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「なまえさん、さすがにお人好しが過ぎませんか」
「いいのいいの、ぱぱっと終わらせるから」


夜になってもまだ机と向き合う先輩の姿に、男の後輩は呆れ顔で「あいつ、厚かましいにもほどがありますよ」と吐き捨てた。


「いいんだって。大丈夫だから。ほら、もうここまで終わった!」
「………」
「な、なに?」
「尻拭いばっかやって、お疲れ様です」
「………どうも」


事の発端は、今朝まで遡る。


+++

 
「そんじゃ、今晩は合格した子たちみんな集まってね。ついでに男の子も」
「ついでって何ですかついでって。お祝いなんですよ」
「あいたっ」


伊勢は呆れ顔で上官を小突いた。お決まりの夫婦漫才に隊員たちはくすくすと笑い、朝礼の雰囲気は非常に和やかなものだった。

今夜は、昇格試験の合格者を集めた飲み会が開かれる予定なのだ。
一隊士の給金では到底縁のない料亭を貸し切って行われる宴会は、初めての昇格を果たした者からすれば隊長格とお近づきになれるチャンスなのだから、色めきだつのも当然だった。
しかし昇格とは縁のないなまえには興味のない話題で、明日は休みだから今日は早めに切り上げて1人で飲みにでも行こうかとぼんやりしていたのだが、夕方になって無関心のツケが回ってきた。


「あれ?これ誰の?真っ白だけど」


残る仕事は地獄蝶の世話だけといったとき、机の上に放置された遠征計画書を見つけてしまったのだ。締切は三日後だというのに清々しいほど真っ白で、受け持ちの仕事でもないのに冷や汗が噴き出る思いがした。担当者はこの度晴れて二十席になった後輩の女で、遠慮がちに尋ねると彼女は今にも泣き出しそうな勢いでうろたえ始めた。嫌な予感に、なまえの顔つきも険しくなる。


「どうしよう、忘れてた…でも私、これから飲み会が…」
「…そ、そうだね」
「京楽隊長に認めて欲しくて、私、試験頑張ったんです」
「急げば明日でも間に合うんじゃないかな」
「でも私、明日と明後日休みで…」
「……あ、そうなんだ…」


虚討伐には当然、計画書が必要となる。
班編成、遠征費予算案などを練った計画書を申請し、上が確認、許可することで討伐任務が可能となるのだ。
今更やっていないなど自業自得だと責めたい言葉を飲み込んで、将来有望な年若い後輩に「私がやっとくよ」と不機嫌を隠してほほえんでやる。

自分の甘さが、この時ばかりは嫌になった。


「いいんですか!?」
「うん。せっかくのお祝いだしね、楽しんでおいで」
「ありがとうございます!」


白々しい、さっきから助けてくれと言わんばかりにチラチラと見ていたくせに。踊るかのように部屋を出た彼女の後ろ姿からは悪びれた様子ひとつもうかがえなかったが、席官なら責任持って仕事しろよと素直に本音を吐き出すには、なまえは長く生きすぎていた。
一連の出来事を遠くで眺めていた後輩の青年が気の毒を通り越した呆れ声を投げかけた。疎ましげな顔は、どこか浦を連想させる。


「普通叱るところじゃないんですか?」
「やだ、見てたの?」
「俺これから夜勤なんで、暇があれば手伝いますよ」
「いいよ、さっさと終わらせるから」
「よく後輩からパシられてますよね。大変っスね」
「パシられてないよ…」


まさに図星で、後輩に慕われるというより体よく使われることの方が多い。何ならすぐそこの廊下で先ほどの後輩が「私、京楽隊長の隣に座りたい!」などときゃあきゃあ騒いでいるのだから、相当舐められている。
のんべんだらりと過ごしていることの代償だろうか。人の気も知らずとぶん殴ってやりたいが、こればかりはまさに自業自得だった。

やっと一息ついていると、隣に座る後輩の青年が躊躇いがちに口を開いた。


「あの、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「どうして試験を受けないんです?」
「そのレベルまで行ってないんだって。あなたもすぐ私を追い越せるよ……ああだめ、言っててつらくなっちゃった。ねえ、休憩しようよ」
「あ、俺お茶淹れてきます」
「ありがとう」
「こんな時間までご苦労さん」


後輩が立ち上がったとき、廊下の障子がするりと開いて京楽が姿を現した。


「京楽隊長!び、びっくりした…お疲れ様です」
「あれ?なまえちゃんもいたのかい。夜勤だったっけ」
「お疲れ様です、京楽隊長。この人、また他の人の仕事受けたんですよ」
「お利口さんだねえ。ま、お人好しも程々にね」
「…はい」
 

赤ら顔の京楽がへらへらと気分良さげに微笑み、「みんなで食べてよ。一応男の子の分もあるから」と、久里屋の包みを差し出した。滅多に口にできない人気店の和菓子に後輩は感嘆の声を漏らして喜んだ。


「すげえ、ありがとうございます。ちょうど休憩しようかってとこだったんで」
「そりゃあ良かった」
「じゃ、お茶淹れてきますね」


後輩がいなくなると、京楽が距離を詰めてきた。
ツンとするアルコールの匂いは苦手なはずなのに、芳醇な男の香りと混ざり合ってなんとも言えない艶やかな匂いとなり、香るだけで酔ってしまいそうだった。


「残業だったんだね。道理で探してもいないわけだ」
「えっ…」
「もっと早く誘えば良かったな」
「でも今日…飲み会ですよね」
「ボクなんかいなくたっていいんだよ。上がいちゃ出来ない話の方が多いでしょ」


場所を弁えない骨張った手がなまえを抱き寄せた。肌を重ね合う仲だというのに、そのねっとりと舐められるような触れ方を妙に意識してしまって、赤面のままうぶな女のようにコクコクと頷くしかできない。じっとり注がれる湿った視線に、昨日の濡れ事が肌の上に生々しく蘇る思いがした。
ふと、あの女の後輩が脳裏に過る。京楽隊長の隣に座りたいなどと言っていた可愛い女。

ごめんね、あなたより私の方が仲良くて。

高いところから彼女を見下ろしたような凄まじい優越感に背筋が震える。ざまあみろ。本人がいたら、そう言えたかもしれない。

やがて後輩が戻ると自然に離れ、何事もなかったように親切な上官の顔で再びにっこりとした。


「その中身、最中なんだけど………ああ、しまった。昨日なまえちゃんにあげたのと被っちゃったね。気が利かなくてごめんよ」
「いえ、そんな」
「昨日?」
「…………」
「そんじゃ、ボクはこれで。またねー」


不思議そうな顔をする後輩と冷や汗をかくとなまえをそれぞれ一瞥し、ケラケラ笑ってほろ酔いの上官は出て行ってしまった。


「いいなぁ、俺も女だったら色々貰えたのに」
「…そうだね」





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