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仕事のついでに立ち止ち寄った四番隊で、卯ノ花が生花で使った花を隊員たちに分けていたのでなまえもおこぼれにあずかり、花瓶に挿して詰所に飾ることにした。
穏やかな日差しと静謐な空気に包まれた無人の詰所がふっと華やぎ、晴天も手伝って、なまえは壁を背もたれに座り込み、ウトウトとまどろんだ。このところ瀞霊廷は現世で起きた破面という未曾有の危機に直面して張り詰めていたので、ほっと一息つける場所があるととてもありがたかった。


「おっ、なまえちゃん。こんなとこで何してんの」
「隊長…お疲れ様です。ちょっと休憩です」
「ボクもお邪魔しちゃっていいかなァ」
「副隊長に怒られますよ」
「たまにはいいじゃない」


いいからと手で制し、なまえの隣に腰を下ろして、京楽はにっこりとする。
こんなところを誰かに見られたらどうしようと思う一方で、いっそ自慢してやりたいとも思う。自分は特別などではないと言い聞かせるルールを、なまえは忠実に守っている。そして京楽は、そんなルールなど知らない。


「難しい顔してどうしたの」
「そんな顔してました?」
「可愛い顔が台無しじゃない。なにか悩みでもあるのかい」
「悩みなんて…」


そこでふと、会話が止まる。
壁一枚隔てた向こう側で誰かの話し声がしたのだ。
この部屋は隊舎の一階に位置していて、すぐそばに各隊の待機場が設けられている。おそらく、見廻りの交代時間になったのだろう、中途半端な時間だが死神たちの足音が複数聞こえた。


「なまえさんなあ…綺麗だし優しいんだけど」
「分かる。いい人なんだけど…」


若い男の声が二つ。彼らは嘲りを含んだ声色で、戦えないじゃんあの人、と続けた。
あまりにシンプルな侮蔑だった。
しかし残念なことに、護廷隊に所属する者全てがうなずく内容だ。
ここに本人がいるなどと夢にも思わず、男たちの会話は続いた。


「あの歳で斬魄刀の解放もできねえって、さすがにな」
「ああはなりたくないわ」
「分かる。京楽隊長ももっと指導したらいいのに…まあ女には言わねえか」
「そうだなぁ…。まあ他はきちんとできる人だから憎めねえよ。かわいいし」


戦力にならないというのは死神にとってこれ以上ない屈辱なのに、なまえは全く悔しくない。ただただ京楽に申し訳なかった。こんな部下ですみません、使えなくてごめんなさいと、羞恥に似た謝意が身体中から冷や汗と一緒に吹き出てしまう。
死神として使えないのは事実だったし、それは本人も認めている。やる気がないのも自覚がある。どうでもいいとすら思っている。だが「京楽春水の部下として」無能だと評されると、京楽に対してものすごく申し訳なくなった。京楽の顔に泥を塗っている。自分の矛盾を、ものすごく恥じた。
男たちの足音が遠のいたのを確認して、京楽はやれやれと息を吐き、落ち込むなまえの髪をするりと撫でる。とても慣れた手つきだった。


「……すみません」
「戦えないわけじゃないんだどねえ」
「でも、本当のことです」
「鬼道は得意でしょ。練習場に大穴空けたのは誰だっけ」
「その節は…えっと、すみません」
「はは、いいんだって。それになまえちゃんは自分の好きにしたらいいんだよ。少なくともボクはそう思ってるからね」


平子真子を失った日からなまえの時計は止まったままだ。
上官ならいい加減にしろと叱りつけるべきなのだが、京楽は長い間こうして甘やかし続けている。伊勢をはじめとした八番隊の面々は呆れているし、浦は白い目で見ていた。やはり京楽は女に甘いと言われればそれまでだが、彼には彼なりの、身勝手な理由がある。


「…戻ろうか」
「も、もう少し、」
「我儘な女になったねえ」
「隊長が、そう、したんでしょ…」
「うん。そうだね。ボクのせいだ」


かわいそうでいじらしい女を、このまま隠してしまいたい。影の中に突き落として、誰の目にも触れない暗く深い場所で飼い続けて、沈み落としてしまいたい。
たまらない気持ちがどんどん黒ずみ、澱み、女へ捧げるにはあまりに不穏な色へ変化していくのを、京楽は自分でも分かっていた。正しくない愛し方だと理解もしている。だからといって、手放すには惜しいところまできているのも事実だった。
肩を抱き寄せ、白い首筋に鼻を寄せる。
何を想像したのか、細い喉がこくんと震え、緊張に張り詰めた。分かりやすい女だと可愛く思い、男の唇がねっとりと薄い皮膚を食む。なまえを前にすると鳩尾からさまざまなな衝動が湧き上がってくるのだから、京楽は自分でも意外だった。


「……ッだめ、隊長…」
「本当にそう思ってる?」
「えっ、と」
「言わなきゃ分かんないよ、なまえちゃん」
「……………し、したくなります、から、」
「ここでするわけにはいかないから、部屋に行こうか」
「でも、まだ…仕事、」
「できるのかい?そんな顔で戻ったらみんなびっくりしちゃうよ」
「そんなこと、」


悩ましげな顔を覗き込み、うふふと笑いかけると、なまえはたちまち赤面して泣き出しそうな顔をした。


「いやらしい顔だね」
「っ………!」
「とってもかわいいから、他の子に見せないでほしいな」
「こ、んなの…誰にも、」
「うん。知ってる」
「……隊長だけ…」
「…………知ってるよ」


指先で唇を掬い、遠慮なく口づけをする。離れてもまたすぐに吸い付いて、角度を変えつつ食む。
ずっと長い間味わっているはずなのに、いつだって初めましての時と同じ甘さが波紋を描いて指先まで痺れさせた。顔は怯えているくせに、離れようとしない女の態度もたまらない。女と触れ合うなど低度の知れた戯れなのに、なまえとキスをするときはいつも離れ難く、いつまでもこうしていたいと童貞のようにせがんでしまう。


「隊長……んぅっ、ん…、隊長…」
「可愛いね… なまえちゃん」


戦わず、前に進まず、こうして腕に抱かれて自分に守らせてほしい。停滞したまま、立ち止まったまま、自分を頼ってほしい。
あまりにも後ろ向きな愛情だと鼻で笑ってしまいそうだが、京楽は本心からそう思っていた。




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