ぼくらのこと
京楽の職業を聞いた時は驚いたものの、なまえはとても腑に落ちていた。
京楽には気品が漂っている。
下品さはなく、粋で洒落ていて、何より知的で親切だった。それに凹凸のはっきりした輪郭や厚い唇、そそるような太く筋張った腕、歳のせいか少し柔らかな頬の皮膚…見れば見るほど、艶かしい。濡れたような色気を醸し出す男の職業は彼の魅力を倍増させた。

彼を見ていると、自然と喉が鳴ったし、顔が熱くなる。年上が好きなわけではなかったが、京楽だけは特別だった。抱かれるならこんな人がいいな。彼の手練手管に翻弄されて乱れる自分を、一度だけ夢で見たこともあった。
祖父の念至を手伝っているあいだ京楽に会うことは稀だったが、会えば必ず声をかけてくれて、いちいちなまえの胸は弾んだ。さみしくなった左手の薬指を無意識に撫でるといつも祖父から「京楽先生はいい男だぞ」と茶化されたが、曖昧に笑って流すしかできないでいた。

離婚したばかりなんだから。
ときめくたび、軽々しい自分を恥じた。

曇天の昼下がり、客入りも少なく入念に店内を掃除していると、久しぶりに京楽が顔を覗かせた。


「お、今日はなまえちゃんだ」
「先生、こんにちは」
「久しぶり。元気してた?」
「はい。今日はなにをお探しですか」
「辞書をね。新しいのあるかなって」


どんな辞書だろう。
あまり深く考えず最近入荷のあったリストをめくるうちに、ピリッとした痛みが指先に走った。うっすら赤くなった皮膚をよく見ると一直線に筋が入っていて、みるみるうちに赤くにじんでいく。どうやら切ってしまったようだ。そんなに慌てなくてもよかったのに、京楽の顔を見ると気持ちが上擦って仕方がない。


「どうしたの?…あら、切っちゃった?絆創膏ある?」
「む、向こうに……」


障子で仕切られた小上がりへ視線を投げると、京楽は上がり込もうと靴を脱ぎ始めた。
書店には、史料を広げるための部屋を用意してある。古めかしい長机と座布団、祖父が使う日用品を収納した昔ながらの醤油色した箪笥があるだけの簡素な部屋。確か、その箪笥の中にあったはず。記憶をたどり、障子の引手に指をかけた。


「取ってあげるよ。場所わかる?」
「すみません、先生…」
「いいんだよ」


念のため、ご用の方はこちらのベルでお呼びくださいと書かれた札を立てて2人で奥の部屋に上がった。


「紙で切ると痛いよね」
「すみません、お客様にこんな…」
「気にしないで。なまえちゃんと2人きりなんてボクついてるなぁ」
「もう……」


へらへら笑う明るい顔に、呆れながらも心は喜んでいた。こんな風に誰かに女性として扱われることは久しぶりだったし、どこか誇らしい気さえした。

手を伸ばせば触れられそうな距離に唇を噛みながら絆創膏を貼ってもらう。
京楽は全く意識などしていない風で、舞い上がっているのはなまえだけらしい。まあこの程度でソワソワされるのは、イメージに合わない。
昼間なのに夜のように暗い窓の外から、細い雨音が聞こえてきた。「降ってきましたね」呟くと、京楽は曖昧に頷いて指に目を落としたまま、「あのさ」と声をひそめた。


「気を悪くしないで欲しいんだけど、…離婚したって本当かい?」
「やだ、祖父から聞いたんですね」
「ごめん。気になっちゃって」
「気にしないでください」
「大変だったんだね」
「…………お恥ずかしい話ですけど、私、すごく重たい女なんですよね。だから向こうが疲れちゃって。…本当は離婚、したくなかったけど」
「へえ…」
「引きました?こんな、いい歳して恥ずかしいですよね。みっともない」
「そんなことないさ。恥ずかしくなんかないよ。なまえちゃんが愛情深い子だってのは見ていたら分かるし、素敵なことじゃない」
「あ、愛情深い?京楽先生、優しいんですね。モテるでしょ」
「まあ多少はね。でも昔はそんなにモテなかったよ」


多少、ね。ずるい言い方。なまえはふっと脱力して笑った。
彼の手は依然として馴染ませるように指先を握ったままで、お互いが黙り込んでも変わらない。それどころか確かめるように手を撫でられるこの状況は、あまり良くないのではないだろうか。
こんな色男と2人きり、しかもこんなに優しくされて。こんな風に触られて。下心がにじむ男の手だ。なまえはこの手の意味をうっすら勘づいている。引くに引けない、押すことも、できない。


「…せ、先生の手、綺麗ですね」
「なまえちゃんの手は可愛いね。白くて、むちむちしてて」
「すみませんね、むちむちで」
「いやいや、好きだよ。ボク」
「先生、近い……」
「ねえ、ひとりは寂しいでしょ」
「……と、ときどき…」
「慰めてあげようか」


もういつもの浮ついた話し方は消えていて、代わりに語尾が余韻を残すような掠れた声が誘惑した。

近づいてくる唇に自分からしゃぶりつく。

肩や首はごつごつしていて硬いのに、唇だけは驚くほど柔らかい。わざと音を立てて舐めると、京楽は片眉を上げてふふんと笑った。





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