俺が獅子王に恋しているんだと自覚したあの日。あの瞬間。
 自宅にいたはずの俺の視界は一瞬にして薄紅色に染まった。俺の中に芽吹いた気持ちを表したようなそれは、たった今目の前にあるものとして視界を彩った。
 桜が舞っている。空はすべてを包み込むような紺青色で、ちかちかと星が瞬く。
 そこには月よりも強い輝きを放つ金色があって、丸く瞠られた灰青色が凍り付いたようにこちらに向けられている。
「獅子王…か?」
 目の前の金色は、俺の記憶にあるものとは大きく違っていた。
 数時間前、俺は中学に上がる獅子王に「俺も爺さんと一緒に入学式に参列してやろうか」と冗談を言って機嫌を損ねたばかりだ。まだ成長期を迎えていない平均より小さな背を気にしていた獅子王の目線は、随分見下げる位置にあったはずだ。それなのに、今目の前にいる獅子王と俺との目線の高低差はさほどなく、幾分俺の方が上にあるという程度だった。
 はて、俺は寝惚けているんだろうか。
 首を傾げる俺の前で、時が止まったかのように微動だにしなかった獅子王の瞳が水気を帯びて、ぼろりぼろりと大粒のそれが零れ落ちた。かと思えば、いきなり大きな声が夜気を劈き、キーンと耳を突き抜けたそれに思わず眉を顰める。
「あ、んた…今まで、どこで何してたんだよ!つーか、何だよその格好、いい年してコスプレか?」
「おいおい、高校生が学生服着てるのがコスプレだと?それに今までも何も、ついさっきまで一緒にいただろうが」
「……」
 どうにも会話が噛みあってないのを感じながら、冗談めかすように言えば、獅子王は信じられない言葉を聞いたとでもいうように絶句してしまった。
 何か変なことを言ったか?もうすぐ卒業するにしても俺が十八歳の高校生なのは事実だし、さっきまで獅子王に絡んでいたのも事実だ。
 もしやまださっきのことを怒っているのか、と考え出した俺に、獅子王は衝撃的な発言を投げつけた。今度は俺が絶句する番だった。
 ここは俺がいた時間から八年が経過した世界だと。急に姿を消して、八年もの間何をやってたんだと、八年ぶりに姿を現したかと思えば学生服なんて着ていったいどういうつもりだと。噛みつくように捲し立てられて、俺は状況が呑み込めずに必死に頭を回した。
 結論を言えば、俺は俗に言うタイムスリップをしてしまったらしかった。こちらの状況を説明して、俺はなんとか獅子王に自分が十八歳で、突如ここに飛ばされてしまったことを受け入れてもらった。
 「何だよそれ…俺がこの八年間、どんな思いで生きてきたと思ってんだよ…」と顔を歪めた獅子王を抱き締めて、ただ「すまなかった」と言うことしかできなかった。自身も戸惑いの只中にあった俺には。「ばかやろう…」と、か細い声で言って胸に押し付けられた金色を撫でながら。この時はまだ実感が湧かず、涙する獅子王と想いを共有することが出来ない心の差が恨めしかった。
 いきなり八年後に飛ばされて、身元を証明するものも、財布すら持っていなかった未成年の俺は、暫く獅子王のところに厄介になることになった。
 てっきり爺さんの家に行くんだろうと思っていたが、連れられたのは見覚えのないアパートの一室だった。爺さんは二年前に亡くなったと聞かされた時には、様々な感情が自分の中に渦巻いたもんだ。あんなによくしてもらった爺さんを看取ってやれなかったこと。それどころか、いきなり姿を消した俺を心配させたまま逝かせてしまっただろうこと。大切な爺さんを亡くして悲嘆にくれる獅子王を一人で泣かせてしまったこと。大変な時に、傍にいてやれなかったこと。
 いくら自分の意思じゃなかったとはいえ、無限に湧く後悔に、俺は唇を噛み締めた。じわりと実感が沁みだして、俺は漸く獅子王の気持ちに僅かばかり寄り添えた気がした。
 親父は、いつの間にか姿を消していたらしい。いったいどこに行ってしまったのか。生死すらあやふやだったが、あえて探し出そうという気にはならなかった。そもそも八年前と同じ姿形の俺をみたところで、親父もどうしたらいいかわからないだろう。どこかで生きていてくれたならそれでいいと、互いにそう思っていられればいいんじゃないかと思った。
 最初の内はどうしてこんなことが起こったのか調べて回ったり、元の時代に戻る方法を探しては試してもみたもんだったが、どれも不発に終わった。人生経験で優れた適応力を身につけていた俺は早々に、来るべき時がきたら自然と戻れるんじゃないかと、運を天に任せることにした。
 住所不定で身元を証明できるものもなく、本来なら二十六歳であるはずの若作りにも程がある外見。変に知り合いに会ってしまうのも不味いと、俺はなるべく目立たないように細々とバイト生活を送ることになった。
 すぐには見慣れぬ成長した獅子王との生活も、自分の想いを自覚したばかりの十八歳男子には複雑だったが、そちらはいっそ開き直ってしまえばなんてことはなかった。自分が十八歳なのをいいことに二十歳の獅子王に甘えてみせるのは存外楽しかった。そんな生活も、一年も経てば恋人同士のそれになっていたわけだが。
 空白の八年が嘘のように、それからの日々は色鮮やかだった。


 あの日、俺にとっては数時間ぶりの、獅子王にとっては八年ぶりの再会をしたこの場所に、一人佇む。
 一度目は獅子王への気持ちを自覚した瞬間。二度目はその五年後、獅子王が死んでしまったと絶望にとり付かれた瞬間。そして、これが三度目。獅子王が飛行機に乗ることを阻止した、その瞬間。
 すべてが獅子王に関することで、飛んだ先には必ず獅子王の姿があったのに。一度目に見たこの光景に、獅子王がいない。
 ざわざわと胸が騒ぐ。嫌な考えが頭を過る。俺は居ても立ってもいられず駆け出した。
 あの日、獅子王に連れられたアパートへの道筋を一人駆ける。鞄に入れてあった鍵を取り出して、暫しの別れを告げたばかりの部屋の扉を開ける。
 そこには、求めていた獅子王の姿どころか、その面影すら存在しなかった。がらりと静まり返る何もない部屋。徐々に増やしていった俺の荷物も、一緒に食事をしたテーブルも、愛を語り合ったベッドも、何もかもが消えてしまっていた。まるで初めから使われていないかのように、ぴかぴか輝く床を踏みしめて、俺はそこを飛び出した。
 足は自然と懐かしい爺さんの家を目指していた。ぐるぐると頭を回るそれを振り切るように、がむしゃらに体を動かした。
 そこにも、獅子王の姿はなかった。堪らず隣家のチャイムを鳴らし、訝る家主にあの家に住んでいた爺さんと子供はどうしたかと尋ねた。俺の勢いに押されたのか、差し障りない部分まで教えてくれたそれを聞いて、俺はここが初めて飛ばされてきたその時なのだと知った。
 爺さんは二年前に亡くなった。あの時獅子王が言っていたことだ。玄関に吊るされていた日めくりカレンダーの日付が、俺の考えが正しいことを証明していた。
 高校を卒業すると同時に家を出たという獅子王は、今は大学に通っているらしかった。
 咄嗟に理解した。歴史が変わってしまっていることを。俺が、変えてしまったんだってことを。たまに挨拶を交わすだけだったが確かに顔見知りだった目の前の人物が俺を知らない様子から、薄々は感じていたことだが。
 ならば、獅子王は…。
 俺の考えが正しいとでもいうように、ずきずきと頭を苛む痛みは増すばかりだった。
 重い足取りで目についた公園に足を向け、肌寒い夜をそこでやり過ごすことにした。ばちばちと虫の集まる電灯の下。視界を染める薄紅色を閉め出すように、ベンチで体を丸めるようにして目を閉じた。その腹に、渡せないまま終わってしまったそれを抱えて。
 翌日、教えてもらった大学の門の近くで待ち構えていると、眠たそうに目を擦りながらこちらに向かってくる獅子王の姿が目に入った。意を決して声をかけようと足を踏み出した瞬間、暗転したように目の前が真っ暗になり、背後から強く襟首を引かれる感覚がした。ぐにゃり不快感が押し寄せる。
 気付けば、俺はまたあの日の桜の下にいた。
 何度試してみても、結果は変わらなかった。獅子王に関わろうとすると、獅子王のいないあの桜の下に引き戻される。俺が獅子王に関わることは許さないというように。事実、それはその通りなんだろう。俺は永遠に、獅子王に関わることは許されない。
 大学の前で適当に捕まえた相手に獅子王宛の手紙を渡してもらうという悪足掻きもしてみたが、獅子王は俺のことなど知らないと答えたそうだ。
 そしてまた時空に引き戻された俺は、そこで久しぶりに笑った。推測が確信に変わり、もうそうするしかなかった。乾いた笑いは呆気なく空気に溶けて、勝手に震えた喉からは笑い声に変わって嗚咽が漏れた。
 獅子王の人生に、俺は存在していない。そしてこれからも、存在することはない。
 きっとこの世界のどこかには俺は存在しているはずだ。ただ、どう変わったのかはわからないが、獅子王の隣家に引っ越していないことだけは確かで。
 それが、今現在繰り返している時間での違和感の正体だった。これまで何度も獅子王の姿を見かけたが、笑顔は見たことがなかった。俺の知らない友人と楽しそうに話している姿は目にしても、それは俺が知っているあの笑顔じゃなかった。
 あの笑顔は、向日葵のようなあの笑みは、両親を亡くしたことがショックで笑わなくなった獅子王から、俺が引き出したものだ。俺のいなかった人生。獅子王は、死への恐怖から解放されてはいない。
 死に怯えたまま二年前に唯一の肉親を、爺さんを亡くした獅子王は、今をどんな思いで生きているのか。もとよりそこに自分は居なかったが、あの時よりも胸が締め付けられるように痛んだ。

 とうとう獅子王に会うことを諦めた俺は、次にあの飛行機事故のことが気になった。そのことを脳裏に描いた途端、体は空港に飛んでいた。そこで俺は、強く念じれば自分が思い描いた時間に飛べるようになっていることに気が付いた。
 空港から連想したのか、ホテルに預けた荷物の存在をふと思い出したが、どうせ着替えぐらいしか入っていないそれは潔く諦めることにした。
 現実を直視したくない故の時間稼ぎか、そんなことを考えていた俺は、改めて向き合った現実の中、もう一つの絶望的な運命を知ることになる。
 俺との旅行のために飛行機に乗って事故にあった獅子王は、当然空港にはいなかった。だからと言って、すべてが変わってしまうわけじゃあなかった。
 旅行を計画していたあの日、この世界での獅子王は交通事故で死んでしまった。大学で仲間と始めたバンドが人気を博し、メジャーデビューまでしていたらしい。大学時代からいきなりこの時代に飛んだ俺は、空港にあるテレビで報じられたそのニュースをみて呆然と立ち尽くした。
 獅子王が大学に通っていたことで運命が変わってしまったのは知っていたが、数年後に音楽家になっているとは。介護士として爺さん婆さんの相手をしていた姿からは想像もできない。運命が変わるというのは、ここまでなのか。
 それでも、寿命だけは変わらないのか、と。人の運命を変えてしまうことがいかに恐ろしいか、俺は漸く痛感した。これ以上はないほどどん底まで突き落とされて、俺は頬を濡らす涙を止めることが出来なかった。
 次に精神を擦り減らした俺が飛んだのは、どこかのライブハウスだった。きっと獅子王がバンドをやっていることを知って、その姿を見てみたいとでも思ったんだろう。
 他人事のようにそんなことを考えながら、俺はステージから一番遠く離れた壁に背を預けた。既にライブは始まっていて、ステージに夢中な周りの連中は突然現れた俺には気付かなかったようだ。
 俺の知らない楽曲がけたたましく密閉空間を震わせる。
 ステージ上に、獅子王の姿はない。
 曲が終わるとステージ上にいた数人が手を振りながらステージ端の幕に引っこんでいった。入れ変わるように現れた男たちに、耳を劈くような歓声が上がった。
 目を白黒させながら視線を向けた先。ステージの真ん中に、照明を受けて輝く金色があった。左右の丈が不揃いなズボンも、肘の辺りまで袖を捲ったパーカーも真っ黒で、金色がより強く主張していた。
 一瞬、またあの日に引き戻るんじゃないかと危惧したが、距離の問題か、人混みに紛れているからか…獅子王が俺を見ることはないとわかっているからか。ステージ上で楽器の調整がされている間にも、それが起こる気配はなかった。
 ジャーン、と幕開けを予見させるギターの音が響いて、何の紹介もないままに曲が始まった。激しい演奏にのせて声を張り上げる獅子王の表情は、決して楽しんでいるようなそれではなく。むしろ見ている側が苦しくなるような、胸を掻き毟られるような悲痛なもので。その歌声はまるで慟哭だった。
 ステージで数曲を歌い上げた獅子王は、幕の向こうに消えるまで、一度も笑みを見せなかった。
 一度聞いただけで胸に刺さって消えない音楽。迷子の子供のような獅子王の表情。無意識にその時間を繰り返し、きちんとすべての歌詞を拾って、俺は獅子王の姿を目に映しながらまた涙を流した。
「あぁ、こいつは驚いた…」
 この世界に、獅子王の中に俺は存在しなくとも、確かにそこに俺はいた。この歌は、獅子王の紡ぐ歌詞は、俺に向けられたものだ。なんの疑いもなくそう思った。
 水底に沈む自分を救い上げる手がない孤独。大事な何かが欠けている空虚感。ヒーローはどこにいる。夢見たヒーローなんてきっとどこにもいない。
 俺を探すように、助けを求めるように、音にのせて叫ぶ獅子王に、俺は何もしてやれない。幾ら時空を飛べたって、獅子王に何もしてやれないんじゃ意味がない――やっぱり俺は、ヒーローなんかじゃなかったぜ。
 それでも俺は、その力を使わずにはいられなかった。


 獅子王の命の期日を迎えるたびに、俺はまた過去へと飛んだ。獅子王のいない世界に意味なんてないから。俺はきっとその先の未来へはいけない。
 何度も過去に戻っては、幼い獅子王が成長していくさまを影から見守るだけの、そんな日々を。獅子王の生を、二十五年間の短い生涯を、ただ繰り返す。
 決して触れられはしない愛し子を。笑顔を失ったままの慈しむべき子を。
 すっかり頭に焼き付いた音楽を時折口ずさみながら。
 何度も捨てようとしてできなかったそれを、こっそり貯めたバイト代で買った銀色のリングを鞄の奥底に眠らせたまま。

 君を見つけたあの春の日。今は俺の中にしかない二人の尊い記憶。
 それを胸に抱いて、俺はまた君が生きている時間に戻ろう。
 空を流れる雲のように流れに身を任せながら。
 そうして幼き日を過ごしたあの平屋の縁側で、誰もいないその空間で、暫し疲れた羽を休めることを、どうか許してほしい。




[*前] | [次#]





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -