昼時を少しばかり逃した食堂は、活気も過ぎて珍しくがらんどうとしていた。
昨晩遅くまで本に潜っていたため、何の予定もない今日は悠々自適と昼過ぎに目を覚ました。
誰に咎められることもないまま遅めの昼食をとりに食堂にやってきた際、入れ違いに出てきた織田作之助が花見の誘いをくれたが、参加の有無より先に上げられた面子を聞いて遠慮した。なによりその腕に抱えられた酒瓶から、桜を愛でるよりも酒宴が主になっていることは容易に想像がついた。
面子を明かせばそうなることはあちらもわかっていたのだろう。あっさりと引いた織田が三つ編みを揺らし小走りに去るのをぼんやりと見送って、開いた扉の先に誰の姿もないことへの疑問はこれといってなかった。
いつもならばまだ食事を終えても団欒している者が多少はいる時間だが、なにせこの陽気だ。せっせと潜書に勤しんでいる働き者もいるのだろうが、散歩に花見にと外へ出ている者も少なくないのだろう。
小言をくれる者も異様な視線を送ってくる者もいない今、それほどいそいそと箸を進める必要もない。いつもの献立とは違い花見組に合わせて用意された色鮮やかな弁当を、春の陽気にあてられたようにのんびりと頂く。
桜の形に切り抜かれた人参を口に運びながら、去り際に気を利かせた織田が花見の開かれている場所とそこ以外にも花見のできる場所があると教えてくれたことを思い出す。
桜か。志賀さんと見られればいいけれど、あの人の今日の予定はどうだっただろう。潜書か、もう他の誰かと花見に行ってしまっただろうか。
確認しておけばよかったな、とすぐに予定の入ってしまう人気者の彼のことを思いながらもそもそと箸を進めていると、バンッと勢いよく扉の開く音がした。
噂をすれば、というのもおかしな話だが。キラキラと眩い白に身を包んだかの人が一直線に芥川の元へとやってきて、何も言わないままに隣の席に腰を下ろした。
あまりのタイミングの良さに現実味を失って、ここにいる彼が本物なのか確認するように、食い入るように見つめてしまう。
彼はもう食事を終えたあとなのだろうか。真っ直ぐと自身の元へやってきたのだから当然そうなのだろうことを考えて斜め方向に思考を彷徨わせていると、隣で肘をついた志賀の視線が芥川の手元へと落ちる。未だ半分ほどしか減っていないそれに、志賀の整った眉がぐっと中央に寄せられる。
いつもにこにこしている分、こうして少し眉間に皺が寄るだけで迫力があって、自身などはそれだけでも動じてしまう。
「おい、何ちんたらやってんだよ」
「はい?」
「あー、もう、ほらちょっとそれ貸せ」
「え、……」
もしや彼は機嫌が悪いのだろうか。そういえば、入ってきた時の様子も少しおかしかったかもしれない。自身が、何か彼の機嫌を損ねる行いをしてしまったのだろうか。
要領を得ない志賀の言葉に惑う内、訳のわからないまま持っていた箸がさらわれる。
彼の考えなど自身には到底理解できるはずもない。端からそう諦めてしまいながら、唯一彼が何かに対して苛立っているようだということだけが紛れもない事実だ。
不用意な発言は避けた方が賢明だろうか。思案する芥川の前で、細長い指に挟まれた二本のそれが手元の弁当箱へと伸びた。
まさか、自分の分だけでは足りなかったのだろうか。
若く健康な体はどれだけ食べても食べ足りない、と誰かが零していたのを思い出す。ただ単に空腹故に機嫌が悪かっただけなのかもしれない。
どうやら自身のせいではなかったようだと安堵したのもつかの間。
これは、このままでは、自身が口付けた箸で彼が食事をすることになってしまう。それはつまり――…。
あぁ、はやく止めなければ。それなのに、思考が駆け巡る速さに対して行動は一向についてこない。
「おい、龍」
「はいっ」
慌ただしく駆けていた思考を急停止させた勢いで、思ってもみない声が出てしまう。
微妙に上擦ったそれには何の反応もないままに、彼の華麗な箸使いで一口大に盛り付けられた食材が目の前に差し出される。
ぱち、ぱち。てっきり彼の口に運ばれると思っていたそれが自身の前にある理由がわからず、目を瞬かせる。
「ぼーっとしてんな。口開けろよ」
「……あ、の」
「ほれ、あーん」
「あー…ん?」
頭がついてこないまま間抜けにも彼の言葉をそっくり繰り返す。口が開いたその隙をつくように、箸が口内に侵入を果たす。
「んっ、しが、ふぁ…っ」
「よく噛んで、飲みこむ。よし、次」
「ちょ、待ってくださっんん」
口内を満たしているものが何であるか。目で見て確認しているはずなのに、味がしない。
まるで子供にするように。志賀にものを食べさせてもらっているという状況の処理が追いつかず、いよいよ混乱が極まる。
それでも彼の手はゆるむことなく次々に食材を運び、拒むことなどできるはずもない芥川はぐるぐると渦巻いていた思考をいっそ放棄してされるがままになっていた。
それはとても食事と呼べるものではなく、ある種の戦いであった。
一戦終えたあとのような精神状態で、漸く自らの手で水を飲むことがかない人心地がつける。人の目がなかったことがせめてもの救いだろうか。
「よし、行くぞ」
てっきりこれで説明をもらえるものと思っていたのに。それもないままに志賀が席を立つ。
片手で空になった弁当箱を持ち、もう片方の手には芥川の手をとって。
「志賀さん!」
それくらい自分で持ちますと言ったものの聞き入れてはもらえず、弁当箱を返却して廊下に出ても未だ何も言わない彼に痺れを切らして声をかける。
無視することなく足を止めてくれた彼にホッとしたものの、振り返った彼はどうしたことか不思議そうな顔をしていた。
「先ほどからその、状況がのみこめないのですが…いったいどういうことですか?」
「どういうことか?そいつはこっちの科白だ」
芥川としては当然の疑問を口にしたつもりだが、志賀はまたも眉間に皺を刻んで低い声で言い放った。
やはり彼が食堂に入ってきた当初感じたことは間違いではなかったということか。腹が減っていたわけでないことは証明されているのだから、自ずとそういうことになる。
余計なことを言ってしまった。大人しく彼に従っていれば、こうしてまた彼のこんな表情を見ることはなかったのだろうか。
強く握られていた手が解放されて、胸に湧いたのは安堵ではなく寂寥だった。
「お前、今日の午後は潜書の予定も何もなかったよな?」
「はい」
「いつも一緒にいる奴らは潜書やら何やらでいない。俺もお前も、特に予定は入ってない」
「……」
おや?これはどうしたことだろう。
自身が失態を侵したことは事実だろう。それでも、彼が言わんとしていることは予想とは違っているようだ。何か嬉しいことを言ってくれているような気がして、図々しくも言葉の先を期待してしまう。
察しがついていながらも直接の言葉が欲しくて黙ったままでいる自身はずるい男かもしれないが、ここまで散々振り回されたのだから、これくらいは大目にみてもらえないだろうか。
目の前の神様へではなく申し開きをして、続く言葉に耳を澄ませる。
「だから、当然お前は俺と…って思うだろ。なのに、なかなか食堂から出てこねえし…」
「待ってて、くださったんですか」
「…そうだよ。お前が来たら何をしようか、どこへ行こうかって考えながら待ってたんだよ、俺は」
自惚れていたか。そう思っていたのは自分だけだったのか。
そんな言葉が続きそうな気配に、咄嗟に彼の口元に人差し指を宛がう。
口付けをする。抱き締める。他の方法もちらりと頭を掠めたが、実行にまで移せない自身はどうあってもずるくて臆病だ。
志賀も芥川がそんな行動にでるとは予想していなかったのか、目を真ん丸にして固まっている。珍しいその表情には幼さが垣間見えて、いつも格好いい彼が可愛らしく映った。
「すみません、そこまで気が回る男でなくて。貴方がそんな風に考えてくださっていたこと、とても嬉しく思います」
言い訳にしかならないかもしれませんが、僕も食事を終えたら貴方を訪ねようと思っていたんですよ。
真実とは少し違うけれど、嘘というわけでもない言葉で今度はこちらの神様に許しを請う。
だって仕方ないだろう。あの神様が、こちらの予定を把握してくれていたことがまず驚きで。何もない日を自身と過ごすことを当然だと考えてくれていることが身に余る光栄で。
他の誰かといるのだと思っていたなどとは口が裂けても言えやしない。今後彼を煩わせることがないように、次からは彼の予定をきちんと聞いておこうと心に留める。
「お待たせしてしまってすみませんでした」
申し訳なさよりもやはり嬉しさが勝ってしまう気持ちを嗜めながら、宙を彷徨わせた手を引こうとした矢先。
がぶり、と。野生的な俊敏さで彼の唇に触れていた人差し指に噛み付かれ、並びの良い彼の歯が肌に食い込む感触がする。
突飛な行動に呆気にとられている芥川の前で、したり顔をした彼が笑う。
「待たせすぎなんだよ」
今回はこれで許してやるか、という彼の表情は晴れやかで、負の感情など欠片もありはしない。
お茶目で寛容な神様に、ずっと心を奪われる。
「もう貴方を待たせはしないと、誓います」
小指を絡めたわけではないけれど。ずっと身に刻まれるように。
薄く彼の噛みあとの残る部分にそっと唇を押し当てる。
虚を突かれたように目を瞠って、ほんのりと頬を赤くした彼はやがて「大袈裟だな」なんて言いながらも満足そうに笑んだ。
春の日差しのように鮮やかであたたかなその笑みに魅せられる。自身の春が、そこに或る。
「ったく、変に時間食っちまったな。行くぞ、龍」
「はい」
弾む心を仕舞うことなく声にのせて、得も言われぬ幸せに酔いながら。どこに行くとも問わぬまま、日の光の元を行く彼の背を追って地を蹴った。





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