月と星





 翌日、リンクはもやもやした気分のまま、出来上がった剣を取りに山の鍛冶屋へ向かうことにした。
 北門の前までゼロが見送りに来る。
「マニ屋が開くまでには戻ってくる」
「分かった。それじゃ、いってらっしゃい」
 ゼロがにこやかに手を振る。リンクは何度もこうして彼に送り出されてきた。はじめは胸がムズムズするような感覚があったけれど、だんだんそれにも慣れた。
「ああ。行ってくる」
 いつの間にか、リンクはそう素直に返せるようになっていた。
 再び一人になったゼロは、クロックタウンを歩くことにした。二日目の空は薄暗く湿っている。
(この天気とも今回でお別れかな……)
 と考えて、それは違うと首を振る。いつだって時は前へ前へと流れていた。空模様は同じでも、何から何まで完璧に同じ日など一つもなかった。そして、一見すると機械のように日々を繰り返す人々の中にも、この三日間は確かに蓄積されてきたのだ。
「ゼロ」としての意識が芽生えてから、彼はずっとこの三日を繰り返して来た。もうこのカーニバル前の三日間とはお別れなのだと思うと、少しだけ惜しいような、不思議な気持ちになる。
(……リンクとの別れが、近いからかな)
 ゼロは、リンクが必ずタルミナから出て行くものだと分かっている。チャットもそれを薄々感じているのだろう。何故かリンク本人は自分の醸す気配に気づいていないようだが。
(新しい日が来たら、オレはどうするんだろう)
 否、どうなっているのだろう。今まであまり積極的に受け入れられなかった鬼神の記憶とも、いよいよ向き合わなければならない。だが、全ての記憶を思い出した時、自分は――
(何があっても、リンクに迷惑かけることだけは絶対に避けないと)
 こぶしを握る。今できるのは、目の前のことに集中するだけだ。
 そんなことを考えながら閑散とした東地区をぶらぶらしていると、彼は不審な人影を見つけた。なぜか民家の壁に張り付いて、街角のポストを遠くから監視している者がある。ゼロは後ろから近づいた。
「……ルミナ? 何してるの」
 薄手の上着を羽織った少女はびくっと全身を震わせたが、顔を上げて「なんだゼロか」と胸をなでおろした。
「いいところに来てくれたね!」『むしろ遅いわよ、この寝坊助』
 同じく背後に注意していなかったチャットがとんがった口調で言う。
「もしかして、オレのこと待ってた?」
「そうなんだよ。実は――」
 ルミナたちは事情をざっと説明した。ポストに出したカーフェイへの手紙の行く先を知るため、これからポストマンを尾行するのだ。
「そっか、オレのポストハットがあれば話が早かったんだね」
 と言っているうちに尾行対象のポストへポストマンがやって来る。ポストから手紙を取り上げた彼は、心なしか足を弾ませ歩き出した。
「よし、行こう!」
 ルミナたちは隠れながら後を追った。
 ポストマンが目指したのは、中央広場から一本脇に入った道――洗濯場だった。ルミナはゼロと顔を見合わせる。
「ここにカーフェイがいるの……?」
 流れる小川は天文台方面から来る水道だろうか。川には小さな太鼓橋がかかっていて、その脇に目立たぬように呼び鈴が設けられていた。
 ポストマンが呼び鈴を鳴らすと、洗濯場の奥にあった扉から、小柄な影が出てきた。
 黄色いキツネのお面をかぶった少年だ。人目を避けるようにすばやく橋を渡り、ポストマンと何かやりとりしている。
 ルミナは壁の陰に隠れながら目を細めた。あの子ども、どこかで見たことがある気がしてならない。
 チャットがすうっと空を切ってゼロの耳元に身を寄せる。
『あいつが出てきた扉の奥にカーフェイがいるかもしれないわね。よし出番よゼロ、アンタがポストマンのフリをしてあの子どもを足止めするの。その間にアタシたちが突入するから』
「えっ。その作戦だいぶ無理があるよね……?」
「なるほどいい提案だよ。よろしくゼロ!」
 強引な女性二人に頼み込まれたゼロは、渋々隠れ場所から出て、ポストマンと入れ替わりに少年に声をかけた。
「すみません! さっき配達した手紙についてなんですけど――」
 少年はお面越しにもはっきりと困惑した様子だ。この分ではあまり時間は稼げないだろう。ルミナはさっそくゼロの背中に隠れるようにして移動し、扉にたどり着いた。鍵はかかっていない。
「お邪魔しまーす」
 室内に入るとすぐそこにスロープがある。上った先は小さな机とベッド、その他諸々の荷物が雑然と置かれた小さな空間だった。もともとは物置だったのだろうか。
『誰もいないみたいね』「うん」
 机の上に置かれた書きかけの手紙を見つけ、ルミナは手にとった。
「母さんへ……?」
 彼女ははっとする。見慣れたカーフェイの筆跡であった。これは母親、すなわち町長夫人へ宛てたものか。
 思わず前のめりになって内容を読もうとした瞬間、ばたんと大きな物音がした。玄関が勢いよく開いた音だろう。
「あっ」
 お面を外した子どもがそこに仁王立ちしていた。後ろにはゼロが気まずそうな顔で控えている。どうやら、本物のポストマンでないことはあっさりバレてしまったらしい。
 子どもは雨に濡れた便せんを握りしめていた。
「……アンジュの手紙にあった通りだ。ルミナ、久しぶりだな」
 妙に落ち着き払った様子は、リンクと少し通ずるところがある。
 そして何よりも、少年の特徴的な紫の髪にルミナは見覚えがあった。
「もしかして、カーフェイ……?」
「そうだ」
 少年がうなずいたので、チャットが飛び上がる。
『ウソ! アンタねえ、私たちが探しているカーフェイはオトナなの。アンタ、どう見ても子どもじゃない』
「それは……」カーフェイと名乗る少年は苦みばしった顔でうつむいた。「お面をかぶった変な小鬼にこんな姿にさせられたのさ」
「スタルキッドの仕業だね」
 ゼロは眉根を寄せてうなずく。月を落とすだけに飽き足らず、ムジュラの仮面の力でやりたい放題だ。もともとはいたずらのつもりでも、仮面の悪意に影響を受けたのか被害は拡大するばかりだった。
 ルミナは膝を折って子どものカーフェイと目線を合わせる。
「本当にカーフェイなんだね。久しぶり。大変……だったよね」
 カーフェイは少し表情を柔らかくする。
「ねえ、どうしてアンジュのところに行ってあげないの? あの子、ものすごく心配してたよ。アンジュなら子どものカーフェイだって、きっと受け入れてくれるのに」
 カーフェイは深くため息をついて腰に手をあてた。
「かくれてるのはこの姿のせいじゃない。ボクはこの姿にされた時、北門のほこらに住む大妖精に相談しに行こうとした……。その途中、ヒョコヒョコ歩く笑い顔の男に大切なお面――婚礼の面を盗まれたんだ!」
 ゼロはああ、と嘆息した。間違いなくサコンの仕業だろう。ケチなスリだという割に、重要なものばかり盗んでいく。迷惑極まりない男だ。
「あちゃあ……」ルミナも頭を抱える。ある意味、カーフェイは予想通りに致命的な失敗をしていたようだ。
『アンタ、ドジねえ。私の相棒みたい』
 チャットの言葉に、ゼロが軽く目を見開く。相棒というのはリンクのことだろう。確かに彼はごくまれにドジを踏むこともあるが、チャットがそのような評価をしていたのは意外だった。彼が時のオカリナを盗まれたと知ったら一体どうなることか。
 カーフェイは幼い顔に精一杯の後悔をにじませる。
「結婚式を前にして浮かれてたんだ。そのスキをねらわれた……」
『あら、そう。お気の毒さま』
「アンジュが心配しているのはわかってる。でも、今はまだ出ていけない。彼女に約束したんだ……婚礼の面をもって絶対むかえにいくって」
(見栄なんて張ってないで素直に会いに行けばいいのに)と、これまでの三日間で幾度となくこの婚約者たちに振り回されてきたルミナは思ってしまうのだが。
「それでカーフェイ、お面を取り返すあてはあるの?」
「この町で盗まれたモノはたいていマニ屋に流れる。ボクはそれを待ってるんだ」
 カーフェイはちらりと壁を見た。目線の先に、小さなのぞき穴が空いている。
「そこの穴をのぞいてみな。マニ屋の客がチェックできる」
 この小さな部屋は、ちょうど西地区にあるマニ屋の裏手にあるらしい。ルミナはのぞきこんで「本当だ」とつぶやいた。
「ヤツは絶対あらわれる。ボクはその時を待っているのさ」
 ここで、カーフェイはゼロに鋭い視線を向けた。
「お前、昨日金髪の子どもと一緒にマニ屋に来てたな。お前もあのスリを待っているクチだろう」
『え、アンタたちも何か盗まれたの?』
「うん、まあ、そんなところ」
 ゼロは苦笑いでごまかした。何を盗まれたのかは、リンクの名誉のためにも伏せておきたい。
「それじゃあカーフェイは、店から出たところでサコンを捕まえるつもり?」
「いや、もうカーニバルまで時間がない。言い逃れでもされたら面倒だ。ボクはサコンを追いかけてアジトに侵入するつもりだ」
 なるほど、とゼロはうなずく。今夜だってサコンがマニ屋に直接時のオカリナを売りに来たら御の字だが、そうでなければ追いかけてアジトを突き止めるべきなのだろう。
「カーフェイが盗まれたお面はアジトにあるってことだよね?」
「ああ。この一ヶ月、サコンがお面を売りにくることはなかった。それに、サコンのアジトはアイツ本人でないと開けられないらしい」
(なら、リンクに伝えないと)
 ほぞを固めるゼロをよそに、カーフェイは友人を見上げた。首から下げていたペンダントを外しながら。
「ルミナ。これをアンジュにわたしてくれ。今話したこと、みんなにはナイショだよ」
 ほんのりあたたかいそれを、ルミナはしっかりと受け取った。このペンダントにまつわる思い出を彼女は知っていた。
「信じてるからね。無茶はしないで、ちゃんとアンジュのところに帰ってきてね」
 終始仏頂面をしていたカーフェイが、ここでようやく頬を緩めた。「任せておいてくれ」
 三人はカーフェイを残して外に出た。
 ルミナはチャットに目線を送り、うなずきあう。
「わたしたちはアンジュにペンダントを渡してくる」
「うん。オレもやることができたみたい。それじゃ、また」
 ルミナたちはナベかま亭へ、ゼロはリンクに情報を伝えるべく北門へ。それぞれの目的地へ別れようとする寸前、ルミナが声を上げた。
「ちょっと待って。ゼロ、ちゃんと寝てる? なんか調子悪そうな顔してるよ」
 いきなり話を振られたゼロは、驚いて立ち止まる。
「えっ……そうかな。余計なくらい寝てるつもりだったんだけど。分かった、気をつける」
「戦いとか面倒なのはリンクやゼロに任せてるんだから、しっかりしてよね」
 ゼロは苦笑し、改めてきびすを返した。
 チャットが疑問を呈する。
『アイツ、そんなに体調悪そうだった? 別に気にするほどじゃないわよ』
「うーん……だったらいいんだけどさ」
 だが、ルミナはどうしても気になってしまったのだ。
 彼女がゼロと知り合ったのはつい最近だ。リンクと初めてまともに会話したあの日より、さらに後のことになる。実際はその前に一度、彼をミルクバーに誘ったことがあるらしいが、時の繰り返しや月の落下に錯乱していた頃なのでルミナはあまり覚えていない。
 とにかくゼロとは短い付き合いであるが、それにしても最初の頃と今の彼とではどうにも印象が違う。細切れに会っているからこそ余計に気になってしまうのかもしれない。今のゼロは、心のゆらぎとでも言うべきものを背負っている気がしてならない。
 それはこの三日間で散々見てきた、「顔のある月」という名の現実に押しつぶされそうな人々が抱えていたものと、そっくりだった。



 二日目、夜。マニ屋が開店してからしばらく経った頃、ひょこひょこ歩きが特徴的な痩身の男が西地区にやってきた。
「……本当に後をつけるだけでいいんだな」
 物陰から様子を伺うリンクは、今にも飛び出してサコンを地面に引きずり倒しそうな気迫を発している。
「そ、そうだよ。店長さんにも穏便にって言われてるし、ね?」
 冷や汗を流すゼロを一瞥すると、リンクは肩の力を抜いた。
「なら仕方ない。俺は店の中で会話を聞いてくる。もしかしたら時のオカリナを売りに出すかもしれない」
 リンクは石コロのお面の効果のもとに、こっそり戸を開けて中に滑り込む。店の奥ではいかにも横柄な態度の店主が、サングラス越しにサコンをねめつけていた。
「……百やな」
「アシモトみてんなー、二百!」
 何かの価格についてやりとりしている。カウンターに載せられた品は時のオカリナではなさそうだった。
「なんや、まだ下げて欲しいんか!」
 不意に店主が声を張り上げ、ビリビリと空気を震わせた。
「またどっかで盗んできたもんやろ。もし客が来たらチクるど!」
「わかった、それで手をうつよ。でも、おっちゃんも同罪だね」
 明らかにサコンは気圧された雰囲気である。全く、こんな男にどうして出し抜かれたのか、とリンクは改めて己のミスにうんざりした。
「アホぬかせ! 故買は善意の第三者や。ワシはなんも知らんのや。流れてきたから買う! こまっとるお人を助ける慈善事業や、ボケ」
「わ、わかったよ。じゃあ、お会計――」
「ほな、五十。たしかに渡したで」ぽんとカウンターにルピーが放られる。
「えっ? 今、百って」
「まだ、下げてほしいんか……」
 一段と声に凄みが出る。直接相対しているわけではないリンクすら、わずかにたじろいだ。
「けっ、ケッコウです!」
 サコンは慌てて身を翻した。あの店主の交渉術は余人には真似できないだろう。
 カウンターに残されたのは黒っぽいお面だった。もしやゼロの記憶の手がかりか、と気を取られかけたが、ここでサコンを逃がすわけにはいかない。
 リンクは壁の向こうにいるであろうカーフェイに一瞬だけ視線を送ると、店を出た。待っていたゼロと合流する。見るからに消沈した様子のサコンは、のろのろと西地区の階段を上っていくところだった。
「時のオカリナじゃなかった」
「そっか」
 と二人並んで歩きかけて、リンクは足を止める。
「お前は来なくていい」
「えっ……」
 ゼロは立ちすくんでまばたきする。
「オカリナを盗まれたのは……俺の失態だ。だから俺が取り戻す。お前は、自分の記憶を優先しろ。ちょうど今、売りに出されたのも何かのお面だったぞ」
 どうしても歯切れが悪くなってしまう。リンクは自分でも思った以上に責任を感じていた。ゼロはうなずいた。
「分かった。あの、多分どこかでカーフェイと鉢合わせると思うけど……よろしくね」
 リンクは黙って片手を振り上げた。そして身軽なデクナッツに変身し、サコンを追いかけていく。
 焦りや使命感のようなものが彼の胸に燃え盛り、視界を狭めていた。深夜であるという物理的な条件も重なっていた。
 だから、リンクはゼロの顔色の悪さを見咎めず、背後で石段の上にくずおれる姿についぞ気がつくことはなかった。



 水面に光の球が浮かんでいる。妖精珠たちが列をなして並び、五本の線といくつかの音符を描く。それは魔法によって描かれた、実に豪華ないやしの歌の譜面であった。町の大妖精――アリスはそれを眺め、沈思黙考している。
 不意に、泉が揺れた。水面に青や緑、色とりどりの魔法の光が宿る。そして彼女の耳に懐かしい声が響いた。
『やあ、やっとぼくらの妹が帰ってきたね』
 谷の大妖精の声がして、末妹のアリスは光に向かって頭を下げた。
『すみませんお姉さま。お待たせしました』
『いいのですよ。あなたが一番、働いてくれましたから』泉に映し出された長女・海の大妖精が微笑み、
『鬼神さんと一緒に、ですね』山の大妖精がさらりと付け加える。
 苦しげにアリスの唇が歪む。彼女はずっと胸に秘めていた疑問を口にした。
『ゼロさんにすべての力と記憶が戻った時、あの方は……どうなるのでしょうか』
 沼の大妖精が水面の向こうで腕組みをする。
『ムジュラの仮面に対する最大の対抗手段にはなると思うワ。ただ、今の人格のままだとあの鬼神の力を制御するのは難しいわネ』
『……そう、ですよね』
 莫大な力の扱いに耐えうるだけの人格。鬼神が生来獲得していたそれが、今のゼロにはない。ただ力だけ得てしまえば、彼は破滅を迎えるだろう。
 魔力に恵まれつつも優しすぎる末妹を勇気づけるように、海の大妖精が言った。
『それでも、その瞬間が来るまではどうなるかなんて分からないでしょう。最後に「どちらか」を選ぶのはゼロ自身なのですから』



 夜風に薄い色の金髪が揺れていた。さながら豊かに実る麦の穂のようで、ゼロは――鬼神は目を細める。
 お面を手に入れたわけでもないのに白昼夢が襲ってきた。彼が得た力と情報は徐々にコントロールを外れてきている。だが、今回のそれは彼が待ち望んだ記憶だった。
 ムジュラという呪いの名を持つ少女は振り向き、うっすら笑った。
「鬼神さん……こんばんは」
 そこからはイカーナの国を一望できた。城を挟んでロックビルとは反対方向にある、なだらかな丘だ。
 王国は現在のイカーナ村と同じ場所とは思えないほど緑であふれていた。整備された水路を湧水が満たし、畑に果樹や作物が実っている。空気にすら生命の気配に満ちたかぐわしい香りが含まれているようだ。
 この記憶は、おそらく彼女が裏切る前だろう。ムジュラは一見落ち着いた顔をしていたが、ゼロは不穏な気配を感じた。まばたきや呼吸などひとつひとつの細かな動作が、どことなく、追い詰められている者特有の信号を発しているのだ。まるで前回の三日間でイカーナに来た時のゼロ自身を思い起こさせるような。
 二人はしばらく何も言わずに王国を見つめていた。
「そういえば、鬼神さんはあの大妖精とは知り合いなんですか」
 知り合いではない。ただ、ふるさとが同じだけだ――というようなことを鬼神は答える。
(大妖精って、ついこの間の夢の人か。結構親しい感じだったけど知り合いじゃないのかなあ)
 ほとんど声しか分からなかったが、ゼロの知るどの大妖精でもない人物だった。町の大妖精にでも尋ねたら何か分かるだろうか――と頭に留めておく。
「そっか、ふるさとが一緒で。私の、故郷は……」
 ムジュラはきゅっと唇を結び、それ以上何も語らなかったけれど、鬼神は――少なくともゼロは悟った。おそらく彼女の故郷はイカーナよりもずっと貧しいのだと。だからムジュラは眠りに落ちた王国に、うらやむような、慈しむような目線を向けていたのだ。
『このような夜遅くに、お二方がそろっているとはのう』
 上から降る声とばさばさという羽音を聞く前から、鬼神は空を見上げていた。ゼロは心がざわめくのを感じる。
 ムジュラは口の端を釣り上げ、
「こんばんは大翼さん。また何か予言でもしてくれるの」
 大翼のフクロウだった。目をすがめ、空から神の名を冠する二人を見下ろしている。
『そうじゃな。では予言ですらないが、一つだけ告げておこう。月と太陽は同じ空には昇らぬ』
 それを聞いた瞬間、少女はさっと青ざめた。穏やかだった顔からはみるみる血の気が引き、ほとんど絶望の感情に彩られていった。
 一体どうしたんだ、と心配そうに尋ねる鬼神から顔を背け、ムジュラは無理に平坦な声を出した。
「なんでも……ありません。ついに明日から戦いなんですよね。早く寝ないと。おやすみなさい」
 彼女は鬼神と同じくイカーナに協力する立場でありながら、国を裏切ったのだという。ならばおそらく、明くる日ではなくその夜に、ガロたちを指揮して王国を攻めたのではないだろうか。理由は不明だが、先ほどのフクロウの発言はそのトリガーとなったのだ。
 少女の背中が遠ざかるのと同時に、白昼夢が薄れていく。その刹那、ゼロは唐突に悟った。彼女――死神であり、ムジュラという呪われた名を持つ少女は、鬼神に思いを寄せていたのではないか、と。
 その気持ちがなんであれ、少なくとも彼女がイカーナに反旗を翻した裏には、何か理由があったに違いない。繁栄する王国を見つめる優しいまなざし、故郷に思いを馳せる時の憂いの表情は、呪いの仮面となる前の彼女には人並みの心が備わっていたことを示していた。
 ――彼女に会って、話をしなければならない。それができるのはタルミナでただ一人、ゼロだけなのだ。


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