「真琴、お前熱があるだろ」
「へ?」

授業が終わり部活に向かおうと準備をしていた真琴は、先に準備を終え自分の席にやってきた遙に対して浮かべた笑みはそのままに、少しだけ意外そうにジッとその顔を見つめた。

「熱なんてないよ、全然。ほら、部活行こ」
「…真琴」
「ん?どうしたの、ハル?」

いつもと変わらぬ笑顔でそう言って手早く荷物をまとめ、教室を出ようとした真琴の腕を遙が掴む。
引き止められ振り返った真琴は、その先にあった常と変らぬ無表情から、遙が何かに対して怒っているようであると察した。しかし、その原因まではわからず、自分を見据える遙の考えを探るように青い瞳を見つめ返す。

「お前、人にはあれだけ言っておいて、自分は誤魔化すつもりか」
「何のこと?」
「前に俺が風邪を引いている時にプールに入ろうとしたのを止めただろ。おまけに説教までしたくせに、熱がある状態で部活に行くというのはどういう了見だと言っている」
「だから、熱なんてないって」
「…体温がいつもより高い」

遙がこんなに喋るなんて珍しいな、なんてことを思いながら、それでも否定する真琴に、遙は掴んだままだった腕に視線を落としてそう溢す。
そして、スッと素早く距離を詰めると、空いている方の手で真琴の後頭部を鷲掴み、ごつんと音がしそうなほどの勢いでおでこ同士をくっつけた。
至近距離に迫った遙の顔に、不意を突かれた心臓がドキリと跳ねる。
今この瞬間、また少し体温が上がったのではないかと思う。
真琴の気など知らず、体を離した遙の瞳が勝ち誇ったように揺れた。

「これ以上何か弁明があるなら聞いてやる」
「…すみませんでした」
「わかればいい」
「でも、ハルちゃん…」
「ちゃん付けで呼ぶな。今日は部活は休みだ」

お前の考えなどお見通しだとばかりに遙がぴしゃりと断言する。
そして、問答無用でこれ以上は何も聞かないと腕を引いて歩き出した遙に、それでもまだうだうだと何やら言いたげだった真琴は慌てて口を開く。

「待ってハル!渚達に連絡しないと!」
「後で俺がしておく」
「いやいや、早く言っておかないとあっちにも都合があるだろうから」
「……」

無言で足を止めた遙は、押し黙ったまま進行方向を変えて再び歩き出した。
腕を引く遙と引かれる真琴の姿に、廊下を行き交う生徒達がちらほらと視線を向けるが、二人はまったく気にならないらしい。
行き先の見当は付きつつも一応確認した真琴に、直接いった方が早いだろうと遙が返す。
携帯を携帯しないことで知られる遙にとっては、それが当然のようだった。

一年生の教室が並ぶ階にやってくると、ネクタイの色で上級生とわかる二人にここでもまた注目が集まるが、やはり二人が気にかける様子はない。
周りに関心のない遙は本当に気付いておらず、真琴は薄々気付きつつも敢えて気にしたりはしない。
長年遙といると、そんなものはもはや慣れたものだった。

教室を確認すると、幸いまだ残っていた渚の姿を発見する。
一年の教室など滅多に訪れることのない二人の来訪に驚いたように駆け寄ってきた渚に、遙が軽く用件を伝えた。

「まこちゃん、大丈夫?」
「うん。熱っていってもそんなに高いわけじゃないし。大事をとって今日は休ませてもらうね」
「わかった。ゆっくり休んで、早く元気になってね」
「ありがとう、渚」

怜ちゃんには僕から伝えておくから、と言う渚に後のことは任せ、二人して下駄箱に向かいながら、ふとあることに気付いた真琴が隣を歩く遙に視線を向ける。

「ハル、俺は一人で帰れるから、部活行ってきなよ」

腕は解放されたが、当然のように一緒に帰ろうとしている遙に、なにも遙までもが部活を休む必要はないのだと告げると、額に衝撃が走る。
まさかのデコピン攻撃に面食らう。仮にも病人になんて仕打ちだとは思いつつも、最初の内知らぬ存ぜぬで通そうとしていた手前何も言えず、真琴はジンジンと痛むおでこを擦った。

「帰るのは、俺の家だ」
「え?何で?」
「お前の家だと、なにかと大変だろ。万が一、蓮や蘭にうつしたりしたらお前も嫌だろ」
「そっか…ありがと、ハル」
「別に」

好意に素直に甘えることにして、なんだかんだ自分のことを考えてくれている遙を抱きしめたい衝動を懸命に堪えた。
ここはまだ学校で、他に生徒がいるのだからと自分を律し、照れ隠しからか素っ気無く返事をして自分の靴箱に向かう遙の後を追う。

帰り道、人通りがなくなる頃を見計らって、真琴は隣を歩く遙の手を握った。
ちらりと視線だけを寄越した遙は、すぐに顔を背けて「熱いな」とぽそり溢した。
それでも、ギュッと握り返された手に、自分の顔の筋肉が思いきり緩むのがわかった。

家に着くなり布団を敷いて真琴に横になれと命じ、自分は何やら台所を漁り始めた遙が戻ってきた時に手にしていたのは、薬局などでよく目にするパッケージの風邪薬だった。
薬と水を差しだされ、おとなしく受け取ると、粉状のそれを一思いに流し込む。
幾つになっても慣れない苦みに眉を顰める真琴の手からまだ少し水の入ったコップを掻っ攫った遙は、それを床に置き、両手で真琴の肩を掴んだ。
何事かと思う間もなく、布団の上に胡坐をかいていた真琴の視界がぐるりと回る。

「いたっ」

布団の上だったため若干緩和されてはいたものの、予想していなかった衝撃に声を上げる。
痛みに眇めた視界には遙の顔があって、押し倒されたような状況に心臓が不規則に脈打った。
硬直する真琴の肩を押さえる遙の手に力がこもり、凪いだ海のような蒼が間近に迫る。
真琴が何か反応を示す前に唇に温もりが触れた。
僅かの間閉ざされた蒼が再び真琴を捉える。
チュッと離れたその音が耳にこそばゆく、顔を真っ赤に染める真琴を余所に、平然とした表情の遙は体を起こして布団の横に座り直した。

「さっさと寝ろ」
「は、ハル、今のは……ハッ!っていうか、そんなことしてうつったらどうするんだよ!」
「お前な…」

動揺を見せつつも、まるでオカンのようなことを言う真琴を、遙は呆れたような顔で見やる。

「うつったらその時はお前に看病してもらうから構わない」
「ハル…」
「夕飯は、鯖のお粥にしてやる。ぐっすり寝てそれを食べればすぐに元気になる」
「鯖の…お粥?」
「あぁ。美味いし栄養もある」
「…ありがとう」

聞いたこともない料理名から、どんなものか想像するのは敢えてやめておく。
気遣いが嬉しくて素直に感謝の気持ちを伝えれば、さっさと寝てしまえ、と今度はやや乱暴に布団をかぶせられる。

「おやすみ、ハル」
「おやすみ、真琴」

不器用な遙らしい行動に、真琴は笑みを浮かべる。
目を閉じると意識していなかった体のだるさや眠気が一気にやってきて、程なく深い眠りにおちた。

目を覚まし、だるさが眠る前よりも軽減されていることにホッとした真琴は、耳に届く聞き馴染んだ複数の声に誘われるように部屋の襖を開けた。

「あ、まこちゃんおはよー」
「お邪魔してます」

くるりと大きな目をこちらに向けた渚と、礼儀正しくお辞儀をした怜が、笑顔で真琴を迎える。
向かいに座る遙は、様子を窺うようにジッと真琴を見上げた。

「具合はどうだ」
「だいぶ楽になったよ。それより…」

と、一旦言葉を切った真琴は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていながら、どこか迫力があった。
わいわいと真琴の心配をしていた渚と、病人の前だからもう少し静かにとそれを嗜めていた怜も、その笑顔を目にした途端、思わず静止する。

「ハル、熱あるでしょ」
「えぇ?ハルちゃん、そうなの?」
「そうだったんですか、遙先輩?」
「何のことだ」

真琴の一言で、真ん丸に見開かれた四つの瞳が遙に向けられる。
特に動じることなく相変わらずの無表情で意味がわからないと首を傾げる遙を改めて観察してみたところで、熱があるかどうかの判断などつきようがない。
ただし、真琴は例外である。

「ほらー、やっぱりうつっちゃったんじゃないか。あんなことするから…」
「そんなにすぐに症状が出るわけないだろ。あれは関係ない」

言わんこっちゃないとその時のことを思い出し薄っすら頬を染める真琴と、不満顔で反抗する遙を、事情を知らない一年生コンビが交互に見やる。
そして、「あんなことってなんだろうね」とにやにやしながら渚が嘯き、怜は「何のことでしょうか」と本気でわからずに首を傾げる。
そのやりとりを受けて余計に顔を赤くする真琴を尻目に、遙は子供のようにべーっと舌を出した。
それを見ていたのはどうやら真琴だけだったらしく、遙を見つめたまま固まってしまった真琴に、渚と怜は不思議そうにして顔を見合わせた。
普段そういうことをしないキャラ故の破壊力といったらない。
もしかしたら遙は熱のせいで少し精神が幼くなっているのかもしれない。
それに対し、よからぬ想像を思い描いてしまった真琴は、それもまた熱のせいだと誰にともなく言い訳をした。

「ハル」
「何だ」

憮然とした態度を崩さない遙に何を言っても無駄だろうことは明白だ。
真琴は深々と溜め息を吐き出した。

「はぁ…どうせハルのことだから、誤魔化してるんじゃなくて本当に自覚してなかったんだろうし…」

俺も自分のことがあってすぐに気付けなかったし、と面目なさそうに真琴が項垂れる。
しゅんとするその姿が主人に叱られた犬のようで、それまで強気に出ていた遙は、うっと言葉を詰まらせる。
真琴は遙に弱いが、それは所詮遙も同じことなのだ。

「ていうか、いくら仲がいいっていっても、そんなところまで通じ合わなくてもいいのにねぇ」
「な、渚!」
「?」

二人のやりとりを傍観していた渚が、呆れたようでありつつも明るい声でそう言って肩を竦めてみせる。真琴は途端に顔を赤くして渚を嗜め、遙と怜は意味がわからずに揃って首を傾げた。

「も…また熱が上がった気がする」
「それは大変です!すぐに休んでください」
「怜ちゃん…」
「怜…ありがとな」

無自覚な遙と故意的な渚に振り回され、本当に熱が上がったような気のする真琴が頭に手を当てそう溢すと、それを聞いた怜が本気で心配そうな顔をするものだから、なんだか申し訳ないような気持ちになる。
渚から心底貴重なものをみるような目を向けられ、その意味がわからず怜は頭に疑問符を浮かべた。

「まぁ、病人相手ならここまでだね。本当に悪化したら困るし」
「渚…」
「僕は何もまこちゃんを揄いに来たわけじゃないからね」
「当たり前です。僕達は真琴先輩のお見舞いに来たんですよ」

悪化させてどうするんですか、と怜が正論を述べるのに、まさか見舞う相手が増えるとは思わなかったけどね、と詫びいれず渚が遙を一瞥する。
しかし、当の本人は全く意に介した様子はなく、寧ろ自分もだというような堂々たる態度である。

「真琴、体調が悪いのなら早く休め」
「ハールー…それはハルもだろ」
「俺は別に問題ない」
「あのなーハル…」
「ちょっとちょっと!そんなことで言い争いしないの!二人とも休まなきゃダメだよ」
「そうですよ!本当に悪化したらどうするんですか!」

よくわからない意地を張る遙の巻き添えを食らい、揃って後輩に叱られてしまう。
先輩として情けないという思いからごめんと謝罪する真琴に続き、頑なだった遙も、心配をかけているという自覚が湧いたのか、小さな声で悪かったと溢した。

「先輩たちがいないと、味気ないですから。早く元気になってくださいね」
「そこは素直に寂しい、でいいんじゃないかな?」
「渚くん!」

自分達を取り巻く優しい空気に、自然と笑みが溢れる。
こんなにも想ってくれる相手がいて幸せ者だと、心がほわりと温かくなった。

「それじゃあ、僕たちはおいとまするね」
「先輩方、また学校で」
「あぁ、わざわざ見舞いに来てくれてありがとう」
「気をつけて」
「うん!二人ともお大事にー」
「失礼します」

玄関先で見送りをすませ、家の中に引き返しながら、食欲はあるかと問われた真琴が首を横に振ると、遙はそうかと言ったきり黙り込む。
何か気に障るようなことでも言ってしまっただろうかと思案している間にも、遙は家の中を進んでいく。
その方向にあるのは、真琴がさっきまで寝ていた部屋だ。

「ハル、まさか一緒に寝るつもりじゃないよね?」
「?渚がそう言ってただろ」

記憶を呼び起こしてみるも、二人とも休めと言っていただけで、一緒の布団で寝ろという意味ではなかったはずだが、遙はどうもそう捉えたらしい。
不思議そうに真琴の方を振り返った遙の顔がほんのり朱に染まっていて、あぁ、そういうことかと納得する。
一瞬違うことを考えてしまったが、遙の熱はどうも結構高いらしい。
いつもの無表情でありながらどこかぼんやりとした遙の脳機能はほとんど稼働されていないようだった。
そう、全て熱のせいなのである。

「真琴、さっさとしろ」
「え…ハル…」

若干怪しい足取りで歩き出した遙に動揺を隠せない真琴は、どうしたものかと逡巡しつつも、再び遙から名を呼ばれ躊躇いながらもそちらに向かう。
部屋に入ると、既に布団に横になっていた遙が真琴を促すようにぽんぽんと自分の隣を叩く。
今日の遙はどうも危ない。きっと絶対自覚のない…というか何も考えていないのだろう遙の言動に、真琴は自分の理性を引き締め直して渋々布団の隅に腰を下ろす。
途端、ぐいっと体を支えていた腕を掴まれて視界が回る。
あ、デジャヴ。と思った時にはこれまた頭に軽い衝撃が伝わった。
二度目ともなるとさすがに抗議しようと口を開いた真琴の腰に何かが触れる。
恐る恐る視線を下げると、腰に遙の腕ががっちりと回っていて、おまけに隙間を埋めようとでもするように身を寄せてくる始末だ。

「ハル…?」

もう少し離れてはくれないかとぐらぐら揺れる理性を抑えつつ遙の顔を窺い見ると、あるはずの蒼い瞳は完全に閉ざされており、返事の代わりに健やかな寝息が返ってきた。

すっかり安心しきっているらしい遙は、もしかしたら無意識にひと肌を求めていたのかもしれない。体が弱っているとひと肌が恋しくなるとはよく言ったものだと思う。
そしてそれは真琴も同じだったのか、邪な気持ちはたちまち消え失せ、その温度に安心感を覚える。
ほんのり赤みを帯びる遙の頬をそっと撫でるが、互いに熱があるのでどの程度熱いのかはいまいちわからない。
そのまま手を滑らせ、髪を梳くようにして優しく遙の頭を撫でる。
もぞもぞ身動ぎ、ぴたりと寄り添ってくる遙の体を抱きしめ返すようにして、真琴も深く穏やかな眠りについた。

翌朝、真琴が目を覚ますとそこに遙の姿はなく、食卓に鯖のお粥なるものが並んでいたのはいうまでもない。



(どうかいつまでも優しくありますように)



***

話は変わって昨日の夕刻、真琴が目覚めるまでの話。
真琴の見舞いにと遙の家を訪れた渚と怜を居間に通し、お構いなくという二人にお茶を出してやって三人で一つの机を囲むように腰を下ろしてからのこと。
真琴を案じる二人に心配はないと告げ、安心したように笑った渚が遙を見て言った。

「ハルちゃん、よくマコちゃんが熱あるってわかったね」

パッと見じゃわからなかったよ、と渚はキラキラとした眼差しを遙に向けた。

「そうやってお互い言葉にしなくてもわかり合えるって憧れるなー。ね、怜ちゃん」
「そうですね」

同意を求めるように渚に見上げられた怜は、心の底から共感したように頷く。
普段から笑顔を絶やさない真琴は、その笑顔の下に自分の感情を隠してしまうことがある。
にこにことした人間が裏で何を思っているかなど、敢えて考えようとするものは少ない。
対して、感情が表に出にくい遙のような人間は、何を考えているのだろうかと周りが察してくれようとする傾向がある。
中でも真琴は遙が何も言わずとも気持ちを汲み取ってくれる。
だからこそ、真琴のことは自分が見ていてやらなければと遙は密かに考えていた。
真琴にさえ言ったことのないそんな思いを、自分達のことをそんな風に言ってくれる二人の存在が、なんだかくすぐったいように思えたのだった。










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