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伊勢は、年上の部下になんと声をかけるべきか思い悩んでいた。後ろを歩くなまえは見るからに元気がない。を叱りつけるのはもちろん励ましの言葉をかけるのも違う気がして、小さな咳払いの後、努めて冷静な声を張った。


「あまり他の隊とトラブルを起こさないようにしてくださいね」
「………すみません。ご迷惑をおかけしました」
「お気持ちは分かります」
「え?」
「私はもう隊舎へ戻りますから、あなたも早く退勤なさってくださいね」


道場での悲痛な叫びを思い返すと、厳しい言葉はもう出てこなかった。
日の暮れた空には、薄紙のような月が昇っている。

季節は、秋へと向かっていた。

夜になっても怒りに燃えた心は鎮まるどころかますます勢いを増した。自室でひとり、浦の言葉を考える。

『心から無事を信じているなら、いつか戻ってきた時に誇れる部下として成果を上げるべきなんだ』

分かっている。言われなくても。
ただ、どん底の自分を支えてくれた平子のためにも様変わりした瀞霊廷の中で自分だけは変わらないままいたいだけ………何も変わっていないなと笑ってほしいだけ…決して、怠慢では…………この心は間違ってなどいないはず……………。
自衛の言い訳ばかりが溢れ出る胸が、しくしくと痛んだ。


「………京楽隊長…」


優しい男に甘えたい気持ちが顔を出す。
このままでいいんだと以前のように抱きしめてほしい。
頼めば歓迎してくれるだろうが、仕事にも関わる憂鬱を上官に泣きつくのは今日傷ついたばかりの自尊心が許さなかったし、なにより京楽に軽蔑されるのも怖かった。
しかしそれでもはっきりと「京楽隊長に縋るのはやめよう」と言い切れない自分が、いっそう情けない。


「………好きとか、今さら言い出せないしなあ」


優しい男のぬくもりを愛情と勘違いしている、情けない自分。贔屓されていることに気を良くしていた頃が懐かしかった。
現状維持を選びたいのに浦の言葉が胸につかえて、飲み込むことも吐き出すこともできない不快さだけが残った。

落ち込んだ気持ちを紛らわせるためなにかあたたかいものでも飲もうと給湯室でココアを飲み、カップを片付けて寮へ戻る途中、執務室の明かりが付いていることに気が付いてそちらに足を向けてしまった。
京楽がいれば声をかけよう、昼間のことを謝って、それから、もし許されるなら少しだけあの腕に強く抱擁されたい。それぐらいは、許してほしい。
祈る気持ちで障子に手をかける。
中からは二つの声が聞こえてきた。


「もう休もうよぉ……ボク疲れちゃった」
「隊長がサボるせいでしょう。自業自得です」
「だってしっかり者の七緒ちゃんがいるんだもん、ちょっとぐらいサボったって平気…………」
「怒りますよ」
「もう怒ってんじゃん…でも怒ったところも可愛いよ」
「殴りますよ」
「そんな細い手で殴ったって全然………あいたっ!痛いよ七緒ちゃあん!」
「いい加減にしてくださいっ」
「い、いやでもほんと、頼りにしてるんだよ。今度の戦いだって七緒ちゃんに隊を預けてたら安心だ」
「さっさと済ませてくださいよ。仕事、溜まってるんですから」
「戻ったらちょっとは休ませてほしいな………」


八番隊に在籍している多くの者が見慣れた夫婦漫才のようなやり取りが、今のなまえにはなによりもショックだった。
仕事上信頼されている副官と、何も持ち合わせていない女。
こんな時間まで仕事をこなしている伊勢と、甘えたいなどと考えていた自分。
比べるなどナンセンスだ。なんの意味もない。
それでも、改めて深く自分に失望した。
何も持っていない、何にもなれない、拠り所も心の置き場も不安定な自分。

そんな女を、いったい誰が愛してくれるだろうか。

吹きさらしの廊下をおぼつかない足取りで戻る。
空高く昇る月が、床の木目を艶やかに照らしていた。




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