月と星





 三日目、昼。ナベかま亭の大部屋は、避難準備に勤しむゴーマン一座で騒然としていた。
「ルミナ。結局お前はどうするつもりだ」
 律儀に座員の帰りを待っていたゴーマン座長は、戻ってきたルミナにそう訊ねた。
「わしらはやはり避難しようと思う。皆に何かあったら責任が取れないからな」
 座長の鑑のような発言だった。彼もまた、前回の三日目でダル・ブルーのライブを見ることで何かが決定的に変わったのだろう。リンクとの交流を経て、ある種の使命感に目覚めたルミナと同じように。
 彼女は言いづらそうに切り出した。
「えっと、わたし、町に残ろうと思うんだけど……」
 一瞬の沈黙ののちに返ってきたのは、当然猛反対の嵐だ。
「はあ!? なんで!」ローザ姉妹が声を揃えて叫ぶ。
「だ、大妖精様に頼まれごとしてて、それがまだ終わってないから」
 決して嘘はついていない。だが、マリラを心配させてしまったようだ。
「あのね、大妖精様があの月からあなたを守ってくれるの? いくら大事なお願いでも、命に代えちゃだめでしょ」
「そ、それは――ね、座長」
 ルミナは助けを求めるようにゴーマン座長を見やる。仕方ない、というように座長は肩をすくめた。
「カーニバルの準備も一部では続けられるみたいだし、ルミナはどうしても残りたいんだろう。危なくなったらすぐ避難するんだぞ」
 ルミナの目尻にじわりと涙がにじむ。
「ありがとう座長! それとみんな、ごめんなさい。わたし、カーニバルの日を迎えるのが夢だったの。月は怖いけど……どうしても諦められないんだ」
 カーニバルの日を迎えたい――それはタルミナに、クロックタウンに息づく強い意思だった。こっそり大部屋に入っていたチャットは、ルミナがどれほど真剣にリンクやゼロのことを信じているのかを知った。
 ゴーマン一座の仲間たちはそれ以上引き止めなかった。ルミナの真摯さに思いがけず胸を打たれたようだった。
 ルミナとチャットが階下に降りていくと、こちらでは家族の別れが交わされていた。
「それじゃお母さん、おばあちゃんをよろしくね」
 アンジュの母は身支度を終え、今にもロマニー牧場へと出発しようとしていた。それを、穏やかな顔で一人娘が見送っている。
「アンジュ、本当に大丈夫なのかい」
「任せて。二人がいない間のナベかま亭は私が守るわ」
 横に並んで聞いていたルミナは思わずほろりとしてしまう。カーフェイの存在が今のアンジュを支える力となっているのだ。
「それに、ルミナも一緒にいてくれるわ」
 突然話題を振られ、ルミナは肩をびくりとはね上げた。
「え!? えーと、アンジュの面倒は私がみます……?」
 身の安全についての保証はリンクたちに丸投げしているので、あまり大きなことは言えない。まあ、何かあっても時の歌があるのだから、と彼女は無責任なことを考えていた。
「ところでおばあちゃんは……?」
 ルミナがきょろきょろ見回す。玄関付近には祖母の姿は見当たらなかった。アンジュは少し首をかしげ、
「実は、こんな時にお客さんが来ていて。一昨日までナイフの間に泊まっていた方が、おばあちゃんにお話を聞きたいって訊ねてきたの」
 ルミナとチャットは目を見合わせる。
「それって……」『もしかして、ゼロ?』
 二人は祖母の部屋に行ってみることにした。
 ドアノブに手をかけようとすると、部屋の中から会話が聞こえてくる。
「――それが、タルミナの成り立ちなんですね」
「そうだよ。最後までよく聞いてくれたねえトータス」
 トータスとは、いなくなったアンジュの父の名だ。ルミナは軽く目を見開いた。
(すごい、あのお話聞いてて眠くならないなんて)
 子どもの頃、アンジュとカーフェイとクリミアと一緒に「四人の巨人の話」だの「刻のカーニバルの話」だのを祖母に読み聞かせられたことがある。が、四人とも最後まで起きていることができず、いつも途中でこっくりこっくり船を漕いでいた。体力がない子どもだからというレベルではなく、どうも祖母の声には安眠を誘う音波が含まれているらしい。今だって、扉越しに聞いたルミナすら一瞬であくびが出てきたくらいだ。
 実を言うとゼロは手に入れたばかりの夜更かしのお面の力を行使していたのだが、当然ルミナは知る由もない。
 話を終えたゼロは祖母の部屋から出てきて、きょとんとした。
「あれ、ルミナだ」
「やっほー。今日は何度も会うね。おばあちゃんから何のお話聞いてたの?」
「ええっと……イカーナ王国の話」
『ふうん』
 チャットが含むような視線を向ける。ゼロはそれを振り切るように部屋の中をもう一度覗き込んだ。
「ごめん、避難があるんだったよね。おばあさん、ありがとうございました」
「トータスにならいつでもご本を読んであげるよ」
 祖母は絵本を抱え、にこやかにアンジュ母に連れられていった。
「アンジュさんは避難しないの?」
 ゼロが自然な疑問を呈すると、ルミナは鼻息荒く胸をそらした。
「ふっふん。アンジュを引き止めるのも避難命令の撤回も、全部わたしたちがやったんだよ! すごいでしょ」
「本当? ありがとう、助かるよ。ルミナが手伝ってくれて本当に良かった」
 てらいのない褒め言葉が返ってきた。ルミナは満足げににこりとした。
「そうだゼロ、今カーフェイがどうしてるか知ってる?」
「カーフェイはサコンを追いかけて、多分イカーナに向かってる。リンクと一緒に」
「だってよ、チャット」
『へえ、そうなの』
 妖精の反応は冷たい。ゼロはやや改まって彼女に向き直る。
「……チャット。リンクたちの様子を見に行ってくれないかな。二人が心配なんだ」
 妖精はうっと言葉に詰まる。ルミナが加勢した。
「そうだよ、それがいいよ。今からリンクたちを追いかけるなら、妖精じゃないと追いつけないし。大妖精様なら二人がどこに行ったか分かるんじゃない?」
『アタシは行くなんて一言も言ってないわよ』
「えー、でもリンクに会って話した方がいいよ。ほら、ケンカしっぱなしじゃ月だって止められないでしょ?」ルミナが食い下がり、
「弟さんのこともあるし、リンクにはムジュラの仮面を倒してもらわないとね」とゼロが涼しい顔で追撃する。
 そうやって三人がもめていると、
「あの……もしかして、カーフェイの話でしょうか」
 遠慮気味にアンジュが会話に入ってくる。
「そうだよ。この妖精さんが様子を見に行ってくれるんだー」
『ちょっと! 勝手なこと言わないでよっ』
 憤る妖精へ、アンジュは律儀に頭を下げた。
「もしよければ、カーフェイに伝言をお願いできますか。ペンダントを受け取ったこと、ここで待っていること……きちんと伝えておきたいんです」
 チャットは黙りこくった。
「これを断るなんてチャットさんらしくないよねえ」
 ルミナが意地の悪い笑みを浮かべる。そもそも、このささやかなケンカはチャットが「アンジュの手助けをしたい」と言い出したことからはじまったのだ。ここで初志を曲げることは、彼女の性格にそぐわないだろう。
 チャットは慌ただしく羽を動かし、体の光をちかちかさせながら、
『分かったわよ。行けばいいんでしょ。べ、別にアタシはあいつを助けにいくわけじゃないわよ。ただカーフェイに伝言を届けるだけなんからねっ』
 妖精は「仕方ないから」という態度を目一杯振りまきながら開いた窓から外に出て、三日目の夕空をぴゅーっと横切っていった。
「お、お願いしますね……」
 アンジュは心配そうに見送った。ルミナは明るく笑顔を作って、
「チャットが行ってくれたからカーフェイたちはもう大丈夫だよ。わたしたちはここで待ってよう――って、あ!」
「どうしたの?」ゼロとアンジュがそろって首を傾ける。ルミナは荷物から手紙を取り出した。
「これ、アロマ夫人に届けるの忘れてた……しかも大妖精様の頼まれごとも放置したままだった。ま、まずい」
 目に見えて焦り始めるルミナへ、アンジュが、
「それって速達でしょう? ポストマンは避難命令が出たからって、今朝にはもう町を出ていたわよ。すごく嬉しそうにしていたわ」
「あちゃー、どうしよ」
「手紙はオレが届けるよ。ポストハットもあるし。ルミナはその、大妖精様の頼まれごとをやったら?」
「あ、ありがとうゼロ!」
 両手を握って大げさに感謝する彼女に、ゼロは苦笑いを返す。そしてごくさりげなく訊ねた。
「そうだ。オレ、まだ町の大妖精様と会ってないんだけど、どんな人だった?」
 大妖精の泉を思い出したルミナは夢見るようなまなざしになる。
「とってもきれいで優しいひとだったよ。もう圧倒されちゃった。住む世界が違うって感じ?」
「そっか」
「そうそう、大妖精様もわたしたちを応援してくれてるんだよ。がんばらないとね!」
「うん」
 ゼロはどこかさみしげにほほえんでうなずいた。



 リンクは暗闇の中で目を覚ました。一瞬、どこにいるのかわからない。
(ここは――サコンのアジトの内部か?)
 徐々に記憶が戻ってくる。彼はカーフェイと共にアジトに突入した。追っていたはずのサコンは中にはおらず、代わりに正面の台座の上に太陽のお面が飾られていた。カーフェイが焦ってお面を確保しようとし、踏んだスイッチが罠だった。太陽のお面は動く床に載せられ、アジトの奥へ奥へと運ばれていったのだ。
 リンクたちは二手に分かれてアジトを攻略しつつお面を追った。身の丈ほどもあるブロックを押して道を切り開き、行く手を塞ぐ魔物を倒して、奥の部屋を目指した。
 リンクは直したフェザーソードでウルフォスと渡り合ったが、寝不足のせいで注意力が散漫になり、無駄に時間をかけてしまった。そのせいで、奥の部屋にたどり着いた時には本当にギリギリだった。動く床の終点には奈落が顔をのぞかせていて、太陽のお面を待ち構えていた。
 なんとか最奥にたどり着いた二人は駆け寄り、手を伸ばす。だがお面はその手をすり抜けて――
(させるか!)
 リンクはジャンプし、ほとんど穴の上に見を投げ出すようにして太陽のお面をつかんだ。体が落下に転じる刹那、驚いて固まるカーフェイの方へお面を投げる。そこまでは良かったのだが、彼自身は跳躍の勢いを殺しきれずに奈落に落ちたのだ。
(失敗続きか……情けない)
 幸い穴の底までの落差は大したことなかったようで、骨が折れたりはしていないようだ。しかし一歩間違えば大怪我になっていてもおかしくなかった。今だって、少し動くだけで全身がきしむ。
 カーフェイは今頃どうしているだろう。お面を持ってクロックタウンに戻っているのか、それとも落ちたリンクを心配して右往左往しているのか。とりとめもない思考が脳裏を流れていく。
 そもそも自分はこんな場所で何をやっているのだろう。「いなくなった友を探す」という当初の目的から大きくそれて、タルミナの命運に関わり、さらにはほとんど見ず知らずの婚約者たちまで手助けしている。
 だが、リンクはそれでも構わないと思いはじめていた。誰かに強制されたわけではなく、自分が選択した結果として、彼はここにいる。それは故郷における戦いで「時の勇者」と呼ばれていた頃からずっと変わっていないスタンスだ。
 ぼんやり痛む体を横たえ、全身が熱を持つのを感じながら、リンクのまぶたはまた重くなる。
(やはり、少し寝ておくべきだったか――)
 その時、太陽のような白い光が目に差し込んだ。
『こんなところで何やってんのよ』
 厳しくもあたたかい声が降ってくる。故郷の旅を共にした相棒ではないけれど、大切な仲間だと言い切れる妖精の声だ。
『決戦の前に怪我? 情けない。やっぱりアンタはアタシがいないとだめね』
 リンクはくすりと笑う。そしてゆっくりと目を開け、乾いた唇を動かした。
「……俺の荷物を照らせるか」
 すぐに白い光が飛んでいく。リンクと一緒に落ちた荷物袋はかなり離れた位置にあった。
 そこまで這っていき、荷物を漁る。落下の衝撃にも負けずに残っていたビンを開け、赤いクスリを飲んだ。
 リンクはほっと息をつく。みるみる体力が回復していくのが分かる。クスリで治療しやすい怪我で良かった。
「……助かった。ありがとう、チャット」
 起き上がったリンクが頭を下げると、妖精は一瞬返答に迷ったようだ。
『あ……アンタがお礼言うなんてね』
「礼くらい言えるさ」
 リンクは軽く息を吐き出す。
「一昨日は、悪かった」
 素直な謝罪を受けて、チャットはどきりとしたらしい。
『アタシも……ゴメン。言いすぎたわ』
 リンクはふ、と息を吐いた。たった一度のやりとりでこの二日間の溝は埋められた。チャットもほっとしたようで、だんだんいつもの調子を取り戻していく。
『それにしても何よ、こんなところに来て。アンタ一体何を盗まれたの?』
 リンクは実に苦々しい口調で、
「時のオカリナ」
 と答える。さすがのチャットもとっさに二の句が継げなかった。だが、次の台詞には笑いの成分が含まれていた。
『……ドジねえ。アタシの弟みたい』
「そうなのか。確か、トレイルという名前だったな」
『もうすぐ会えるわよ。ちゃんと紹介するわ』
「ああ、頼む」
 リンクは荷物の中からカンテラを取り出して、火をつける。
 あたりは倉庫――というよりも廃棄場のようだった。そこここに木箱やガラクタが散らばっている。太陽のお面は換金もできず処理に困ったのでここに落とそうとした、ということだろうか。
『この中に時のオカリナもあるのかしら』
「見つけ出すしかないだろう」
 二人は慎重にオカリナを探しはじめた。リンクはカンテラで足元を照らしつつ、
「チャットは、どうしてここに来たんだ。カーフェイは今何をしているか分かるか」
『一度に訊ねないでよ。アタシが来たのは……ゼロとルミナに言われたからよ。アタシは全然来たくなかったんだけどね! アンジュさんに、カーフェイへの伝言を頼まれちゃって。それで、大妖精様――アリスにこの場所を教えてもらって、アジトに入ったの。
 カーフェイってば今にも自分も穴に飛び込みそうなくらい心配してたわよ。でもアイツがいてもできることもないし、アンジュさんの伝言を伝えて、とりあえず先にクロックタウンに帰ってもらうことにしたの』
「平原を一人で渡らせたのか?」
『まさか。そこはちゃーんと考えたわよ。まあアリスの発案なんだけどね、イカーナまでエポナを連れてきたのよ。だからカーフェイは馬でひとっ走りよ』
「そうか」
 リンクは肩の力を抜いて、あからさまに安堵していた。なんだかんだ、あの危なっかしい婚約者を心配しているのだ。
 やがて彼らは無事に青いオカリナを見つけた。故郷の国宝が、このような場所に遺棄されているとは――頭が痛くなる。
「よし。俺たちも脱出だ」
『て言っても、どうやって?』
 見ていろ、とチャットに告げて、リンクは時のオカリナを構えた。奏でたのは大翼の歌だった。
『ホッホウ!』
 器用に穴を抜けて大きな羽を広げ、大翼のフクロウがやってきた。律儀にもこんな場所まで迎えに来てくれたのだ。
「悪いが、クロックタウンまで頼む」
『よかろう。しかしおぬし、急いだ方が良いぞ』
『どういう意味よ?』
 フクロウは意味深に目を細める。
『空白の青年が力を取り戻し、死神を止めようとしておる』
 予言めいた言葉だった。手を伸ばしてフクロウの足につかまりながら、リンクは背中に寒気を感じる。
「空白の青年……まさか、ゼロか?」



 ミルクバーで一人杯を傾けていたアロマ夫人へ、ゼロは母への速達を手渡した。
 彼女は大喜びし、シャトー・ロマーニをおごってくれた。こんな状況で飲むミルクなど味がしないのではないか、と彼は固辞しようとしたが、無理に押し切られて一杯だけ付き合った。懸念に反して、クリミアの仕入れた最高級のミルクはすばらしく冴えた味わいだった。彼女は今頃、ロマニー牧場で妹とともに夜空を見上げているのだろうか。
 一方のルミナは大妖精との約束を果たすため町中駆けずり回ったが、めぼしい成果は上げられなかった。大きな音の鳴る楽器とはなんだろう。今や町の住民はほとんど避難してしまい、ヒントを聞ける者もろくにいない。こうなることならもっと早くから準備しておくべきだった。ともかく一度大妖精に報告に行かなければ――と思ったところで、彼女は石畳を駆ける馬の蹄の音を聞いた。
「カーフェイ!?」
 閑散とした夜のクロックタウンを子馬が横切っていった。馬の背には見覚えのある子どもがしがみついている。東地区で馬を降りた彼は、脇目も振らずナベかま亭に駆け込んでいった。
 呆然としてそれを眺めていたら、いつの間にかミルクバーから出てきたゼロが隣に立っていた。
「アンジュさんに会いに行くんだね」
「多分。太陽のお面、取り戻したんだ……」
 ゼロとルミナは祈るような気持ちでカーフェイを見送った。アンジュは二階の従業員室で待っているはずだ。一ヶ月ぶりに再会する恋人たちが一体どんな会話をするのか気になるところだが、
「うー、あんまり邪魔しちゃ悪いよね」
 地団駄を踏むルミナにゼロは苦笑しつつ、
「宿のロビーで待っていようか」
 と提案した。
 もう深夜だ。ロビーは静かで、ことりことりと時計の音ばかりが響く。時折月の接近による振動が宿を揺らした。二人はまんじりともせずに時を過ごした。
 やがて、二階からアンジュとカーフェイがゆっくりと降りてきた。二人は手を取り合い、晴れやかな顔をしていた。立ち上がるルミナたちの前に出ると、
「ボクらは誓いを交わし、めおとになった」
「みなさん、本当にありがとうございます」
 ルミナは二人に飛びつき、高さの違う肩をぽんぽんと叩いた。
「ああ良かった! 本当にここまで長かったね、二人ともっ」
 めおとの二人は照れくさそうに笑っている。カーフェイは大人びた仕草で肩をすくめた。
「リンクにも迷惑かけたよ。あとでお礼を言わないとな」
「そうだ、リンクは……?」
「実はサコンのアジトではぐれてしまったんだ。でも彼の妖精が助けに来たから大丈夫だろう。ボクが無事に帰ってこられたのも、あの妖精のおかげだ」
 ルミナたちは安心して胸をなでおろす。チャットは期待以上の働きをしてくれたのだ。
 アンジュはやや改まってルミナへと向き直る。
「アナタたちはめおとの誓いの証人よ。このお面を受け取ってください」
 つるりとした白い面だった。花嫁のつくる月のお面と、花婿のつくる太陽のお面を重ね合わせることで生まれる誓いのお面だ。
「めおとのお面だよね。おめでとう、二人とも」
 感動したルミナはじいんと涙をにじませたが、
「ルミナ、それ……いいかな?」
 隣からゼロが遠慮がちに声をかける。そうだ、お面と言えば彼の記憶の手がかりなのだ。
「え、あ、そっか。うん、一応外出ようか?」
 さすがに夫婦の目の前でお面がなくなるのはまずい、と考えたのだ。
 ゼロとルミナはナベかま亭二階のベランダに出た。
「うわ、もう月があんなに……」
 空が不気味な色に染まる「終末」はいつも時間の感覚が薄くなるが、そろそろ深夜零時も違いはず。ルミナは手すりから身を乗り出し、空を見上げる。顔のある月はまっすぐに時計塔を目指しているようだった。
「ルミナ、お面を……」
「え? ああ、そうだよね、ゼロの記憶なんだもんね、これ」
 だがなかなか手が動かない。ルミナは、ゼロにお面を渡すのを躊躇していた。
 かつてないほどの緊張感が彼女を襲っていた。月の圧のせいだろうか。ゼロのまとう雰囲気が今までと違っているようにすら思えた。
「ルミナ」
 静かに重ねて名を呼ばれ、仕方なくルミナはお面を手渡す。彼女の小さな冒険の思い出が詰まったお面が、ゼロの指先に触れた箇所からすうっと透明になっていく。
 彼はしばらく目を閉じていた。
「大丈夫……?」
 ゼロはぱちりとまぶたを開ける。
「うん、平気」
 瞳の赤色が深さを増したようだった。景色を透かし見るような不思議なまなざしだった。
 ゼロは自分の手のひらを見つめながら、
「他のお面は、やっぱりだめだよね。リンクかアリスがいないと受け取っちゃいけないんだよね」
 昼間、チャットにきつく言い含められたばかりだ。だが、ルミナは――
「ううん。全部持っていって」
 抱え込んでいたお面たちを一気に取り出した。ゼロは驚きに目を見開く。
「いいの?」
「そのかわり責任とって、月をなんとかしてよ!」
「任せて」
 ゼロは微笑んだが、ルミナは何故だか胸がざわついて仕方なかった。
(これでいいんだ。ゼロの記憶だもん、わたしが持ってるのはおかしいよ……ね)
 そう言い聞かせる彼女の脳裏に、かつて一座の仲間のグル・グルから聞いた「ある噂」が蘇る。
 この世には、全てのお面を飲み込むお面がある。そのお面の名前は――
「あのさ、ゼロ……」
 言い終わる前に、ゼロが目を細めながら告げる。
「ルミナ、きみに頼みたいことがある」



 月迫るクロックタウンの空に火の花が咲く。リンクたちの働きにより無事にボム袋を確保したバクダン屋が、景気良く花火を打ち上げていた。それが午前零時、刻のカーニバル開始の合図であった。
 花火を見たチャットが叫ぶ。
『もう時計塔の扉が開いたわよ! 急がないと』
「分かっている!」
 フクロウでの移動が門番に見つかると面倒なため、リンクは東門前の平原で地面に降りた。フクロウは『健闘を祈る』と短く言い残し、空を飛び去っていった。ゼロについて何を知っているのか問いただすべきだったのかもしれないが、今はひたすらに時間が惜しい。「町は危険だ」という門番の制止を無視し、ひとまずリンクたち一行の集合場所となりつつあるナベかま亭に向かって走った。
 散発的に上がる花火に照らされた町を抜ける。避難勧告が功を奏したのか、ごく一部の住民以外はいなかった。
「リンク、チャット!」
 ナベかま亭の玄関前ではルミナが待っていた。さしもの彼女も緊迫した面持ちだ。
「二人とも、カーフェイのことありがとう。それで――」
「ゼロはどこだ」
 割り込んできたリンクの質問に、ルミナははっとして口をつぐむ。彼女は悔しげに唇を噛んで、
「一人であそこに行っちゃった……」
 指差したのは月の真下、時計塔の天辺だった。一瞬リンクは絶句する。
「あいつ、正真正銘の阿呆だったみたいだな」
 反射的についた悪態にもどこか力がない。
「そのことをリンクに伝えてほしいって言ってた。それでね、わたしの持ってるお面全部ゼロに渡したの」
「なんだって?」
 お面はリンクもまだいくつか所持している。これで全部なのかは分からないが、少なくともゼロは記憶と力を全て取り戻したわけではないだろう。
 チリンチリンと警音を鳴らしたチャットがルミナに食ってかかった。
『アンタねえ、お面渡すのはアリスかこいつがいる時にしなさい、って言ったじゃない!』
「それは……分かってたけど、ゼロだって自分なりに考えがあるんだし、それを無視しちゃダメだよ」
『考えって? アイツ、一人でムジュラの仮面に挑むつもりかもしれないのよ』
「だとしても――」
 女二人が論争をはじめるのをよそに、リンクは苛立ちを隠しきれなかった。
 ここにきて単独行動をする意味がどこにあるのだ。不穏な予想ばかりが胸の中で膨らんでいく。
 それでも彼はきっぱりと言い切った。
「言い争いはあとだ。今はやるべきことがある」
 振り返ったルミナの瞳が不安げに揺れていたので、リンクは確信した。
 ゼロを送り出したのが正しいことだと、ルミナだって心から信じているわけではない。それでも彼女は「リンクならなんとかしてくれる」と考え、ここで待っていたのだ。
「わたしは大妖精様のお手伝いがあるから一緒に行けないけど、お願い――勝ってきて!」
 リンクは凛々しい眉を少し下げ、彼にしかできないあの不敵な笑みを浮かべる。
「任せろ」
 緑の背中はタルミナ全部を背負えるほどに広かった。


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