供みたいな顔した健吾君があたしを見つめていた。 「ちょっ、その顔!ちょっとだけ妬けるとか言っておいて単にあたしの事からかってるでしょ!」 「ははっ、バレた?」 「もうっ!」 「だって、真奈美さんが凄く申し訳無さそうにするから。でも、過去は気にしないっていうか仕方無いって思ってるのも、妬けるってのも本当だよ?……だから変えられないものをどうこうじゃなくて、俺は真奈美さんにとって「最高」の思い出を作っていきたいなって。」 初めてじゃないけど、初めてだよ。こんな風に想い想われながら水族館デートするのは。 ………いつだって、何をしたってあたしの中で健吾くんとの思い出は「最高」にしかならないよ。 そんな想いを言葉にするのはやっぱりどこか照れくさくて、だけどそれ以上に泣き出してしまいそうで。 あたしは?あたしは健吾君にとって「最高」の思い出を残せてるかな? 色んなものを分け合ってるつもりでいたけれど、あたしばっかり健吾君からいろいろなものを貰ってばっかりになってないかな? 言葉じゃ無くて健吾君の右手からあたしのこの想いが彼の心に届きます様にと願いを込めながら繋いだ手にほんの少しだけ力を込めれば、そんなあたしの想いを汲み取る様に握り返してくれる健吾君の手。 温かくて大きな手がまるで…… 「……俺も。」 空耳かと思った。だけど、あたしの目を見て健吾君はもう一度「俺もだよ。」と言ってくれた。 そのままあたし達は目的地に到着してから、暗い館内の中に浮かび上がる様な水槽とその中を泳ぐ魚たち、各々に与えられた水槽の中で静かに動く様々な海の生き物たち、広々としたプールで泳ぎ回るイルカや大勢の観客の前で芸を披露するアシカなどを見て回った。 繋いだままの手からは体温だけじゃなくて、様々な感情さえも分け合う様にしながら。 この一瞬一瞬、温もりや感情ごと目の前の大きくて幻想的なこの水槽の中に閉じ込める事が出来ればいいのに。 なんて、温かい涙が滲んだままの目で思った。
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