『あ"ー死ぬかと思った』
漸く咳が治まって丸めた身体を伸ばすと、椿姫は屋根瓦の上でただ黒いだけの空に向き直った。星が一つも無いなんて、まるで希望も何も無い自分の心中が具現化したかのようで、椿姫は独り感傷に浸っていた。
「何やってんだ、こんなとこで。うるせえんだよ、ったく」
音も気配も何も無くいきなり頭上に現れた丸いシルエットに、椿姫は驚いて持ち直したはずの喉をまた詰まらせた。むせ返る背中を、大丈夫か、と芯に響くほどの力で一角に叩かれて、椿姫は呼吸を整えながら右手を挙げてみせた。
足元に転がる赤い熱。椿姫が見つかるまいと焦る程に、その赤は暗闇の中でより一層熱を上げたように見えた。
カタンと瓦が鳴って、一角は徐ろにそれを摘み上げる。正体が解って溜め息を吐いた一角は椿姫を見て、また大袈裟に溜め息を吐いてみせた。
「火の用心」
一角が屋根瓦にその先を押し付けると、最後の煙を吹き出してその赤が消えた。椿姫はその様子がなんだか無性に哀しくて、ぎゅっと目を瞑った。
「まァいい。ちょっと付き合えよ、…………って、お前泣いてんのか」
ちゃぷちゃぷと音を立てる一升瓶を適当な窪みに落ち着かせて、一角は椿姫の隣に腰掛ける。泣いてないから、と向き合った形で睨む椿姫をよそに、ヘェと薄笑いを浮かべた一角は懐からお猪口を取り出した。
勢いよく鼻をすすって椿姫はまた煙草に手を伸ばす。カチカチと椿姫が上手く火を熾せないでいると、一角は横からその小さな点火器を奪った。そして火熾しを手伝ってくれると勘違いした椿姫の唇から煙草をすっぽ抜くと、その額に向けて喰らわせたのは盛大なデコピンだった。
『い"った!?な、にすんのよ、このハゲッ……!!』
「うっせ!馬鹿か、てめえは」
『返してよ、それ!』
「返すかよ。つか、返すも返さねえも、てめえのモンでもねェんだろーが」
ぐしゃりと握り潰した箱を暗闇に放って、一角はまたどかりと椿姫の隣に腰をおろす。きゅぽんと小気味いい音を立てて一升瓶の栓をあけると、その先を咥えて酒を呷った。何の為にお猪口を持ってきたのか、訝しむ椿姫の視線には気付いてはいない。
ただ静かに一人で居たかったはずが、今は少し気が紛れて、そしてまた泣きたくなって、椿姫の心中は忙しいことこの上ない。
「いつ帰ってきたんだ」
『今日の四時ぐらいじゃない』
「上官に帰還報告ぐらいしろよな」
『渡したもん、弓親に。現世駐在報告書』
「だからってお前、顔ぐらい見せるだろ普通。修練場に居ることぐらい解ってンだろーが」
『…………すぐに、会いたい人がいたんで』
なるべく明るく言ったつもりだったのに、やはり声は少し震えて、椿姫はどうしようもなくて膝を抱えた。
「で、会えたのかよ、そいつとは」
『…………うん』
「なら、良かったじゃねえか」
ほら、と一角からお猪口が差し出されて椿姫はそれを受け取った。なみなみと酒が注がれて、暗黙の了解で一気に呷る。無言でお猪口を差し出せばまた注がれて、それを何度か繰り返して、椿姫は意味のない声をあげてまた黒い空を見上げた。
『会えたけど、知らない女の子と腕組んで歩いてた』
見事な程、一角は口から盛大に酒を噴射して、晴れた昼間ならきっと虹が出来たかも知れない、なんて椿姫は場違いに思った。そんなことが浮かぶ余裕があるのも、こういった結末をどこかで予想していたからなのかも知れない。またかよ!と叫んだ一角は、椿姫の代わりに頭を抱えた。
「俺ァてっきり駐在任務の方で何かやらかして、気落ちしてんだと思ったから景気づけに来てやったってのに」
不服そうな一角は椿姫からお猪口を没収して舌打ちをした。理由はどうあれ気落ちしてることに変わりはないのだから、慰めてくれたっていいだろうと未練がましくもまたお猪口に伸ばした椿姫の手を、一角は無碍にも払って、椿姫が抗議の声をあげれば、眉間に皺を寄せた。
「男に棄てられたぐらいでヤケになるなんざみっともねえ。何、中身の無ェ餓鬼みてえなことしてやがる」
こういった挑発まがいの物言いに普段なら応戦しているはずの椿姫も、今日は大人しく押し黙ったままで俯いた。
「だから忠告してやったろ、いい噂が一つも無ェ野郎だって。聞く耳持たねえオメーも悪い。自業自得だろうが」
そして一角が畳み掛けるように言ったのも、いつもと違って煽るつもりは無かった。椿姫がこんな風になるのは初めてではなかった。その度に分かりやすくやさぐれては一人きりで泣いている。またか、というのが正直なところとはいえ、一角もこんな風ならしくない椿姫の姿を見るのは嫌だった。まして、椿姫は自分からドつぼへ飛び込んでいるかのように見えて、いつも歯痒かった。
「毎度毎度、本当にてめえは、
学習能力が無ェ」
『学習能力が無い』
一角の言葉に椿姫は声を重ねて、もう聞き飽きた、と膝に顔を埋めた。
十一番隊の女、それだけで好奇な目で見られることはしばしばあった。けれども彼は違った、違うと思っていた。あの時、差し伸べられた優しい手に嘘は無いと信じていた。
十一番隊の女を手懐けた、椿姫には理解できなかったが、それだけが彼にとってステータスで、あとは飽いてゲームオーバー、ただそれだけの結末。
学習能力が無い、と一口に言ってしまえばそれで終わりだが、椿姫はどうしても信じることが悪だとは思えなかった。とはいえ、こうも毎度毎度同じような結末を迎えていては、いい加減、自分が欠陥品であることを認めざるを得ない。
乱暴な言動も極力気を付けていたし、卯ノ花隊長の生け花教室に通い始めたりもした。結局はそんなことも、元来の欠陥の前では何の気休めにもならないんだと椿姫は溜め息を吐いた。
「身の程を知れ、っての」
呆れたように一角が言って、椿姫はとどめを刺されたような気がして、顔を埋めた死覇装が目頭から溢れた涙でじんわりと温かくなった。こんな風にめそめそしている自分も嫌で、こんなことでは一角にまで嫌われるかも知れない、としゃくり上げそうになって、椿姫はみっともなくもその場から逃げ去った。
椿姫が中庭に降り立って数秒、踏みしめた地面を蹴ったはずがそこから動きが止まった。
「厠ならこっちじゃねェぞ」
『ち、が……!』
「なら話の途中にどこ行くってんだ」
一角が前に立ちはだかって、勢い付いた椿姫はその胸に飛び込むかたちで止まっていた。離れるために突いた手首をがしりと掴まれて、離して、と訴える椿姫を一角は無言で見下ろした。
『もう分かった、あたしが全部悪いの、分かったから』
「ア?全部、とか、誰もンなこと言ってねェだろーが」
『ご、……ごめん、っごめん、なさい……!』
ついに憚らず声をあげて泣き出した椿姫を、一角はひとまずすぐそばの空き部屋に押し込めることにした。落ち着いたように見えた椿姫に近付くと、自分の顔を見るなりまた瞳に涙を溜める様子に、何度か躊躇った一角だったが、埒が明かないので気にするのをやめた。
椿姫のすぐ傍にしゃがみ込んで親指で涙を拭えば、椿姫は顔を伏せた。
「身の程を知れ、ってのは、……俺が言いてえのは、お前はもっと自分の価値を知れ、ってこった」
『……………?』
「お前が袖で顔を拭かなくなったのも、物を投げなくなったのも、他人から見りゃ当たり前のことだろーが、努力して変わったってこと、見てる奴はちゃんと見てる」
涙を拭った親指を今度は頬へ添わせて一角は徐ろに椿姫の両頬をつねって、痛がる椿姫をよそに両頬をこねくり回した。
「だから、笑えよ。お前は笑ってる方がかわ…………、美しいって、弓親が言ってたからよ」
ようやく両頬が解放されて、嬉しくて椿姫が綻べば一角は椿姫の頭をぐしゃりと撫でた。
『ありがとう、一角。よし、あとは男の人を見る目も養わないとなぁ』
「ンなもん、自分の価値が解りゃあとはおのずとそれに見合ったいい男が寄って来るんだっての」
『へぇ』
「例えば、こんな夜中でも弱ってたら駆け付けて慰めてくれる優しい男、とか」
『何それ』
吹き出す椿姫を一角が優しく見つめて、障子の隙間から覗く黒い空は、知らぬ間に雲が晴れ始めていた。
「今日は、月が綺麗だな」
縁側に腰掛けた一角は空を見上げたまま呟いた。そうだねぇ、と同じく空を見上げて微笑む椿姫がその意味を知るのは、もう少し先のお話。
(了)