眠りから覚めるとともに、真っ先に伝わるのは胸を占める違和感。眠る前にはなかったものがいつの間にやらそこに在って、とく、とくともう一つの鼓動が伝わる。
初めてでもないそれに特に驚くこともなく、光忠は確認するようにゆっくり瞼を押し上げる。
案の定、軽すぎる重量と高い熱を持って、さながらもう一枚の毛布代わりにでもなったかのように自身に覆い被さって眠る獅子王の姿が目に入る。
衣服越しに胸を擽る、寝惚け眼には眩しい金の髪の隙間から覗く寝顔はいつにも増してあどけない。だからといって安心しきっているわけでもないらしく、こちらが目を覚ました気配を察知してか長い睫毛がふるりと震える。
ぱちぱちと瞬いた瞳がこちらに向けられることはなく、おはようの一言もないままに、獅子王がのそり身を起こす。温もりが離れたことで、決して寒いわけではないのに一気に体が冷えた気がしてしまう。人の身とは全くもって不思議なものだ。
対する獅子王の方はそんなことはないようで、その後も何の反応もくれないままに部屋を出て行ってしまった。
最初こそ驚きのあまり飛び起き、理由を尋ねてみたりもしたものだったけれど、獅子王の態度は終始あの通り。疑問は残るものの、幾度と回数が重ねられるうちにもうそういうものなのだと受け入れてしまっていた。
するりと懐に滑り込んで、あっさりと離れていく。まるで野良猫のように。
名は体を表すとはよく言うものだけれど。獅子王は刀の付喪神であり、獅子が猫科だからといって安易に当てはめてしまうのはどうかとも思う。とはいえその行動があまりにもらしいものだから、ついついそんなことを考えてしまう。
戦場に出た際にゆらゆらと尻尾を揺らしているように見えるあの衣装が、よりその考えを助長させるのだろうか。獅子の王を捕まえて猫だなどと、本人が聞けばいい気はしないだろう。
慣れが過ぎて無意識に朝の支度にとりかかる光忠にとって、起きてこの方脳内を獅子王に埋め尽くされているそれすらも意識の外だった。


食事の時間になると、獅子王は誰に呼ばれるでもなくふらりと食堂にやってきて、自身の分を食べ終えるとまたふらりと姿を消す。
たまに三日月や鶴丸と何やらしているようだけれど、さすがに内容まではわからない。ただ、獅子王が好き嫌いをしているところはみたことがなく、いつも皿の上は綺麗に片付いていた。
――そういえば、彼はどんなものが好物なんだろう。
「獅子王くん」
昼下がり、ちょうど庭に出ていた獅子王に声をかける。
ぴたりと歩みを止めてゆっくりと振り返った獅子王が、何の用だと首を傾げた。
前置きもないままに、これまで気にしたことのなかった、つい先刻浮かんだばかりの疑問を口にする。小さく目を見開いた一瞬を誤魔化すように眇められた瞳からは、どうしてそんなことを聞くのかという僅かな警戒心が滲んでいるようにみえた。
ごく日常的な問いのどこがそんなに引っかかったのかはわからないけれど、その姿はまるで威嚇しようか逡巡しながらも身構える猫のようだった。
「ただ少し気になっただけなんだけど…、」
今後の献立の参考に、とでも言った方がよかったのではないかと言ってしまってから気付いたものの、既に発した言葉は時間を巻き戻しでもしない限り取り消すことは出来ない。
「………ハンバーグ」
長く落ちた沈黙に諦めかけていた時。ぽつり溢された答えは彼に似合っていて、なんだか可愛らしく思えた。微笑ましい気持ちと答えを貰えた喜びから笑みを溢せば、気に障ってしまったのかムッとしたように眉を寄せた獅子王が「それだけならもういいだろう」と向けた背に、「ありがとう」と咄嗟に声をかける。返るものは、もうなかった。
以前に、特に用もなく通りがかりの獅子王に声をかけて無視されてしまったことがあった。挨拶くらいなら少々素っ気なくも返してもらえるけれど、他愛ない世間話などには付き合う気はないようで、そのくせこちらに用がある場合には今回のように応じてくれる。
声の調子でそれらを判断しているのだとすれば、それは獅子王自身の特性なのか、刀としての勘なのかとも考えられるけれど、光忠にはそれすらも猫のようだと感じられてしまうのだ。


――最近、気付けば獅子王を目で追ってしまっている気がする。
それもこれも獅子王の光忠に対する謎の行動のせいだ、と今朝は一人で目覚めたはずなのにいつの間にか獅子王のことを考えてしまっている自身に、光忠は未だ気付かない。
食事時になれば賑わうけれど今はまだがらんどうな空間に一振り。厨での作業を他に任せて、いそいそとそら豆の中身とさやとを分ける地味な作業をしている光忠の背に、ふいに重みがかかった。
脳内で考えていただけながら、噂をすればなんとやらという言葉が瞬間的に頭に浮かぶ。
潜めるような静かな足音に気付いていながら、反応すれば逃げられてしまう気がして大人しくされるがままになっている自身が何を考えているのかもわからないまま。
頭の中ではぐるぐると思考を働かせながら、光忠は黙々と手を動かす。背後からは、カチカチとボタンを操作するような音がするので、獅子王はゲームでもしているのだろう。
短刀や脇差の面々と対戦だ協力だと楽しそうに遊ぶ姿はよく目にしていたけれど、今日は誰も捕まらなかったのだろうか。
「獅子王くんもやってみないかい?」
ゲームに詳しいわけではない光忠にはそこら辺の事情はどうにもわからず、もしも暇を持て余した末に仕方なくゲームをしているのならと思い切って声をかけてみる。
触れ合っている背がわかりやすいくらいにぴくりと反応した。
いつもお馴染みの沈黙を経て、光忠が諦め半ばに新しいそら豆に手を伸ばしたところでスッと背が涼しくなった。
ゲーム機を机の上に置いて心ばかりの距離をとって腰を下ろした獅子王が、どうすればいいのかと目で問うてくる。
何も難しいことはない単純作業を教えれば、こくりと頷いた獅子王はボウルに盛られたそら豆を一つ手に取って、順当にそれを分解していく。
彼の手にかかればこれほどのそら豆もやや大きくみえるものだと思ってしまったことを覚られないように、淡い高揚の中で光忠も作業を再開した。
言葉の飛び交わない静かな空間には変な息苦しさもなく、どこか心地良さすら感じられた。
たまにはこんな時間も悪くない。そう思いはしても、もともとそれほど多くもない作業だ。二人がかりでやればあっという間に終わってしまう――後半はわざとペースを落としてこれなのだから、実際には言うほど短くもなかっただろうけれど。
「ありがとう、助かったよ」
「別に…お前のためにやったわけじゃねえし」
隣でゲーム機を手に立ち上がった獅子王から素っ気ない言葉が返る。
勿論彼が自身を助けるためにやったなどとは思っていない。そう自惚れられる要素などどこにもありはしないのだから。
それでもありがとう、と見上げた獅子王は開いた障子から差し込む光を受け輝いてみえて、目が眩む。
「時間がある時でいいから、たまにこうして手伝ってもらえると嬉しいな」
きっとこのまま消えてしまう彼に何かを言わなければと、口が勝手に動いた。
「気が向いたらな」とやはり猫のように返した彼の口元がゆるく弧を描いたようにみえたそれは、強い光がみせた幻だったのかもしれない。
廊下を歩く獅子王の軽い足音を掻き消す勢いで響いたのは、自身の鼓動だったのだと、気付くまでには些か時間が必要だった。


恐らく嫌われているわけではないと思う。
嫌っている相手の寝室に忍び込んだりはしないだろうし、気まぐれにせよ自ら傍にくることもないだろう。
いくら接している間の態度が素っ気なくても、世間話に付き合ってもらえなくても……きっと、…たぶん。
だからといって好かれているとも言えないのだから、光忠と獅子王の関係は微妙ということになる。
せめて何か仲良くなれるきっかけでもあれば、と考えるくらいには光忠は獅子王のことを好ましく思っているのだろう。
どうしても他人事になってしまうのは、強い感情を持つほどに彼と関わってはいないからだ。
ゲーム仲間である短刀や脇差、同じ平安刀である太刀の面々。そのどれにも当たらない光忠は、今のところ料理くらいでしか彼の気を惹けそうにない。
獅子王の好物は聞いた数日後の夕飯に取り入れ済みで、その時は心持ちいつもより嬉しそうな姿を盗み見ることくらいしかできなかった。なんとも不甲斐ないことだ。
「獅子王くんの好きだって言ってたハンバーグにしてみたんだけど、どうだった?」なんてあからさますぎる切り出しでは、あちらも返答に困るだろう。
まずは一緒にいる時間を増やして、会話をしてみることからだろうか。初歩の初歩だけれど、自分達はそこから始めるしかないらしい。
そのために光忠が考えたのが、ずばり餌付けである。
もはや二転三転してしまっている気がするものの、失礼を承知で言えば野良猫を手懐けるにはそれが一番手っ取り早い。
獅子王が内番にも出陣にも組み込まれていない日を見計らって、おまけに周りに他の刀の姿がないのを確認した上で、光忠は獅子王をお茶に誘った。
訝しむように眉を寄せていた獅子王は、美味しいお団子があるんだけど、と言った瞬間に瞳を輝かせた…ようにみえた。やはり餌でもない限り進んでは光忠に付き合ってもらえないらしい。
淹れたてで湯気を立てるお茶と丹精込めて自作した三種類の団子ののった盆を手に、獅子王の待つ縁側に向かう。
昼下がりの日差しに照らされた縁側に腰を下ろした獅子王は、緑から橙に装いを変え始めた庭ではなく、澄んだ空をジッと見上げていた。その足は落ち着きなくぶらぶらと揺れている。
「お待たせ」
「…別に待ってねえけど」
「はいはい、獅子王くんはお団子を待ってたんだよね」
「……」
それ以外に何がある、とでも返るかと思って返事を待ってみても、その口は一向に開く様子をみせない。透き通る空の色をした瞳をひたりと向けられて、心が騒めく。
やがて、獅子王が見つめる先が自身ではなく盆の方なのではないかと思い至った光忠は、自身の勘違いを誤魔化すようにいそいそと手にしたそれを獅子王のそばに下ろした。自らも表情のよくみえる獅子王の右隣、盆を間に挟んだそこに並ぶ。
「今朝僕が作ったんだ。口に合うといいんだけど…」
みたらしがかかったもの、餡がのったもの、三色に彩られたものが並ぶ皿を眺めて、早速三色のそれを手に取った獅子王に言い置く。口元に団子を運んでいた獅子王はぴたりと動きを止めて、今まさに口にしようとしていたそれをジッと見つめ始めた。
光忠が作ったというのが気に食わなかったのか、どこか変なところでもあっただろうかとはらはらしながら見守っていると、「ふぅん」と感心したような声が溢される。
「誰にリクエストされたのか知らねえけど、わざわざこんなもん作るなんて本当に料理が好きなんだな」
「……そうだね。刀のままではできないことだし、凄く楽しいよ」
誰のリクエストでもなく、これは光忠が獅子王との距離を縮めるために作ったものだ。素直にそう言えるはずもなく、曖昧に誤魔化すような物言いをしてしまった。
料理が好きなことも事実だし、ついでに皆の分も作り置きしているので不審に思われることはないだろう。
そこに深い意図はなかったのか、それまで見つめていたのが嘘のように、三色が次々と獅子王の口内に消えた。
「うん、美味い」
獅子王に直接そんな風に言ってもらえたのは初めてで、僅かに目尻を緩めている獅子王の表情も相俟って、光忠は得も言われぬ感動を覚えた。
寂しくなった串を皿に戻した獅子王が、残りの二種類もぱくぱくと平らげてしまう。
獅子王が自身の作ったものを食べている。それだけで、どうしてこうも幸せな気持ちになるのだろう。
「……何だよ」
「え」
「俺、何かおかしかったか?」
彼はどの団子が好みだっただろうか。そんなことを考えながら表情の変化を見逃すまいと凝視してしまっていたことを指摘されたのだと、遅れて気が付く。
どれが一番おいしかった? そう尋ねるのは作り手として自然なことで、なにもおかしいことはない。これは言っても大丈夫なはずだ。
一度頭の中で整理してから口を開きかけたところで、こちらの様子を探る獅子王の口元に餡子がついているのが目に入る。
言葉よりも先に手が伸びて、ぱしりと乾いた音が耳を打つ。
獅子王が一瞬だけみせた痛みを堪えるような表情が印象的で、払われた手の痛みはどこかへと消えてしまった。
パッと顔を背けた獅子王が、「悪かった」と小さく言った。
「いや、驚かせてごめんね。ただ口元についてる餡子を取ろうとしただけで、他意はないから」
「っ!そんなの、言われれば自分でとるし…」
「そうだよね。ごめ、ん……」
こちらが気にしていない旨と、変な警戒を与えないよう言葉を選ぶ。
獅子王は弾かれたように手で口を覆って、ぐいっと力任せに餡子を拭い取った。
柔肌に傷がついてしまうのではと心配になりながら、自身の迂闊さを反省する端で、表情を見せまいとするその一点が目に入る。髪を結わえているおかげで無防備な耳が、季節を先取りした紅葉のように鮮やかに染まっている。
もしかして、彼は照れているのだろうか。いつもは平気で人の布団に潜り込んでくる彼が、自身が触れようとしたそれだけのことで。
世間話には付き合ってくれず、遠征から戻った際の出迎えにも姿を見せず、近付けば離れていく彼。他の目のあるところでは知らん顔をしているのに、二人になると寄ってくる。自分勝手な野良猫のような刀剣男士。
謎ばかりの獅子王の行動を脳内が忙しく呼び起こす中で、唐突に気が付いた。
獅子王が布団に忍び込んでくるのは、大抵が光忠が負傷して帰ってきた日なのだと。寧ろどうして今まで気づかなかったのか。そんなものは簡単で、獅子王の行動には意図などない気まぐれだと考えることを諦めてしまっていたからだ。
わかりにくい気遣いを、きっと本人はわからせるつもりはなかったのだろう。
それでも、もう気付いてしまった。瞬間、光忠の中で何かが弾け、かかっていた靄が晴れたように思考が明瞭になった。
「僕は獅子王くんのことが好きみたいだ」
――そう、これはきっと愛しさというやつじゃないだろうか。
好きだ、と言い切ってしまった方が格好良く決まっただろうけれど、たった今判明したばかりのそれを光忠もまだ己のものにできていなかった。
言葉にして漸く、心に落ちて、全身に回るように想いを自覚した。
――そうか、僕は獅子王くんのことを好きだったんだ。
感情を自身に着地させて緩やかに目に入った獅子王は、信じられないというような目をこちらに向けていたけれど、その顔は見たこともないくらいに真っ赤だった。
何か言葉を発しようとしては引っこめてを繰り返す様が、酸素を求める金魚のようでなんとも可愛らしい。猫だと思っていた相手に金魚だなんておかしな話だけれど、色味も相俟ってそうみえてしまう。
「ごめん、もう一度言い直すよ。僕は獅子王くんのことが好きだ。今の獅子王くんは思わず口づけてしまいたくなるくらい可愛くみえるし、君の許しが貰えるなら今すぐにでも君を抱き締めたいくらいに好きだ。それから、獅子王くんにこうして振り回される相手が、僕だけであればいいと思う」
返事をもらわないことにはどうすることもできない素直な想いを打ち明ける。
ぽろりと溢したさっきとは違い、きちんと考えながら口にするそれは、緊張を伴って光忠の鼓動を早めた。
返事は急がない、と付け足してしまえばそのままなかったことになってしまう気がして、光忠はジッと獅子王の言葉を待った。
「俺は、別に…お前のことなんて好きじゃねえけど……そこまで言うなら、付き合ってやってもいいっ」
ぽつり、ぽつり。詰まらせながら漸く声にしたというような必死さが胸を打つ。
そういう返事になるとは予想していなかったけれど、好きじゃないのに付き合うのか、なんて野暮はなしだ。
今はこれが獅子王の精一杯なのだと理解してしまったから。触れられそうになっただけで赤くなる彼が「付き合う」という単語をどれだけの想いで口にしたかを考えれば、十分だ。
気持ちがこちらにあることはこれまでの行動が語っているから、言葉はそれほど急ぐこともないだろう。時間はまだたっぷりと残されているのだし、と考える自身の甘さはもうどうしようもないらしい。
とはいえ少しばかり残念なのも事実だけれど、野良猫を手懐けていくのも悪くない気がしている。
「嬉しいな。よろしくね、獅子王くん」
これは了承を貰ったと受け取っていいだろうと、相変わらず耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた彼を抱き締める。
目の前に無遠慮に差し出された手に爪を立てる猫のように毛を逆立てた獅子王が腕の中でもがいても、照れ隠しだと知ってしまった光忠は体格差をここぞとばかりに利用して小さな体をすっぽり収めてしまう。
獅子王からこちらの表情がみえないのをいいことに、光忠は緩く愛好を崩した。


今朝もまた、馴染んだ重みが微睡む体を包んだ。
これまでとは違う愛しさを胸に目を開くと、今朝は先に起きていたらしい獅子王と目が合った。
新鮮な気持ちでおはよう、と開きかけた唇に、胸の上を這い寄ってきた獅子王の唇が重なる。
起き抜けのあまりこれはまだ夢なのではないかと目を瞬かせる光忠の目前で、「おはよう」と言葉すら奪って獅子王が笑みをのせる。
もう夢でも何でもいいからこの愛しい存在を抱き締めたい。
衝動的に彼の背に回そうとした手が、ぴしりと跳ねのけられる。
たしかに手に伝わる痛みに、嬉し悲しくもこれが現実なのだと実感する。
そうして呆然と理解したのは、自身と彼との関係性。
どうやら触れる権利を持っているのは獅子王だけで、光忠からの接触はまだ許されないらしい。
先日暴れる彼に構わず抱き締めたことへの仕返しのようにも思えて、調子に乗ってその後のことなどまったく考えていなかった自身が恨めしくなる。
せっかく言葉を持っているのに行動で示してくる彼はやはり動物のようで。仮にも恋人にこの言い回しはやや問題があるかもしれないけれど、野良猫を飼い慣らすには時間が必要なようだ。
自身の気持ちが抑えられないまでになる前に、どうか彼が許しをくれますように。
こちらの気も知らず優雅に尻尾を振って部屋を出て行く愛しの野良猫に、光忠はこっそりと手を合わせるのだった。




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