そもそもいつからそうだったのかもわからない肌がじりじりと焼かれるような感覚が、いつの間にか消えている。体を覆っていた不快感も、幾分か軽減されているようだ。
意識的にではなく感覚的に察したおかげで、どうしてそうなったのかと疑問を抱くまでには至らない。
休息状態にあった脳が、首筋に触れたひやりとした何かに稼働スイッチを押されたかのように動き始める。
あくまで体は脱力させたまま、重い瞼のみを持ち上げる。
反射的に覚悟した強い光に目が眩むことはなく、思いがけず視界に飛び込んできたのは、きらきらと煌めく優しい金色だった。
こちらの動きに反応したのか、軽く瞠られたそれは瞬きの後に細められる。やがて柔らかな光が潜められたかと思うと、一気に距離が詰まり、未だ覚醒の途中で感覚の鈍い唇に己のものよりも低い体温が落とされた。
「おはよう、獅子王くん」
「ん、はよ」
触れ合った唇からゆるゆると意識が掬い上げられるように、思考が明瞭になってくる。
日常生活の流れの一つとしてさり気なく目覚めの口づけを寄越す彼のそんな伊達男っぷりを、獅子王は面白く思っているし、気に入っている。きっとそうすることに何の疑問も抱かない彼は、獅子王がそんな風に捉えていることを知れば本気で首を傾げるに違いない。
そういえばすっかり閉じる折を逃して開かれたままだった瞳に映る穏やかな笑みからのろのろ視線を巡らせれば、障子越しに差し込んでくる日の光は大人しく、僅かに茜色が混じり始めていた。
なんだ、やけに見覚えがあると思ったら光忠の部屋か。
自分達がいるのは部屋の中央で、室内は灯りを点けずとも不便がない程度に明るく、すぐに合点がいった。けれど改めて思い起こすまでもなく、獅子王の記憶は昼下がりに縁側で横になったところで終わっている。
いくら寝相が悪くたって、さすがにこんなところまで移動したりはしないはずだ。
漸く浮かんだ疑問に、問うように部屋の主に視線を戻す。
「汗だくで眠る獅子王くんがみてられなくてね。せめて日陰にと思って僕が運んだんだ」
獅子王の疑問を正しく察した光忠が答える。
その場に横になった時点では日は差し込んでおらず快適だったが、獅子王が深い眠りに落ちている間に太陽の位置が変わり直撃を受けていたようだ。偶々それを発見した光忠が、滴る汗に不快感も露わに呻きながらも目を覚ます気配のない獅子王を見兼ねて、自らの部屋まで運んでくれたらしい。
――まるで俺が寝汚いとでも言いたげな物言いしやがって。
むっとして軽く光忠を見据えるも、完璧なまでの笑顔で受け流された。
そういえば眠りの最中。一度浮遊感に襲われたような気はしたが、沼底に浸るような深い眠気に抗うことができず、そのまま眠り続けることにした…ような気がする。
これでは例え真っ向から指摘されたとて返す言葉もない。
別に、いつもがいつもそうなわけじゃねえし。今回はたまたま遠征の疲れが残ってたってだけだし。
ぐるぐると責められてもいない事柄への言い訳を並べ立てながら、話題の転換を考えていた獅子王は、ふいに目覚めのきっかけとなった冷たい何かの存在を思い出した。
飛び起きるってほど反応したわけじゃねえけど、あの冷たさは結構なもんだった。
彼の手より遥かに冷たい、と視線を落とした先。その正体はすぐに知れた。
光忠の膝元にある畳まれた手拭いの上に置かれた透明な袋の中で、水の中を幾つもの氷が泳いでいる。
獅子王を日陰に運んでくれた上に、少しでも快適に眠れるようにと汗を拭い、体を冷やしてくれていたらしい。まったくもって至れり尽くせりである。
自身よりも若いくせにしっかりもので甲斐甲斐しい恋人に、獅子王は微苦笑を浮かべる。
「色々世話してもらったみたいで、ありがとな」
「当然のことをしたまでだよ」
光忠はそう言うけれど、他の者たちが聞いたらきっと甘やかし過ぎだと切り捨てられるに違いない。人気者の彼をこうして独り占めしているのだし、甘やかされているという自覚はあるので反論の余地はないが。せめて恋人の特権だと言い張ることにする。
当たり前に自分を甘やかしてくれるところも好きなのだからどうしようもない。
頭上の整った顔を見つめていると無性にじっとしていられなくなって、愛しいその身に触れたくなって。こちらもわざわざ用意してくれたらしい枕代わりに半分折りされた座布団から頭を浮かせ、光忠の膝に遠慮なく飛び込んで目を閉じる。
座布団と比べるには感触が違い過ぎるが、伝わる温もりと香りに勝るものはない。
「こらこら、もうすぐ夕餉の時間なんだから、二度寝は駄目だよ」
「わかってるってば」
せっかく恋人同士のじゃれ合いを楽しもうと思っていたのに。空気を読まず母親のような発言をする光忠に内心呆れながら、仕方なく開いた瞳でジッと頭上の隻眼を見つめる。
その凪いだ瞳に映るのは、今は獅子王だけだ。
光忠、と瞳を合わせたままその名を呼べば、ゆるく口角が持ち上がり、包み込んでくれるような柔らかな声が降ってくる。
あぁ、もっと甘やかされたいな。そう思った刹那、口が勝手に動いていた。
「喉、乾いた」
「そういえば、水分を取った方がいいかもしれないね。ちょっと早いけど食堂に移動するかい?」
「……」
普段は必要以上に察しがいいくせに、どうしてこう途端に鈍くなってしまうんだか。
若しやわざとはぐらかしているんだろうかと、障子の向こうに視線を投げた光忠に疑念を抱く。何か他のことを気にしている様子の光忠の意識をこちらに戻すために服の裾を引っ張って、膝元のそれを指さしてやる。
「ちょうどそこに、いいもんがあると思うんだけど」
示された先を追った光忠が、ぱちぱちと瞬きを二回。
その仕草は可愛らしくて結構だが、これで意図に気付かないようなら自分の恋人として今一度教育してやらねばなるまい。
こっそりそんなことを考えながら光忠の出方を窺っていたが、さすがにそこまで鈍くはなかったらしい。普段取り澄ましている顔が、熱に浮かされた氷菓子のようにとろりと溶けた。
「すぐに気付かなくてごめんね」
「修行が足んねぇ証拠だな」
してやったりと唇に弧を描き、早速縛り目に手をかける光忠の元からのそり体を起こす。
まだ若干凝り固まっていた体の節々が痛みを訴えてくるのに構わず、膝立ちになって互いの距離を調整する。
ほど近い距離にあるその顔に今すぐにでも口づけてしまいたい欲求に駆られるが、自分から言い出した手前、大人しく準備が整うのを待つことにする。
それにしたって、ほんと、どんだけ見てても飽きない顔だな。
きりりと整った顔立ちも、焦がすような強いそれではなく照らすような優しい光を灯した瞳も、男らしくかっちりした体躯も。初めて彼に会った時に受けた衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
色褪せることのない格好良さに、獅子王の心は日々魅了されっぱなしだ。
うっとりとその顔に見惚れている間、袋の中の氷がからからと涼やかな音を響かせている。
取り出された氷の一つが光忠の口内に運ばれるのを目で追って、袋が縛り直されるのを待つことなく噛みつく勢いでその唇を奪う。
獅子王の性急さに驚いたのか間近な瞳が瞠られ、合わさった口内から苦笑が伝わったが、知ったことではない。
厚い肩に添えるようにしていた手を、より距離を縮めるために首に回す。
口内を探るまでもなくすぐに氷が舌先に触れて、直接的な冷たさと体が満たされていく感覚に、獅子王の薄い肩がぴくぴく跳ねる。
いつの間にか袋を縛り終えたらしい光忠の手が獅子王の腰に回され、時折宥めるように大きな手の平が服の上を滑る。
「ふぁ…んっ…んんぅ…」
最初は単なる口実に過ぎなかったが、いざ水分を口にすると思っていたよりも喉が渇いていたのだと実感する。もっと、と思えば思うほど口づけが深くなるばかりで、もとより獅子王の体温が高いせいで氷は直に溶け切ってしまい、そのほとんどが飲み下せずに二人の間を滴り落ちていく。
これでは水分補給には到底足りないが、それでも口づけを解くことは出来なかった。
ひどくもどかしい気持ちになりながらも、熱に浮かされ始めた獅子王はそれが逆効果になるなんてことに思い至れないまま、懸命に舌を動かした。獅子王の積極性に戸惑ったように一度引かれた舌は、けれど止まない誘いに応じるように再び獅子王の舌に絡みつく。
あぁ、これ、ちょっとやばいかも…。
このままでは本格的に歯止めがきかなくなりそうだ、と頭の片隅で危険信号が点滅し始めた時、
「邪魔するぜ!……邪魔したな!」
スパン、と小気味よい音と共に突如として廊下に通じる障子が開き、室内に落陽と人影が差し込んだかと思うと、こちらが反応するよりも速くスパン、と空間が閉ざされた。
静寂が場を支配したのも一瞬。
「ちょ、待って鶴さん!」
真っ先に動きを見せたのは、それまで獅子王と同じように蕩かせていた理性を必死で呼び戻したらしい光忠だった。
獅子王から身を引き剥がした光忠が慌てて部屋を出て行くのを、糸を引いて顎を伝った唾液を物足りなさから伸ばした手の甲で拭いながらぼんやりと見つめる。
そうすぐ開くとは思っていなかったのか、まだその場にいたらしい鶴丸と光忠の会話が聞くともなしに耳に入る。
「すまんすまん。ついいつものくせで…」
「いや、こっちも配慮が足りてなかった…つい鶴さんの存在を失念してたよ」
「うん?ひっかかる言い方だが、まぁいい。厨の連中がお前さんはどうしたのかと心配していたぞ、と伝えに来たんだが」
「ああ、そうだった…」
未だ引かぬ熱を誤魔化すように理性をかき集めながら鶴丸と光忠のやりとりを傍観していると、ふいに部屋の中を覗き込んできた鶴丸と目が合った。
途端、にやりという表現が相応しい、意味深にも思える笑みを浮かべられ、獅子王は怪訝に思いながら小首を傾げる。
ハッとこちらを向いた光忠が、すかさず鶴丸と獅子王の間に立ち塞がるように体を滑り込ませた。
…? いったい何だってんだ?
「ま、そういうわけだ。次からは気を付けるこったな」
「ご忠告どうも」
今回は奇しくもこういう結果になってしまったが、こちらとて一応それなりに弁えていて、いつもなら皆が活動している時間にこんなことにはならないのだが。日が落ちつつある中で珍しく二人きりになれてしまったものだから、ついたがが外れてしまった。寝起きでまともな思考力じゃなかったというのは言い訳にはならないだろうか。
やはり、普段やらないことはしないに限るということか。
少し触れ合う程度ならと気を緩めてしまったが最後、それで済まなくなってしまう危険性がある以上、控えるのが妥当なようだ。殊に獅子王に関しては欲望に抗う力が弱いらしい。こんな風に光忠に迷惑をかけてしまうことも本意ではない。
用件を終えるやいなやニヤニヤと詫び入れず去っていく鶴丸の姿は、部屋の中でぽつり座り込む獅子王の視界からあっさりと消えてしまった。
同じようにそちらを見送っていた光忠が、溜め息を吐き出しながら獅子王の元に戻ってくる。
自分だけ蚊帳の外というのも心許なく、鶴丸との会話について説明を求めると、光忠は決まりが悪そうに頬を掻き、視線を彼方に彷徨わせながら現状を語った。
獅子王を部屋に運び終えたあと氷を取りに厨に出向いた光忠は、一足早く夕餉の下拵えを始めていた薬研たちと顔を合わせた。本来ならそこに加わるはずだった光忠だが、所用を済ませすぐに戻ると言い置き部屋へと引き返した。
ある程度様子をみたら厨に向かおうとしていたところ、目を覚ました獅子王が余計なちょっかいをかけたせいで思わぬ時間を食ってしまい、恐らくはつまみ食いにでも厨に顔を覗かせ伝言役を申し付けられたのだろう鶴丸に目撃されてしまった、とそういうことだった。
これは確かに悪いのはこちら…というか、よくよく考えてみれば時間的にもわかりそうなものなのに寝起きで判然としないまま仕掛けてしまった獅子王だろうか。
思い返せば、光忠が何かを気にかけていた節はあったし、獅子王自身もこの時間帯に一緒にいられることは珍しいと感じてもいたのだ。
どうしてその時点で気付かなかったのかとは、やはりまだ脳が覚醒しきっていなかったのだとしか言いようがない。
だって、目の前の愛しい男しかみえてなかったとかそんな、恋は盲目的なこと言えるわけねえし。
ともあれ光忠にも厨で夕餉の支度をしてくれている者たちにも申し訳ないことをしてしまった。
獅子王は未だ僅かに残る熱を反省とともに吐き出した。鶴丸に関しては自業自得だろうから特に思うところはない。ただ、あの意味深な笑みが多少気がかりではあるが。
「そういうわけで、僕は厨に行かなきゃいけないんだけど…」
「わかってる、俺も直に…」
「いや、獅子王くんはもう暫くここにいるか、いっそお風呂にでも入ってさっぱりしてくるといいよ」
予想外の言葉に目をぱちぱちと瞬かせる。
光忠がいないのなら、獅子王が一人この部屋にいる意味はない。拭ってもらったとはいえ汗を吸った服のままでは少々厭わしくはあるので風呂に入るのもいいかと思ったが、どうにも含むような言い方が引っかかる。
脳裏には、鶴丸のあの笑みが浮かんだ。
立場が逆転してしまったかのようにやれやれと呆れている様子の光忠に、だから何なのだと問い詰めるような視線を向ける。
隣で畳に膝をついた光忠が上体をこちらに傾けてきて、接近した顔にこんな場面でありながら口づけを期待してしまうが、さっきの今でそんなことができるわけもない。
近くはあるが到底触れはしない距離で止まった端正な顔が、それ以上近付く様子はない。
更なるおあずけを食らった気分で眉を寄せた獅子王の頬に、光忠の手が触れる。手袋で覆われたつるりとした質感が頬を擦り、親指の腹が獅子王の目元を撫で上げる。
素手で触れてくれるのが一番だが、この感触も嫌いじゃない。
「中途半端で止めちゃったのは悪かったけど、そんな顔を他に見せるのは何かとよろしくないからね」
「あぁ、そういう…」
自分はどうやら相当欲求不満そうな顔をしているらしい。
そもそもあれ以上先に進む気はなかったのだが、頭でわかってはいても体は正直だ。現に今も触れられた手から伝わる体温に、勝手に夜の気配を思い起こそうとしている。
それゆえに自らも猫がするように頬を擦り付けていた体温が離れていくのを名残惜しく思ってしまいながら、納得はしている。
鶴さんに見られたのは不覚だったな、と溢す光忠に、獅子王は漸く鶴丸の笑みと光忠が獅子王を隠すようにしたことの意味を理解した。
寧ろ、いつもお手伝いをかって出てくれるよい子たちじゃなく、鶴丸が相手でよかったんじゃないか。
そう思いはするものの、光忠が言わんとしていることがそういう意味ではないのだとなんとなくわかって、心の内にとどめ置く。
「今ならもう夕餉前のひとっ風呂を浴びる集団も上がったはずだから、行くなら行っておいで」
自らは急ぎ厨に向かうという、恋人から厨番へと切り替えを済ませた様子の光忠を、獅子王はどこか面白くない思いで見上げる。
つい先刻まで俺に触れてたくせに、涼しい顔しやがって。
皆のためにも早く光忠を行かせてやらないといけないのはわかっているが、名残惜しんだ手を咄嗟に掴んで呼び止める。
ぐいっと力任せに引き寄せて改めて正面から覗き込んだ瞳の奥の奥。まだ微かに残り火の揺れていることを確認して、獅子王は獲物を前にした獣のように不敵な笑みを浮かべた。
「今夜は寝かさねえから、覚悟しとけよ」
「っ…OK。期待に応えられるよう、最善を尽くすとするよ」
契約を交わすように、どちらともなく唇を重ねる。
触れるだけで離れていった唇を、今は惜しいとは思わない。
今度こそ開け放たれた部屋から出て行く光忠を追ってしぶとく居座る夕陽を見据えながら、早く夜の訪れることを願ってみる。
いくらそうしてみたところで、獅子王の願いを聞き入れてなどくれない空は一向に茜色のままで。
やがて、くあぁ、と噛み殺す気のない欠伸を一つ残して、獅子王もまた今夜再び訪れることが決まっている部屋を後にした。

「…腹、減ったなぁ」





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ついったで呟いたネタを元にした燭獅子でした。
甘やかされてるって自覚したうえで存分に甘える年上が好きです。




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