さよなら、ぼくらのわだかまり
眠るなまえの頬を撫で、やれやれと腰を上げる。スラックスとシャツを羽織り、中の間の閲覧室を出てカウンター横の椅子に座り込み、膝に肘をつきながらぼんやりと考える。
胸の奥から込み上げる淡い気持ちのせいで、にやにやと口元が緩むのを止められなかった。

あの子が欲しかった。
ようやく手に入った。
遠回りしたが、これでやっと。

店の入口から見える景色は既に夜に染まっている。一体どのくらい時間が経ったのだろうか。
目元にかかる前髪をかき上げ、そろそろ彼女を起こして食事でもと考えていると、店の前に人影を見つけた。うろうろと迷ったように動く影は決心したように入口の戸を開け、中へと入ってきた。
あの男だ。なまえの前の夫だ。
姿をみとめた瞬間、正直な京楽の目はすうっと薄く伏せられた。長く幅のある眉毛が困ったように下がる一方で口元は艶かしく吊り上がる。


「どうも」


暗い店内に誰かがいるとは思いもしなかったのだろう、男は戸惑いの色を見せつつ、浅く会釈をした。彼は、京楽になにかを言いたそうな顔をしている。先回りをして、京楽が湿った声を上げた。


「なまえちゃんなら上で寝てるよ。何かあるならボクが伝言しようか」
「えっ?あ、ああ、いや、…」
「まあそう遠慮しないで」


長い脚を組み直し、男をじっくり観察していく。
なんてことはない、小さな男だ。イマドキの髪型で、どこにでもいそうな格好で。こんな男が好きだったとはね。先に出会ったのが自分だったらよかったのに。自分だったらつまらない思いはさせなかったのに。
京楽は立ち上がり、わざと親しげな口ぶりで続けた。


「あの子、…君がいらないって捨てたなまえちゃんね。もうボクのだから」
「は、はあ?あんた何言って、」
「本当だよ。残念でした。もう帰ったらどうだい」


京楽がのっそりと重い腰を上げた。
190を越える長身から見下ろされて怯んだように首をすくめた男は何かを言い淀んだが、結局、言葉らしいものひとつ出てくることはなく、京楽が開いた扉の隙間に体を滑り込ませて去っていった。
もし彼と結婚したままのなまえと出会っていたらどうなっていただろう。京楽はリアリストだ、いくら体の相性がよくても、話が合っても、楽しくても、結婚するまでに出会えなければ運命の相手ではないと思っている。だから諦めたかもしれないし、セックス自体しなかったかもしれない(誘われたら分からないが)。今ならそう思う。だから何事もタイミングなのだ。あの矮小な男にも、多少の感謝は必要かもしれない。
少しして2階から小さな足音が降りてくる音を拾い、障子を開いて顔を覗かせると、眠たそうに目を擦るなまえの姿があった。


「先生、ごめんなさい。私寝てて……」
「あら。体、だいじょうぶ?つらくないかい」
「…腰が痛い」
「はは、ごめんごめん。おいで」
「お腹空きませんか?今日はおじいちゃん飲みに出てるし、私なにか作りますよ」
「ほんとう?嬉しいなぁ。なまえちゃんを食べちゃおっかな」
「さっき食べたでしょ。そういうとこオジさんですよね…」
「あっ、やめて。傷つくから」
「……ていうか、ちゃんと服着てください」
「着てるじゃない」
「前開きすぎ。こんなえろい夫、困ります」
「…… なまえちゃんみたいにすけべな奥さん、ボクは好きだよ」


緩みまくる頬を軽くつねられて、京楽は降参するように両手を上げてみせた。




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