爽やかに吹き抜けた風に、満開の桜の木の下で靡いた栗色の髪がきらきらと輝いていた。それがあいつだと分かった時も、素直に綺麗だと思った。そういった感情にいつもならかぶりを振って無かったことにしようとするのだが、この胸の高鳴りの前ではもう無意味でしかないことは薄々気付いていた。こんなことにうつつを抜かして、ともう一人の自分が口を尖らせる。だが不思議なことに、弓親に焚き付けられたからとはいえ、いい加減足掻くのをやめたら、意外とこんな自分も悪くないと思えた。一旦たかが外れてしまえば、自然と向いてしまう足先を止める術はもう無い。
「あれ?こんなところで会うなんて、珍しいね」
どうしたの、とふわりと見つめられて、勢いで来てみたものの何をどうする、ともまだ心の準備も出来ていないことに今さら気付いた。見透かされまいと逸らした視線が、余計に不自然さを醸し出したかも知れないと、すぐに後悔した。
『いつも人にはサボるな何だとうるせェくせに、今日はてめえがサボりかよ』
つい、いつもの調子で口をついて出た嫌味に自分でもうんざりしたが、自覚したからといってそうそう変われるものではない。何も発さぬ椿姫の霊圧が僅かに振れた、と思ったら背後から柔らかいものに包まれた。
『っぐ………!』
「てめえ、って誰のことかなァ?あと、敬語はどうしたの?ん?そしてあんたと違ってあたしのは、サボりじゃなくて有休」
おまけにいい匂いがする、なんて呑気なことを考えている場合では無かった。絞め上げられる首よりも、耳にかかる吐息と背中の柔らかい感触に頭に血が上るのを感じて、乱暴に距離をとった。
「斑目くん、赤いよ、顔」
『ばっ……!てめえが思っきり首なんか締めっからだろーが』
「あ!またてめえって。よし、鉄さんに言いつけてやる」
『げ!?面倒くせェからやめろよ』
つい最近の長ったらしい説教を思い出して、げんなりして言えば、椿姫は可笑しそうに笑う。だがその顔に少しの違和感を覚えて、何かあったか、と問えば、椿姫は目を丸くした。
伏せた瞼と暫しの沈黙の後、椿姫は力なく笑って空を見上げた。
「あたし、十一番隊、やめなきゃなんない」
『……引き抜きかよ?嫌なら断りゃいいだろーが』
また力なく笑って椿姫は首を横に振る。そうゆうんじゃなくて、と呟いて下唇を噛んで黙りこくる姿が焦れったくて、なぜか胸がざわついた。
「あたし、結婚するみたい」
まるで他人事かのような台詞を、決して他人事では無い表情で口にした椿姫は、くるりと背を向けた。
初めて自分の気持ちに向き合った日、初めて惚れた女の素性をこんな形で知ることになるとは夢にも思わなかった。否、何も知らなかったことを思い知った。
早い話が、跡継ぎのない貴族故のごもっともな理由で、いよいよ誤魔化しがきかなくなって見合いする羽目になった、とどこかで聞いたことのある様な、よくあると言えばよくある様な、そんな話。
「ハッ!たかが見合い話が持ち上がっただけの話じゃねえか。結婚、なんざ気が早ェんじゃねえのか。第一、おめーみたいなじゃじゃ馬、お相手の貴族様に気に入ってもらえるかどうかも怪しいじゃねえか」
深く考えないように、自分に言い聞かせるように言葉を並べてみたが、生憎もうどうにかなるような話ではないらしいと椿姫の表情が物語っていた。
当人の意思なんぞ二の次、御家と御家の格式、つまり、見合いなんぞ既定路線の顔合わせにすぎないわけだ。
『てめえはいいのかよ、それで』
「ここらが潮時かな、って、ね。お婆ちゃんに最期、あたしの晴れ姿、見せなきゃなんないし」
こんな時でさえ、頬にかかる髪を耳にかける仕草に見惚れた。そして、椿姫の白無垢姿はさぞかし綺麗だろうと思った。きっと、弓親も嫉妬する。
でも、それを着させるのは、俺じゃない。
血迷ったと嘲笑われてもいいから、離すわけにはいかなかった。椿姫の手首を掴んで引き寄せれば、少しの重さも感じぬ間に腕の中におさまった。いとも簡単に。こんなにも、いとも簡単に出来ることを、どうして今まで出来なかった。
『行くな』
声が少し震えたのは、抱き締める椿姫の肩が震えていたからかも知れない。椿姫の手が背中に回って、抱き締め返されたと思ったら、そのまま後ろへ死覇装を引っ張られる。離れてやるもんか、と一層抱き締める力を強めれば、また椿姫の肩が震えた。
「斑目くん。…………ありがとう」
椿姫は腕の中で俺を見上げて、清々しくも見える顔でそう言った。まるで、何の未練もない顔で。その威力は抜群で、それ以上引き止めることも、言葉も、何も出てきてはくれなかった。椿姫は俺の胸に腕を立て踵を返した。
それでもまだ、立ち止まるなら、振り返る素振りを見せるなら、と諦め悪くもその遠くなる後ろ姿をただただ見つめていた。
夕暮れ時、満開だった桜は散り始めていた。
**
「やれやれ。ちょっとやり過ぎなんじゃない」
『何が』
蛇口の下で頭から水を被っていると、弓親が修練場の中を見やって溜め息を吐く。そこかしこに倒れる隊士を指して言ってるらしいが、いつものことだろと返せば弓親は肩を竦めた。
「鉄さんが居ないのをいいことに……。可哀想に。八つ当たりされて」
『ア?誰が、誰に、何の、八つ当たりだ』
「教えてほしい?一角が、日向四席に、振らr」
口に含んだ水を盛大に吹き出せば、弓親が汚い!と後退る。慌てて周りを見回すが近くに誰もいないのがせめてもの救いで、弓親を睨み付ければ何が悪いと言いたげに涼しげな顔をしている。
「どうでもいいけど、そろそろ行くよ」
『は?どこ行くんだよ』
「今日なんだろ?例のお見合い。六番区らしいからちょっと遠いけど、まだ間に合うはずだよ」
当然のように言って踵を返す弓親とは反対に修練場の戸口に手をかける。倒れる隊士たちに再び稽古の対者を呼びかければ、弓親が駆け寄った。
「そんなことしてる場合じゃないだろう、一角!」
『十一番隊士が稽古しねえで他に何するってんだ』
「本気で言ってる?」
俺の胸倉を掴んでいた弓親は、それを振り払って踵を返した。呼び掛けても止まらない弓親に、余計なことはするなと念を押せば、後悔しても知らないよ、と戸口の向こうへ消えた。
(後悔なんざ、もうしてるよ。とっくに)
*
それから少しして、討伐から戻った射場さんにどやされて、面倒くさくなっていつものごとく遁づらして、行き着く先がなぜ此処か。
すっかりと、一枚も残さず散った桜の花弁が地面を覆い尽くしていた。木の根を枕にして桃色の絨毯に寝そべれば、青々とした葉の間からきらきらと太陽の光が覗く。靡く栗色の髪が脳裏を過ぎって、堪らず瞼に腕を押し付けて蓋をした。
『……見合いはどうしたよ』
腹にかかる重みに、目を開けずともそれが誰かなんて解り切ったことで、もう思い出すのも正直辛かったはずが、恋い焦がれた霊圧をひしひしと感じ、弛みそうになる口許を隠した。
『つか、嫁入り前の娘が他所の男の上に跨ってんじゃねえよ』
呆れて睨み付けるが相変わらず、椿姫は微笑みを湛えて俺を見下ろしている。存外早く話がまとまったのか、いつもの調子で俺をからかうにしても、この前の今日で酷すぎやしねえかと心の中で一瞬毒づいたが、椿姫をいざ目の前にすればそんなことは取るに足りぬ、嬉しさの方が勝るんだから惚れた弱みとは怖ろしい。
「なかなか話の解る人でね。結託して、破壊した。見合い会場」
『ハハッ!やっぱりてめえは大人しく収まるタマじゃァ、ねえなァ!』
思い出して、堪え切れず大きな口を開けて笑う椿姫につられて笑えば、ふいに両側から回される椿姫の腕。直に嗅覚を支配されて目眩がしそうになる。
『本当にいいのかァ、四大貴族との縁談なんざもう二度とあることじゃ無ェだろう』
「行くな、って言ったくせにぃ」
不貞腐れたように言った椿姫に体を揺らされて、栗色の間から覗く耳に頬を寄せて強く抱き締め返して、幸せを存分に噛み締める。
見つめ合って瞼を閉じる。当然の流れで近付けた唇には、想像していたよりも固い感触がぶつかった。
「ところで、斑目くん。ちゃんと言ってよ、肝心なこと」
ゆっくりと瞼を開ければ、唇を押し当てていたのは塞き止める為に挿まれた椿姫の掌だった。上目遣いで強請られて生唾をのむ。言わなくても解るだろうと逸した顎は細い指で引き戻される。互いの吐息のかかる距離で寸止めをくった唇がもどかしい。かかる吐息がまるで媚薬でも含んでいるかの様に、だんだんと理性がとんでいくのを感じた。
『好きだ』
気恥ずかしさなど跡形無く消え去って、ただ気持ちのままに求めれば、返事の代わりに唇が重なって息を止めた。
『椿姫、』
余りにも幸せすぎて、収集がつきそうにないこの感情をただ幸せと呼ぶには言葉が足りない気さえした。夢じゃねえかと不安にかられて、両手で包んだ頬は温かく、名を呼べば、椿姫もまた俺の名を呼んで微笑んだ。
『好きだ』
「あたしも、好き」
求め、求められ、何度も重ねた唇に、一生離さねえと誓った。
*
**
「あの人も上手くいけばいいのになぁ、流魂街の娘と」
『そうだな』
あの人、とは見合い相手のことらしかった。普段ならどうでもいいことのはずが、自分が本当に幸せである時、顔も知らない誰かの幸せをも自然と願わずにはいられなくなるんだから不思議だ。こんな感情は、言わずもがな初めて知った。
「それにしてもあの人、本当に見事だったわ。一角にも見て欲しかった」
『ア?』
「始解よ」
『司会?……そんな口達者な野郎だったのか』
ぶぶっと椿姫が吹き出して、こっちのこと、と自身の斬魄刀を指差した。一瞬何のことか分からず、あぁ、と流そうとしたが、合点がいった。
『………!?相手、死神かよ!?』
「あれ、言ってなかったっけ」
『ハァ!?どこの何席だァ!?』
「聞いてどうするの」
言われてみれば、確かに今さら聞いたところでどうするも何もない。答えあぐねていると、椿姫は可笑しそうに笑った。
「すっごく綺麗だった!千本桜!」
『…………はっ!?お前の見合い相手って…………………朽木白哉かよっ!?』
驚く俺をよそに、椿姫は足許の花弁を蹴散らしながら歩いてはその始解に思いを馳せているに違いない。どこか面白くなくて少し乱暴に椿姫の腕を引けば、何を勘違いしたか、俺に微笑んだ椿姫は手を繋いだままぶんぶんと大腕を振って楽しそうに歩いた。
「ねぇねぇ、このまま隊舎、帰っちゃおうか」
『そりゃ、帰るだろ』
「へぇー。ここままでいいんだ?」
目前に互いの指を絡めたままの手を翳して、椿姫がほくそ笑む。いいわけねえだろ!と返せば、何で、と頬を膨らまされて、色々困るから、と濁して引き寄せた椿姫にまた唇を重ねた。
気付かれない様に歩みを弛め、遠回りで帰るは春の始まり。
(了)