朧げな意識の中、視界に映るのは見知らぬ部屋だった。造りは芥川の部屋とそう変わりはないものの、一部をみただけでもここが自室でないとわかる。物が多いわけでもないのに寂しさを感じさせない不思議な空気感のある部屋だ。
室内に置かれた一人で眠るには大きな寝台の上。横になった芥川の目に映る情報からそう判断しただけで、より多くの情報を求めて体を反転させた先。
無防備だった心にいきなり飛び込んできた存在に、危うく機能を止めてしまいそうなほどの衝撃が芥川を襲う。
傍らに沈む彼の瞼は閉ざされ、薄く開いた唇からは健やかな寝息が漏れている。
身を翻してこの近距離なのだから、志賀が芥川の背に寄り添うようにして眠っていたことは想像に難くない。
未だ心音は喧しく芥川の内を叩いているが、どうしてこのような状況にあるのかと考えるよりも先に体が動いた。
そっと壊れ物でも扱うように触れた志賀の頬は若々しい張りがあり艶やかで、触れ合った先から体温がじわりと自身を侵食するようだった。
そこからどうするかなどはまったく頭になかった芥川は、ただひたすらに滅多と拝めない志賀の寝顔を見つめていた。
熱い視線に堪えかねたのか、頬に影を落としていた長い睫毛がふるりと震え、触れた手に筋肉の動きが伝わる。ぱちりと音がしそうなほどに大きく開かれた瞳が芥川を捉える。
「…っと、寝ちまってた。悪かったな、……龍?」
いつになく真っ直ぐと向けられる瞳と頬に触れる手に気付いた志賀が、ぱちぱちと目を瞬かせて不思議そうな顔で芥川の名を口にした。
どうしたと問う変わりに芥川の手に志賀の手が添えられて、身じろげば触れてしまえそうな距離にある唇が、今一度芥川の名を紡いだ。春風のようなあたたかく柔らかな声が、さも親しい間柄であるかのように耳を擽る。
「志賀さん、下の名でお呼びしてもいいですか?」
薄々そうではないかと感じていたが、これは夢だ。
そうでなければ、こんな事態は起こり得ない。推測するに今芥川のいるこの部屋は、自身のような人間が立ち入ることを許されない彼のもの。ましてや共に眠るなどあってはならない。
曖昧ながらに残る記憶から導くに、これは補修室で眠る芥川がみている夢なのだろう。
夢とわかる夢。いわゆる明晰夢。どこまでもあさましい自身の願望が成した夢。
本来なら夢であろうと望んではならないことが、夢だからこそ溢れてしまう。
理性を置き去ってしまったように口から滑り出た懇願に、考える素振りもなく了承が返される。それもまた当たり前であるかのように。
「、直哉さん…」
夢の中ではすべてが芥川の思い通り。そのはずなのに、緊張に強張る喉を震わせ初めて紡いだその響きは、不格好なほど上擦ったものになってしまった。
せっかくの彼の名が、これでは台無しだ。
頭の隅に浮かぶ彼を同じように呼ぶ青年の姿を振り払うように、もう一度。少しましになってきている気がして更に何度も繰り返し名を呼んだ。
志賀は困ったように眉を寄せて、その度に「ん?」「どうした?」と短い返事をくれた。
重なった手が次第に手首を撫でるように下ろされる。
擽ったがるように甘い苦笑を浮かべる志賀の姿に、これが夢であるという感覚が強くなる。
「直哉さん、僕を…抱いてくださいませんか」
ぴくりと志賀の肩が跳ねたのをみて、自身が口走ったことの愚かさを遅ればせながら理解する。
自身の口から出た言葉が信じられず訂正しようとした矢先、「しょうがねえなあ」と聞き馴染んだ言葉がそれを阻んだ。
頬にあった手はいつの間にやら祈りを捧げるように自身の胸元にあって、ただでさえ近かった志賀の体が距離感を失ったように迫る。あっという間に志賀の胸に顔を埋める格好で抱き締められた。
頭を抱えるように腕を回されて身動きがとれない、というのはただの言い訳にすぎない。
「龍は甘えん坊だな」
「直哉さんは、夢の中でもお変わりないですね」
「……そうか」
抱く、ということの意味を素で抱き締める方に捉えるところなど、まさに志賀らしい。
自身の夢だというのに変なところで本人に忠実で思うようにいってくれないが、これはこれでいいか、とも思う。寧ろ、自身が望んでいたのは正しくこういうことだったのかもしれない。こうしていると、まるで彼と一つに溶けあえるような錯覚が起こる。
子をあやすように芥川の髪を撫でる手は優しく、人肌の温もりと穏やかな鼓動に包まれていると、だんだんと瞼が重くなってくる。
このまま目を閉じてしまえば、きっとあちらの自身が目を覚ますのだろう。
「眠いのか?」
「はい、少し。夢の中だというのにおかしいですね」
「…そういうもんじゃねえか、夢なんて。今は大人しく寝ちまえよ」
目を覚ました時、この夢の内容を忘れてしまっているのとそうでないのでは、どちらが自身にとって良いことなのか。答えは出ないままに、意識は吸い込まれるように奥の方へと沈んでいった。



潜書から絶筆寸前の状態で戻り補修室に運び込まれた芥川は、長い補修時間を終えても一向に目を覚まさなかった。
補修自体に何の問題もないことから、文豪芥川の死因が関係しているのではと予想がされた。或いは、ただ深く沈み過ぎた魂が浮上するのに時間がかかっているだけかもしれない。
とりあえずもう少し様子をみたいところだが、補修室の寝台の数には限りがあり、次の補修を控えた文豪もいる。他に場所を移して誰かに様子をみてもらおうと結論が出たところで呼ばれたのが、助手である志賀だった。
説明を受けた志賀は、ならば芥川を自身の部屋で休ませようと提案した。
芥川にとっては自室の方がなにかと落ち着くだろうが、こういう事態とはいえ本人の許可もなく勝手に部屋に踏み入ることは憚られた。特に芥川は自身の空間を他人に侵されることを嫌いそうだ。
志賀としては良かれと思っての行動だったのだが、かえって悪いことをしてしまっただろかと今にして思う。
補修室から一変志賀の部屋などで目を覚ましたものだから、芥川はそれを夢と捉えてしまったに違いない。すぐに説明をすればまだ取返しもついたかもしれないが、寝落ちてしまったが故にタイミングを逸したこちらの落ち度だ。
ただ、仰向けに寝かせ暫くもしないうちにこちらに背を向けて丸くなるその姿が、志賀には寒がっているようにみえた。せめてもの気休めにと人間湯たんぽにでもなったつもりで寝台に潜り込んだだけで寝てしまう気は毛頭なかった、と今更いくら言い訳したところで意味がない。
目が覚めたところでこちらを見つめる芥川に少々決まりが悪い思いもしたが、きちんと意識が保てているようで一先ず胸を撫で下ろしたそれすら油断に繋がった。
雰囲気がいつもと違うようには感じつつも、絶筆寸前まで追い込まれたことでまだ精神が不安定なのだろうと思い込んでいた……というのも勿論だが、なによりあんな風に素直に甘える芥川などこれまでにみたことがなく、つい嬉しくなって舞い上がってしまったことの方が大きい。
それが夢だと思い込んでいるからこそだと知った時にはヒヤリとしたが、なんとか真実を覚らせないままやり過ごすことができた、と思う。
夢でないと告げてしまうことは簡単だが、そうなれば芥川は自ら今生の生を終えてしまうかもしれない。それくらいの認識はあった志賀は、いっそすべてを夢のまま終わらせてやることにした。
再び眠りについた芥川を都合よく空きが出た補修室の寝台に逆戻りさせ、廊下で目覚めの時を待っている志賀の耳に、微かな足音と扉の開く音が届く。
志賀は凭れていた壁から背を離し、あたかも通りすがりであるかのようにそちらに足を向けた。
「よお、龍」
声に反応してぴくりと動きを止めた芥川が、やがて緩慢な動作で志賀に向き直る。
その顔には、いつもと同じ何か感情を抑えつけているような静かな微笑み。
「こんにちは、志賀さん」
「もうとっくに夜だけどな。随分よく眠ってたみたいだが、いい夢でもみてたのか?」
時間感覚のなくなっている芥川に笑って、彼が眠っている最中に考えていた科白をさり気なさを装って口にする。
こうして待っていたのも、しっかりと目覚めた芥川があれを夢と誤解したままなのか確認しておくためだ。忘れているというのならそれでもよかった。
問いに疑問を持った様子はなく、少し考えるような素振りをみせた芥川が、ふとみているこちらの心がそわりとするような笑みを浮かべた。

「いいえ、悪夢を少々」




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