フリージアの花束を
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「ネイト、お前疲れてるだろ」

 突然言われた、空気を読まない言葉。全く、これから致そうというときにこの男は。思わず眉を顰め、多少の苛立ちを込めて低く唸る。

「……何を」

 するとウェイドは緩やかな笑みを浮かべ両の腕を差しのべると、そっとネイサンの輪郭をなぞった。

「何って、疲れてんなあって思って」
「俺とするのが嫌か」

 決して滑らかとは言い難い独特の指先がネイサンの顔を撫でていく。擽ったさと、お預けを食らったことに憮然としてそう言えば、ぷは、と小さくウェイドは吹き出した。

「いや、そうじゃねえよ。つーかそんなに怒んなって」

 よしよし良い子良い子、と宥めるように撫でられる。
 自分を見上げてくるヘイゼルはいつものような騒がしい煌めきから色を変え、凪いだ湖面のように穏やかだった。
 いつになく穏やかなウェイドとは対照的にネイサンは落ち着かない気分に陥る。こんな子供のような扱いも、恐ろしく平静なウェイドも、どちらも慣れない。
 どうしたら良いのか、うまい対処法を見いだせず、しかし行為をしたいという欲は未だにネイサンの身体の中で熱を持ちくすぶり続けている状態で。ウェイドを押し倒したままネイサンは困ったように眉値を寄せた。
 疲れている、と言うウェイドの台詞に心あたりがない訳ではない。つい先ほどこの時代に飛んでくる直前まで戦場を駆け、組織を潰し、火薬と硝煙の匂いにまみれていた。
 そんな自分に一瞬だけ許された休息の時間。
 その貴重な刹那をネイサンはどうあっても久しぶりに逢うことのできた愛しい人間とその愛を確かめあう行為に使いたかった。
 彼と話すことは好きだし、もちろん騒がしくも穏やかな食事とて嫌いではない。だがどうしても長いすれ違いの時間に空けられた心の穴をこの男で埋めたかったのだ。

「ウェイド」

 名を呼んで、はたと困る。ウェイドは口では否定するがいつだってネイサンの事を好ましく思っている。それはネイサンも同じことだ。だからネイサンも無味乾燥なセックスではなく、恋人同士として彼を抱きたかった。
 しかしそんな甘い関係で直球にセックスがしたいと言うのは些か情緒にかける。
 だが残念なことに時を駆ける救世主は目の前で慈愛の表情を浮かべている男ほど、相手を口説きその気にさせる甘い言葉を持ち合わせていないのだ。
 今の状況を打開する術を持たない銀髪の子供はストップをかけられたまま、ただ困ったようにシーツに皺を寄せる。

「あーもー待てネイト。んなしょぼくれた顔すんなよ」

 途方にくれる男にウェイドが笑う。相も変わらず穏やかな表情に自分だけが焦っているようでなんとも形容しがたい澱のような感情が積もって行く。
 しかし当の引き金を引いた男は自若たる様子で、ゆるりと身を起こすとそのままネイサンの首に腕を絡ませた。

「ほーら力抜けって」

 一体何をする気なのか。読めない行動に不審がりながらも大人しく爛れた腕に抱かれ軽い力で共にベッドに沈む。
 抱き締められ向かい合ったまま見つめ合えばウェイドはもぞりと身体をずりあげ、鍛えられた胸板にネイサンの顔を押し付けた。
 とくとくと、熱い鼓動が耳に心地良い。

「リラーックス、リラックス」

 幼子を寝かしつけるように背中をとんとんとタップされ、静かな囁きが暗示をかけるように染み込んでくる。
 俺は子供じゃない、ため息混じりにそう抗議しようとして、吐いた息と共に全身から力が抜けていく。
 どうやら予想以上に全身が強張っていたらしい。内心驚きながらすぐ近くで煌めくヘイゼルの宝石を見上げれば、それは少し悪戯めいた色を帯びていた。

「お前すっげえ表情してたぞ」

 クスクスと笑い、髪にキスを落としながら小さな親は大きな子供の頬を撫でる。

「クマも浮いてるし、……折角の色男が台無しじゃねえか」

 なあネイト。
 優しげな囁きがじわりと沁みてくる。

「たまにはおとなしく甘えてこいよ」

 慈愛の篭った、少し照れたような声。素直になりきれない彼らしい反応に思わず口許が緩んだ。

「ウェイド」
「うん?」

 胸板に顔を刷り寄せ深く息を吸う。鍛え上げられた筋肉に包まれた胸は決して柔らかな感触ではなかった。しかしその中心でとくとくと波打つ拍動に、少し高い体温に、ひどく安心する。

「……疲れた」

 思わず零れ落ちた本音。己を抱き止める男は平静のままうんうんと相づちを返す。柔らかな声も背中から伝わってくる優しいリズムのタップも酷く心地良かった。
 いつ以来だろうか。
 甘い空気に意識を漂わせながらネイサンは思った。こうやって体温を分け与えられ、甘やかされるなど、子供であることが許されるなど。
 そしてそれと同時にこの男が自分を庇護の対象として見ているという事実が堪らなく嬉しかった。

「ネイト君はがんばり屋だからなあ」

 微かなからかいと笑みを含んだウェイドの声、後頭部の髪を優しく撫でる手、身体を包む体温。
 ああこれは逆らえない。
 全身を優しく包む温もりの海に浸りながら思考が溶けて行く。

「……おれは……」

 それでもまだ彼の体温が欲しくて、ほとんど力の入らない己を叱責しなんとか鍛えられた筋肉をなぞる。だが必死に縋る手は細い指に絡めとられ、赤子のようにふにふにと遊ばれてしまう。

「だーめ、今日はおあずけだ」

 くすくすとおかしそうに笑う声。しかしそれは耳に心地よく、蕩けてしまった思考がさらに現実と夢の境界線を曖昧にして行く。
 向い合わせで頬杖をついたウェイドが問いかけ来るのを現実離れしたような感覚でぼんやりと見上げる。
 ああ……そうだな。うん。もっと、そう、そうだ。いやだ、どうしてもだ、ぜったいだ。
 ちぎれ雲のようなふわふわとした意識の中、耳障りの良いウェイドの声に答えながらまぶたが降りてくる感覚になんとか抗おうと必死に身体に力を込め緩やかに首を振って見せる。
 いやだ……ウェイド……もっと。

「おやすみ、ベイビーボーイ」

 すっかり遠くなってしまった感覚。それでも遥か彼方から響くリップノイズはちゃんと聞こえ、こめかみに柔らかい唇の感触がする。優しい温度にくるまれ、ネイサンは意識を手放した。



***



 ふ、と意識が浮上する。覚醒と睡眠の狭間のとても心地好い微睡みの中、揺蕩う水に浮いているような感覚が酷く幸せだった。だが何処か物足りなさと肌寒さを感じてふわふわとした思考のまま温もりを探す。
 しかしいつまでたっても昨晩、己を包んだ温もりは見付からず。ぼんやりとネイサンは身体を起こした。

「……うぇいど?」

 はぐれた子が親を探すように、寂しさを纏いその名を呼ぶ。
 だが見回した視界に入るのは二人には狭いベッドに一人広く取り残されていた光景だった。

「ウェイド?」

 何かあったのか、いやそもそも今何時だ。
 そこでやっと乱雑にかかったカーテンから差す日差しは高い事に気づく。一気に意識が覚醒しラフな服装のまま寝癖も直さずベッドから飛び出した。
 転がるようにリビングへ飛び込めばフライパンにフライ返しを持ったウェイドが驚いた表情で自分を振りかえった。陽の光に煌めくヘイゼルの瞳と視線がぶつかり合う。

「っい、今何時だ?!」

 いつになく焦りながらネイサンは叫んだ。
 寝起きで飛び起きたネイサンは頭が回っていなかったし、突然起きてきたかと思えば血相を変えてリビングに飛び込んできたネイサンにウェイドも数瞬思考が停止してしまう。
 しかし、次の瞬間にはウェイドは盛大に吹き出し、フライパンとフライ返しを握ったまま心底おかしくてしょうがないと言う様子で笑い出した。

「おま、なにその、かみがたっチョーウケんだけどっ」
「ウェイド!」

 身を折りながらひーひーと笑う男にネイサンは思わず声を張り上げる。

「おいおい赤ちゃん返りして昨日の話はノーカンってか」
「なんの、話だ」

 眉間に深く皺を刻み難しい表情を浮かべる。すると指先で涙を拭いながらウェイドは唇を尖らせた。

「お前が言ったんだぜ、すぐ発たなくてもいいから明日も甘やかせって」
「っそ、それは……」

 言ってない、とは咄嗟に言えなかった。何故なら微かに残る記憶の残滓に、うっすら己がもっともっとと目の前の男に求めた記憶が残っているからだ。

「は、半分眠った状態だろう」

 誘導尋問じゃないかと、思わず小声で言い訳を呟いてしまう。
 するとウェイドはやれやれと肩をすくめて見せた。

「あーそー、クソ忙しい救世主様は昨晩のベッドの約束なんてどーでもいーんだ。わざわざ隣でぐっすり寝てるでっかいジュニアを起こさないようにこっそりベッド抜けて、朝にうまいパンケーキとココアでも用意しておいてやろうと準備してたんだけどなあー」

 そっかそっかあ、とわざとらしく声を張り上げ、くるりと背を向けるウェイドにネイサンは焦る。

「っいや、ち、違う! 待ってくれ!」

 慌てて手を伸ばし、背後から己よりはいくぶん華奢な身体を抱き締める。僅かに鼻腔をくすぐる昨晩と同じウェイド・ウィルソンの匂いに思わず手に力がこもった。

「……悪かった」

 思い返してみれば彼の焼いたパンケーキを食べたいと言った記憶が脳裏でひっそりと姿を現す。しかもそれだけではない。今日一日、ウェイドの時間をくれと抱き締められながら駄々をこねた記憶、もっと声が聞きたいとせがんだ記憶、ずっと側にいて欲しいとねだった記憶……等々。
 昨夜のベッドでの記憶がどんどん呼び起こされてネイサンは恥ずかしさに隆起の多い首筋に顔を埋めた。

「……俺が、その…………無理を言った、んだな」
「そーだよばーか」

 決まり悪げに小声で呟くと己の腕に閉じ込められたまま、ウェイドはふは、と吹き出した。

「まあ、俺ちゃんはウルトラハイパーミラクル優しい
イケメンだからな」

 今日一日は何だってやっちゃうぜ。
 慈愛に満ちた表情を浮かべヘイゼルの双眸が己を振り返る。思わずこちらを向いた、悪戯っ子のような笑みを浮かべる唇に口吻たのは本心からの親愛の感情だ。
 夢中で恋人の唇を堪能しながらふと、思う。
 ああ、幸せだ。


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