諸行無常の渦の中
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第五話
結局、一日休ませてもらった翌朝、向かった修練場で木刀を振るう。シンとした朝一の澄んだ空気の中、すべての感覚が研ぎ澄まされている気がした。
目を瞑って、頭の中の虚と対峙する。跳び上がってその脳天に刀を振り下ろした刹那、虚の爪が刀を防ぐ。痺れた手から刀が弾かれて、遠くの方で木刀が転がる音がした。
「まだまだ軽ィな。霊圧にばっか頼ってねえで鍛えろ、腕っ節も」
目をあけて、前に立っている一角が振り下ろした木刀は、片手にも関わらず鋭い音をたてながら空を斬る。
『そうだね。ってか今日早いね』
「あぁ。……何か、冴えてな」
軽く構え直した一角に応える為、近くの壁に立て掛けてあった木刀を握る。この戦闘狂には、不意打ちも、熟考した立ち回りも、何も通用しないことは解っていた。
間髪入れず木刀を振る。角度を変えて、何度も何度も。その度に刀を伝うのは期待する肉の感触ではなく、無機質な木刀同士がぶつかり合う振動だけだった。
『あ"ぁーもうっ!!!』
半ばヤケクソになって突いた木刀は、一角の二の腕と胴の間に挟み込まれてしまった。抜けないそれを手放して、反対の脇腹目がけて繰り出した渾身の回し蹴り。今度こそ捉えたと思ったのに手応えは無く、一角の死覇装の袖を掠めただけに過ぎなかった。
そして、飽いたとばかりに一角に反撃を開始されて、辛うじて防ぐ斬撃も、一打一打が身体が沈みこみそうになる程に重い。それでも僅かな隙をついて振り下ろした木刀は、待ってましたとばかりにその刀身を踏み敷かれ、次の瞬間には後頭部に突き付けられた木刀の感触がした。
「勝負あったな」
『…………参りました』
「まァこんだけ打ち込んで息も上がってねえとこ見りゃ、スタミナだけなら俺より上かもな。褒めてやるよ」
『………』
「格上相手でも長期戦に持ち込めば勝機があるかも知れねえ。だが、スタミナ云々とは縁遠い虚相手じゃ、それもどーだかな」
こちらとて一打一打に抜かりは無い。全て全身全霊で打ち込んでいるにも関わらず、一つ席次が違うだけなのに、歴然とした力の差を思い知らされる。普段は尊敬の念なんて雀の涙ほども抱かないけれど、この時ばかりは返す言葉も無かった。
「だが安心しろ。お前の腕が落ちた訳じゃねえ。俺が強すぎるだけだ」
『……はいはい』
あたしの思いを知ってか知らずか、次第に調子づく一角に見向きもせず壁際に寄って手拭いを取る。上官を適当にあしらうななんだと喚きながら、一角も隣に腰を下ろした。
「そーいや昨日、あれから誰か来たか」
『昨日?あぁ、薬ありがとう。乱菊さんも様子見に来て、……くれて』
「何か、言われたか」
『え、……いや?特に、何も』
乱菊さんの嬉々とした表情を思い出して、何だか言葉に詰まる。そうか、とだけ呟いた一角はそれっきり黙り込んで、ごくりと生唾をのむほどにこの沈黙は重い。
暫くして、例えばだ、と切り出した一角にその沈黙は破られた。
「恋次が目の前で倒れてやがったら、お前どうする?」
『……たい焼き切れたのかな?って思う』
「たい焼きを燃料みてえに言うな!真面目に答えろ!!」
『えぇ?そりゃあ、駆け寄って起こそうとすると思うよ。んで起きなきゃ、然るべきとこに連れてくでしょ』
それ、とでも言いたげにあたしを指差して、うんうんと頷く一角はそうしてまた前のめり気味になって口を開いた。
「いくら内心面倒くさくても、一応は面倒見てやるよな!?面倒くさくても!」
『……何で二回言ったの。てか何これ、心理テストか何か?』
「要するに、……お前は鴨南蛮じゃァ無ェ!!」
「はぁ!?うん、鴨南蛮じゃないよねえ、あたしは。ねぇ、これってホントどういう診断結果が出たワケ?」
おまけに、俺は蕎麦派で一味派の稲荷付きだ、なんて定食の好みまで披露する始末で、莫迦みたいなことを大真面目な顔で宣う一角が別の意味で怖い。
「俺は変わらねえ!この先も、ずっと、だ!!」
『そう。へぇ。美味しいもんね、鴨南蛮』
適当に相槌をうって、とっとと切り上げようと急いで手拭いを畳む。よし、と立ち上がろうとしたのに、一角がガシリとあたしの両肩を掴むから、それが憚られてしまった。
「俺はお前のこと、何とも思って無ェからな!!」
『……はい?』
「これからもし、松本とか他から何を聞いたとしても、勘違いすんじゃねえぞ!!」
例え何とも思っていない相手だろうと、面と向かってそう言われると、決していい気はしないし、むしろ腹が立つ。だけど一角の言わんとすることがなんとなく分かってしまった。
『回りくどい!非常に回りくどい!!それだったら最初っからそう言えば!?フラフラしてる奴が目の前に居りゃそりゃ手を貸すでしょうよ!それに意味ないことなんて解ってる!酔ったお前連れて帰るの一苦労だから今度からちと控えろよ、ってサラっと言や済む話でしょーが!!』
「おま……!やっぱ聞いてんじゃねえか!?」
『すみませんねぇ、大変なご迷惑おかけして!!』
「ァア!?全然気持ちがこもって無ェだろーが!喧嘩売ってんのか!?せっかくこっちが言葉選んで言ってやったってのに、それが回りくどいだァ!?」
昨日ずっと悶々としていたのが莫迦みたいだ。乱菊さんが人のことを面白がるなんていつものことなのに、それに惑わされるなんてあたしもまだまだ青い。
謝っているにも関わらず声を荒らげられて耳をふさいだら、青筋を立てた一角にその手を外された。
「暫くは近付かねえ方がよさそうだぜ、俺達」
『はい?』
「何しろ松本が絡んでるからな。用心するに越したこたァ無ェ」
「別にそこまでしなくて」
いいんじゃない、と言おうとした刹那、一角が修練場の壁に拳を打つ。何事かと驚いていたら、舌打ちをした一角が外に向かって声を張り上げた。
「おい、てめえら!!聞き耳立てるとは良い度胸してんじゃねェか!今日の打ち合いはいつも以上に本気出していいって事だなァ!?さっさと入って来やがれ!!」
隊士たちの悲鳴が聞こえる。そうして慌てた様子で続々と修練場内に入って来た隊士の内の一人、荒巻がへこへこと謝罪をした。
「お邪魔しちゃァ、悪ィんじゃないかと……そのー、思いまして」
その言葉に一角の口元がひくついたのと同時に、こういう時の乱菊さんの仕事の早さを思い知ってあたしは頭を抱えた。
一角に目配せされて修練場を後にする。ちらほらとすれ違う隊士たちの視線が、いつもとは違う気がして、居心地が悪い。
足早に執務室へと向かった。
*
『おはよー』
「おはよ……って、大丈夫?まさかまだ治まってないのかい、二日酔い」
げんなりして机に突っ伏したら弓親が頭を撫でてくれた。平隊士まで知ってるぐらいだから、弓親の耳にだってきっと入っているはずなのに、いつもと変わらぬ態度で接してくれてほっとする。
「はよーっス!」
「おはよう、恋次」
「……椿姫さん?どうしたんスか」
執務室に入ってきたあっけらかんとした声色を思えば、恋次はまだ知らないのかもしれない。一生知らないでくれと願いながら、おはよう、と恋次を見上げて、一つの疑問が浮かび上がる。
『何で居るの?』
「……ひでえ。いくら昨日二日酔いで休んじまったからって、その扱いは無ェだろ。何亡き者にしようとしてんスか」
『あんたも休んでたんだ……ってそんな話してんじゃない!!だって、六番隊は!?』
「六番隊、っスか?」
『まさか、もう追い返されたの!?朽木隊長に……!』
あたしの言葉に目を瞬かせた恋次と弓親は顔を見合わせて、どちらからともなく吹き出した。
「正式な任官はまだまだ先っスよォ」
「そうそう、任官状すらまだ貰ってないもんね」
『そう、なの……?』
二人から吹き出されてただでさえ恥ずかしいあたしに追い打ちをかける様に、何言ってんスか、と恋次が茶化す様に見下ろしてくる。
悪戯っ子の様な笑みは昔と何も変わらないのに、入隊早々揉め事を起こして懲罰房に入れられた血の気の多い若造が、まさかあの六番隊の副隊長になるなんて誰が予想していただろうか。
『それなら尚更、任官状もらう前に不祥事起こして任官取り消されない様に気を付けなきゃねえ』
「起こさねえよ!取り消されてたまるか」
『だって恋次だもん。本当に有り得そうだから大人しくしときなよ』
「有り得そうって……!ありえねえからッ!!」
『どうだかねぇ。追い返されても、帰るとこなんて無いから死ぬ気で頑張りなよ』
「なっ……!?」
「はいはい、ほら、恋次。書類仕事、覚えるんだろう?」
まだ何か言いたげに口を開閉する恋次の背中を押して、弓親が優しく諭す。口を尖らせて椅子に腰掛けた恋次が可愛くてこっそり笑えば、睨み返してきた恋次の表情が驚きに変わった。
「ハッ!?え……!?」
「何、恋次」
『どうしたの』
え、と、ハ、を繰り返しながら、恋次は机上の名札を起こしたあたしの手元と顔を交互に見る。その恋次の視線の先を辿った弓親は、目を丸くして終いには腹を抱えて笑い出した。
「椿姫さんと一角さんて、…………兄妹だったんスか!?」
『はぁ?どっからそうなる、の、ってぇ、何コレ!?』
名札を返してよく見てみればそこに書いてあったのは自分の名前のはずが、見慣れない漢字の羅列。いや、見慣れたものと見慣れすぎた漢字の羅列。
『ねえ、あたしいつから斑目椿姫になったんだっけ』
涙を流してまで笑い転げる弓親に名札を投げ付ける。昨日の乱菊さんからの一連の流れを思えば、兄妹と言われるぐらいかわいいものかも知れない。
『一体誰がこんなしょうもないことするの!?弓親!?』
「違う違う、僕じゃないよ。あと恋次、兄妹じゃない」
「違うんスか?じゃァ何なんスか、それ」
「兄妹じゃなくて、同じ苗字といえば、あれだよあれ」
『弓親、余計なこと言わなくていいから』
釘をさすつもりで弓親を睨めば、その前の恋次がさらに驚愕した顔で立ち上がってあたしを見てきた。
「親子!?」
「夫婦だよ!!」
無垢すぎる恋次に感動すら覚えたのに弓親が間髪入れずそれを蹴散らした。本当に親子だったとして、あたしを母親だと思ったのか一角を父親だと思ったのか掘り下げるのは後にしよう。
「め、夫婦ォ?一角さんと、椿姫さんが?」
『いや、違うからね、恋次』
「時間の問題、かな」
『弓親!!』
「……ンな訳ねえだろうに」
すっかり興が削がれたように、呆れ混じりの恋次はストンと椅子に腰をおろす。普段のあたし達を見ていれば、万に一つもあり得ないことだというのは解りきったことで、思いがけず味方が現れたもんだから、感極まったあたしはこの可愛い後輩を抱き締めてあげようと腕を伸ばした。
「一昨日一角さん、否定してたし。やっぱり先輩と元鞘に戻ったんスね。なァ、」
椿姫さん、とぐるりと向けられた屈託の無い笑顔に、伸ばした腕は行き場をなくした。
恋次が先輩と呼ぶ人物はそう多くない。その先輩と、いや、聞き間違えたと思った。いや、主語があたしとは限らないし、一角がどこぞの先輩と、というのもあり得なくはない。
『ワンモアプリーズ』
「わ、わん?」
「今、何て言ったんだい、恋次」
「え?だから、ヨリ戻したんスよねえ、椿姫さんと檜佐木せグエッッ」
聞き間違いでも勘違いでも無かったことを思い知らされて、後ろから紅い頭を抱え込んで回した腕に力を込める。バンバンと肩が外れそうな勢いで叩かれて、仕方なく解放したら、咳き込んだ恋次に何なんスか!と睨まれた。
「照れすぎだろ、椿姫さん」
『照れてない!!今度はあんたまで何言い出してんの!?』
「九番隊の……?ふうん、そうなんだ」
『そうなんだ、って簡単に納得しないでよ弓親』
どこから突っ込めばいいのか分からなくて狼狽えた。あたしが知る限りではそれはかつてそういう間柄であった男女の復縁を意味する言葉であって、元の鞘がありゃしないあたし達は一体どこにどう戻るというんだろう。
とはいえその物言いに邪気は感じられなくて、恋次に腹を立てるのもお門違いな気がした。
『全くもって事実無根なんですけど。で、誰が言ってんの、そんなこと』
「誰が、っつか、檜佐木先輩が……」
『ハァ!?』
「いや、最近よく俺ンとこで呑んだあと、ちゃんと帰れてンのかなァって思って……、聞いたら、椿姫さんとこ泊まって、その、朝帰ってるって言うから、てっきり、その、そうなんだと……、思ってたんスけど」
チラチラとあたしの反応を気にしながら、恋次は言葉を並べた。あたしはそれを聞きながら次第に冷汗が滲み出るのを感じていた。だって何か前に立つ弓親からビシビシと尖った霊圧を感じる。
『えと、うん。何か、仕方なくね!ほら、あれ、凍死とかされたら夢見が悪いし』
「………」
『ってゆーかいつも気付いたら勝手に居るんだもん!ほんと、あたしの本意じゃないっていうか……、そう、不可抗力!』
「なるほど。元鞘だかなんだか知らないけど、君が恋仲でも無い男と一夜を共に出来る阿婆擦れだってことは解ったよ」
『………!あ、あば!?本当に今も昔もそういうんじゃないんだってば!!』
経験から言って、弓親が君と呼ぶときは、その涼しげな表情とは裏腹にかなりお怒り度数が高い。隠すことなく軽蔑の眼差しを向ける弓親には逆らわない方が無難だと、それ以上は口を噤んでピリリとした霊圧をただ受け止めた。
「いいかい、椿姫。君のそういう誰とでも距離が近いところは嫌いじゃないんだ。でもね、ちょっと考えが浅すぎるよ。君は君が思ってるよりずっと、ただの女の子だ」
うってかわって困ったような笑顔が向けられて、頭に乗せられた手が優しく動いた。
好奇な視線や心無い野次、見返したくても伴わない力。そんなものにいちいち心を痛めて泣く暇があったら、死ぬほど鍛練すりゃいいだけの話だと奮い立たせてくれたのは一角で、やりすぎだって呆れながら傷だらけのあたしを介抱してくれる弓親に女の子なんだから、って叱られるのは不思議と嫌じゃなかったのに。
「ほら、朝の散歩でもしておいで」
あの頃よりは強くなったつもりだ。女故に向けられた好奇な視線や心無い野次が飛ぶこともなくなった。
今も昔も弓親が言うそれに蔑む意味なんて無いことは解っている。改めて一角との力の差を思い知ったからか、可愛い後輩だと思っていた恋次が遠い存在になってしまうような気がしたからか。
今さらざわつきだした胸の内を悟られない様にしたつもりだったけれど、弓親にはお見通しだったのかも知れない。気分転換でも出来るようにと気を回してくれたのか、弓親から差し出された他隊宛の書類を受け取って、執務室を後にした。
*
**
「なーにやってんのよ」
『何、って着替え、だけど』
制服の袴に足を入れて振り返れば、戸口に立つほたるがこれみよがしに溜息を吐いた。つかつかと近付いてきて、頭を押さえつけられたと思ったら、合わせられた額がゴチンと音を立てる。
「ダメ、まだ熱い!大人しく寝てな。今日の引率は他の人が代わりに行くことになったから」
『えぇ!?せっかくいい点数稼ぎができると思ってたのにぃ』
「はいはい。体調管理だってねぇ、立派な死神としての責務のうちなんだから」
『このぐらいの熱、もう大丈夫だって。どうせ引率ったってあたし結界組だし、立ってるだけじゃん』
「はぁ!?んな訳ないでしょう?どうしてこんなバカが選ばれたんだか」
ぶつくさと言いながら、ほたるが布団を投げ付けてきたからそれを受け止める。寝てな、と再び釘をさされたけれど、楽な割に内申点の高い引率実習を成功させておけば、護廷の入隊試験の時に有利だと人伝に教えてもらったから、簡単に諦める訳にはいかない。
あたしが希望する五番隊は入隊前から競争が激しいみたいだから、推薦してもらうには尚の事重要だった。
『どうせ修兵が仕切るんだからあたしらなんてお飾りだってぇ』
「そういう怠慢な姿勢で檜佐木くんの足手まといになりかねない輩は、尚更行かせられません!」
『……………はっはーん。分かったよ、大人しくしてる。愛しの檜佐木くんの前で張りきるほたるが見れないのは残念だけど』
「なっ……!?誰が!!!」
何も知らない輩がそこから連想する事柄とは裏腹に、69の入墨を恥ずかしげもなく顔面に施した当の修兵は至って真面目で優秀だったから、近付いた女の子は皆、そのいい意味での期待の裏切られ様にまんまと胸をときめかせた。
修兵自身、狙ってやってるわけじゃないのがまた罪深い。
『顔紅いよ、ほたるチャン』
「バカ!紅いのはあんたの方よ」
実をいうと、また熱が上がってきた自覚があった。ほたるに手を引かれるまま、敷きっぱなしの布団の上へ移動して横になる。履いたままの袴を脱がされそうになってキャーとふざければ、シワになる!と力づくで引き抜かれた。
てきぱきと色々と世話をやいてくれるほたるに、いい嫁になれるよ、と本心から頭を撫でたのに、そりゃどうも、と何の感慨もない音が返ってくる。
『修兵はねぇ、たぶんもっと大人っぽい方が好みだと思うよ』
「まだ言うか!」
頭の横で纏められてぴょんと跳ねたほたるの髪を弾けば、氷水で冷やされた手拭いで顔をぎゅうと押さえつけられた。ぶっきらぼうな物言いとその温度とは正反対の優しさに自然と顔は綻んだ。
「これ以上あんたに構ってたら遅刻しちゃうからもう行くよ」
『ありがと。気を付けてね』
ちゃっかりと全ての世話をやき尽くしてくれたほたるが戸口に立つ。寝転んだままいってらっしゃい、と手を振れば、いってきます、と笑顔のほたるが眩しい朝の光の中へ吸い込まれる様に飛び立っていった。
ほたるとの最期の思い出が楽しく優しいものである程に、あたしの胸は締め付けられた。こんなのは熱にうなされた悪い夢だと思い込もうとしても、制服に纏わりついた白檀の匂いが、否応なしに現実を叩きつけてくる。
制服のまま寝転がってよくほたるに叱られたことを思い出しては、また次から次へと涙が溢れ出る。引き攣る身体をゆるゆると起こして寝間着に着替えて、ゆく宛も無いのに寮の部屋を出た。
人気の無い暗がりで階段に腰掛ける。いつもと変わらないはずの虫の鳴く声が、今日はやけに耳に響いた。
『死んだらさ、この世界の一部になるんだって。知ってた?』
虫の鳴く声に混ざって近付く足音に問いかけてみたら、顔の右側を包帯でぐるぐるに巻かれた修兵が少し驚いた顔をしてから、あぁ、と頷いた。
『そしたらさ、こうやって息をする度、あたしはほたると一緒だ。だから、寂しくないよね』
言ったそばから自分の声が震えて嫌になる。ほたる以外にも、結界組の皆も犠牲になった。死神になる、ということは、いつも死と隣り合わせだということ、思い知るには遅すぎるし早すぎた。
もっと真面目に考えていたら、無責任に他人に任せるようなことはしなかっただろうか。そもそも体調を崩すこともなかっただろうか。そしたらせめて誰かが死なずに済んだ。
もっと真面目に取り組んでいたら、もっと成績が良かったら、あたしが前線に立っていただろうか。そしたらほたるは死なずに済んだ。
深く深く息を吸い込んでみる。ほたるはこの中に居るだろうか。解らなかった。居るなら教えて欲しい。声が聞きたい。会いたい。どうしたらほたるは戻ってこられるの。皆戻ってくるの。あたし、何をすればいいの。どうすればいいの。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
『あたしが行けば良かったんだ…!そしたら、……そしたら、』
「ごめん。ごめんな、俺、護れなくて……!」
ごめん、と消え入りそうな修兵の声が暗闇に留まった。ただ単純に、ほたるに生きていて欲しいと思ったから、口に出してしまった言葉は、修兵を責める為のものではなかった。
それでもその言葉が、人一倍責任感の強い修兵の、一番辛い思いをしているであろう修兵の心を抉ってしまったことに気付いて、我に返った時にはもう遅かった。顔をあげて辺りを見回しても、もう修兵の足音すら、聞こえはしなかった。
自分だったら修兵と同じように出来ただろうか。考えるまでもなく、あたしならきっと錯乱して、もっと最悪な事態になっていたはずだ。
同期二人が目の前で血飛沫をあげて、自らも怪我を負って、それでも尚一年生を護ろうと刀を振るった修兵が謝る必要なんてどこにもないのに。
護廷の隊長格が出ざるをえないような虚を前に、一年生が全員無事で、青鹿も生きてて、修兵も帰ってきて、本当に良かったって思う気持ちも本当なのに。
己の弱さが人を傷付ける。強くなりたい。誰も傷付けないように、強くありたい。誰も悲しませないように、強くなりたい。大切なものを護り抜けるように、強くなりたい。
深く深く息を吸い込んだ。
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*
「どこで寝てんだ、お前は。……熟睡しすぎて目からヨダレが出てるぞ」
懐かしい夢を見たからだろうか、ぐいと手拭いが差し出されて自分が泣いていたことに気付く。またイジめられたのか、なんて意地悪そうに口角をあげる青鹿は、相変わらずデカイ。
「いい加減退いてやれ。蟹沢が重たがってる」
"蟹沢ほたる"の名が刻まれた墓石から背中を離して立ち上がる。手桶から柄杓で水を掬ってかけようとする青鹿の手を制止したら、怪訝な視線が向けられた。
『いや、何か今の季節、それ、寒そうじゃない』
「…………。本当にどこでも寝るのは変わらんな。廊下に出されても尚立ったまま寝てただろう」
『そんなこともあったかなぁ。よく覚えてんね』
「忘れんさ。あの頃のことは何だって」
忘れんさ、と呟いた青鹿は、手桶を脇に置いてしゃがみ込む。その横にしゃがみ込んで、同じように手を合わせた。
いい意味でも悪い意味でもあの時世界が変わった。つきつけられた現実に、死神になるのを諦めた者も居た。それでもあたし達は、この黒い装束を纏っている。隊は違う。進む歩幅も、手立ても、それぞれ。だけど向いている方向はきっと同じだ。
『ねえ、青鹿。あたしって阿婆擦れかな』
「はぁ?唐突に何だ。じゃじゃ馬だと思ったことはあっても、阿婆擦れだと思ったことは一度も無いぞ」
『どこまで強くなったら女だから、とか言われなくなるのかな』
「なんだやっぱりイジめられてるのか。そんなに嫌なら、いっそ技術開発局でタマキンでも付けてもらやァどうだ」
その発想は無かったから、目から鱗だった。確か瀞霊廷通信にその類の広告が載せられていた気がする。帰ったら一度確認してみようと思い立って頷いたら、青鹿が冗談だぞ、と呆れた様に呟いた。
「何その手があったかみたいな顔してる。初恋の人が男になった、なんて俺の淡い青春を台無しにせんでくれ」
『青鹿ってそういう冗談言う奴だっけ』
熱血漢という単語がよく似合う青鹿が、こんな冗談をかます様になるなんて、時の流れに思いを馳せる。大口を開けて笑う青鹿は、地面に置きっぱなしにしていた書類の砂埃を払ってくれた。仕事の途中だろう、と差し出されたそれに、今さら慌てて時間を確認して青ざめる。
変わらないもの、変わっていくもの。変わっていいもの、変えてはいけないこと。あたしにはまだ解らなくて、目を閉じる。
深く深く息を吸って、地面を蹴った。
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