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まさに洗濯日和といった日、いつもどおり京楽を見送ったなまえが予期せぬ訪問者に気づいたのは、午砲の鳴った少し後のことである。誰もいないはずの表から声が聞こえてきたので覗いてみると、小柄な死覇装が2つ、落ち着かない様子でウロウロとしていた。


「どちら様ですか?」
「やだ、本当にいた…!」
「え?」


知らない少女───きっと死神だろう───が、なまえを見た瞬間、目をぎょっと大きくして飛び上がった。訳もわからず首を傾げつつ当たり障りのない挨拶をするも、彼女たちはろくに返事もしないで戸惑っているばかりだ。


「あ、春水ちゃん…京楽隊長ならもう出勤されてますけど」


次の瞬間、少女のひとりが強張った顔をした。


+++


夕方、いつものように帰宅した京楽は普段と変わらない順序で入浴や食事を済ませた。しなくていいと言うのにあれこれ世話を焼くなまえは、同じように変わらない笑顔で迎えてくれる。しかし、その顔がほんの少し緊張気味にこわばっているのを目敏い男は見逃さなかった。遠回りに尋ねても答えてくれないだろうから、「何があったんだい」と顔を覗き込む。すると、あとは寝るだけの素肌の上に、すぅっと色が差した。


「な、なにって?」
「気付いてないのかい。難しい顔してるよ」
「そう?」
「まるで山じいみたいだ。ああ、怖いねえ」


険しい眉間を指先で揉んでやりながら笑いかけ、京楽は様子をうかがう。不在の間に起きた出来事は聞かなければわからない。幼い子供にするように顔を覗き込んで、話してごらんと猫撫で声を投げかけると、なまえは少し考えてからこう答えた。


「大したことじゃないの。夜ご飯、味見してなかったからあんまりおいしくないなって思っただけ」
「そう?おいしかったけど」
「嬉しいこと言ってくれるね」
「ボク相手に誤魔化そうったってそうはいかないよ」
「誤魔化すなんて…」
「なまえ、話してよ。気になってしょうがない」
「……春水ちゃんさあ」


ちいさな手が襟元に触れ、そのまま、大きく開いた胸元をきゅっと閉じた。


「だめよ、ちゃんと着なさい」
「今さらでしょ」
「いけません。風邪ひいちゃうよ」
「ひかないって」
「よく熱出してたでしょ」


またそれかと呆れ顔で、京楽が佇まいを戻した。どうやら答える気はないらしいと察し、もう寝なさいよと立ちあがろうとしたそのとき、なまえは京楽の袖を引き、あろうことか体をぎゅっと強く抱きしめた。京楽はもちろん動揺したが落ち着いてもいたのでその場に座り直し、なまえの好きにさせようとした。愛の告白を待っていたのに、告げられたのは「あの時は心配したんだよ」なんていったいいつの話か分からない話だった。


「あ、あの時って?」
「熱出したでしょ、夜…」
「覚えてないって。それより放してくれるかい、どきどきしちゃうよ。ボクだって一応、男なんだよ」
「分かってるよ。そんなの。ちゃんと分かってるから」
「…なんかあった?」
「春水ちゃん、私…」
「うん」
「…ここにいたい……」
「悲しい顔してどうしたんだい」
「春水ちゃん、ごめんなさい…そうじゃなくてね、その…」


昼間の出来事を告げていいかどうか迷っているのは、京楽が知ってしまえばどうにかしようと動くのではないかという危機感からだ。つまりあの少女に対する思いやりなど欠片もなく、自覚すると、胸がずしんと重たくなった。

『あなたは京楽隊長の何なんですか』

少女の苦しげな声が耳の奥で呼び起こされる。
京楽と暮らす女の噂を聞いていてもたってもいられなかったのだろう、隊長屋敷まで足を運ぶのは相当な勇気が必要だったに違いない。ただ姿を見ただけでは満足しなかったようで、少女はなまえに声を荒げた。彼女を駆り立てる情熱は、なまえが失った若さでもあった。

『何って…友達っていうか…他に行くところがないからお世話になってて、』
『噂で聞きました。四番隊の入院施設に空きはないんですか?恋人でもないのに一緒に住むの、どうなんですか』
『隊長がお許しをくれたから…それに私、恋人ではないけど幼馴染みたいなもので、』
『隊長の優しさに甘えてるだけじゃないですかっ!ただ長く生きてるだけのくせに、それだけのくせにっ…』

手に取るようにわかる彼女の恋心を気の毒に思った。金切り声を上げる理由も、強く睨みつける理由もわかる。だが、寄り添ってやれるほど優しい女でもなかった。

『それだけって、それができないからあなたは悔しがって泣いてるんでしょう。突然来て何なの、失礼にも程があるわ』

まさか言い返されるとは予想もしていなかったのだろうか、気まずい沈黙が流れた。とうとう泣き出した少女に慌てて『ごめんね』と駆け寄ったが、それが女のプライドをどれだけ逆撫でするかも知らず、少女に頬を叩かれて、ようやく自分が彼女を憐れんでいのだと気がついた。


「かわいい春水ちゃんだったのに」
「え?」
「“京楽隊長”かぁ…」


落ち窪んだ瞳をじっと見つめる。
男にしては長い睫毛がゆっくり上下し、何か言いたげな眼差しが注がれた。昔とは違う。昔はこんなふうに見つめられても、胸が震えることはなかった。
なまえは膝立ちになって京楽の頬を両手で包み込んだ。あの頃、恩師に拳骨を食らって不貞腐れていた少年とは思えないほどがっしりした輪郭に触れて、胸の奥がきゅんと鳴るのを内側で聞いた。素敵になったのね、こんなにも。どきどきする、安心もする。目を閉じて浸りたいのに、瞼の裏に焼きついた少女の激しい悋気の眼差しが背筋を揺らす。ずるいずるいと喚く少女を冷めた気持ちで見つめながらも、今の京楽は、独占するにはあまりにその存在が大きすぎると理解させられた気がした。


「みんなの春水ちゃんになっちゃったんだね」
「なに言ってんの。ボクはいつだってなまえのだよ」
「…昔はこんなこと思わなかったのに…春水ちゃんが、遠く感じて……もう隊長さんだもんね」
「もう昔とは違うんだから」
「…そっか」


いつまでも昔を引き合いに出していちいち自分を子供あつかいするのを小さく咎めたつもりが、彼女の一瞬の寂しさを拾ってしまい、失言だったと悟ったときにはもう遅かった。
何百年もの空白から目覚めた心細さに寄り添っていたはずなのに、一瞬、それを忘れていた。何もかもすっかり変わってしまった世界でひとり歩き続ける寂しさを、昔とは違うのだと突き放してしまった。それだけ焦っていたと自覚したものの、京楽は訂正したり謝罪したりするよりも先に、なまえの腰へ腕を回し、甘く擦り寄った。彼女が無意識に引いた境界線を壊すには丁度いいかもしれない。やはり彼女を前にすると、一歩引くということができなくなる。張り詰めた自制心が緩んでしまうのだった。


「しゅ、春水ちゃん…」
「それでもボクはずっときみのそばにいるよ。嘘じゃない。本当だ。だから寂しいなんて思わなくていいんだよ。ずっとここにいてくれて構わないと思ってる」
「…うん」
「どうしたって急にそんなことを」
「もう寝るね。今日は少し疲れちゃった。また明日」


不自然なかたちで話を終わらせたがそれ以上詮索されることはなく、なまえがほっと息を吐く。
縁側に出ると、等間隔に並ぶ柱がきらめく月明かりを受けて規則正しい影を廊下に落としていた。


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