桜が舞っている。空はすべてを包み込むような紺青色で、ちかちかと星が瞬く。
 そこには月よりも強い輝きを放つ金色があって、丸く瞠られた灰青色が凍り付いたようにこちらに向けられている。
 その名を口にしようとした刹那、どこからか電子音が響いて俺の意識を掬い上げた。
「鶴丸、起きろよ。今日は早番なんだろ」
「…あぁ、そうか」
 眩い光に目を瞬かせる。ぼやける視界に、朝の日に照らされ煌めく金色が揺れた。
 自分が今どこにいるのかを思い出し、胸に広がる懐かしさを仕舞い込むように再度視界を閉ざす。
「あっ、こら、起きろってば」
「俺の起こし方は心得てるだろう」
「ほんと、あんたってそういうとこあるよな」
 どういうとこだ、と追究しようとした唇に温もりが押し当てられる。数秒触れてチュッと軽い音を立てて離れたそれに、俺はゆるりと瞼を持ち上げた。
「おはよう、獅子王。いい朝だな」
「おはようさん、それはよかったな。さっさと支度してバイト行けよ」
「照れてんのか?」
「ばっ、今更キスくらいでんなわけないだろ!」
 そう言って背けられた獅子王の顔は指摘されたことで耳まで赤くなっていて、その可愛らしい反応に目尻が下がる。
 のそり身を起こして自分より小さな体を抱き締めれば、「ばーか」と一言だけささやかな抵抗を示して細い腕が背に回された。
 朝のあまやかなひと時を堪能し、獅子王が用意してくれた朝食を腹に収める。さっさと身支度を整えて今日も一日頑張るために、俺の世話を終えて自身の身支度に取り掛かった獅子王の元に向かう。
「獅子王」
「何だ…っ」
「いってくる」
「…とっとといっちまえ!」
 振り向きざまに唇を奪えば再現のように真っ赤になって眉を吊り上げた獅子王の反応に気をよくして、俺は軽い足取りで玄関に向かった。
 靴を履いて鼻歌を口ずさみながらドアノブに手をかけようとしていたところに、ぱたぱたと慌ただしい足音が飛び込んでくる。
「今日は俺帰り遅くなると思うから、先に飯食っててくれな」
「あんまり遅いとまた迎えに行くぞ」
「それはマジで勘弁してくれ!」
「なら、早く帰るよう心掛けるんだな」
「わかってるよ」
 以前、あまりにも獅子王の帰りが遅かったある日。事前に聞いていた飲食店に実際に迎えに行ったという前科があるため、それが冗談ではないと身に沁みているんだろう。その後暫く話のネタにされたと拗ねていた姿が可愛かったことを思い出し、くすくす笑っていると鋭い視線が飛んできた。
「悪かった。いい子にして待ってるから、早く帰ってきてくれよ」
「…こういう時だけそういう態度、ほんとずるい」
 本日三度目のキスを、獅子王はおとなしく目を閉じて受け入れてくれた。満足した俺は、念押しとばかりに玄関を閉める間際投げキッスをお見舞いして、獅子王の罵声を背に聞きながら離れがたい空間を後にした。
 俺と獅子王の関係は、兄弟にも等しい幼馴染みから、恋人へと変化を遂げていた。あることをきっかけに一緒に暮らし始めて一年も経った頃。笑い話のつもりで言った「俺の初恋は君だったんだぜ、驚いたか?」なんて俺の一言。試す気持ちがゼロだったかと聞かれれば答えはノーだ。「俺だって、鶴丸が初恋だったぜ」とある意味では予想していた返事を獅子王がしたことで、なんだかんだ付き合うことになった。
 恋人になって更に二年が経った今でも、獅子王の初な反応をみるたび付き合いだしたのがつい昨日のことのように思える。何年経っても色褪せないものがあるってのは幸せなもんだ。
 高校を卒業後、大学には進まず介護士の資格を取った獅子王は毎日忙しくしているが、不満なんてもんは言った試しがない。爺さんっ子だったから、今の仕事が性に合ってるんだろう。爺さん婆さんに人気なんだとよく自慢げに話している。
 対して、同棲中のアパートから徒歩十分程度の距離にあるコンビニが俺の職場だ。他にもいくつか掛け持ちでバイトをしている。獅子王に比べれば情けなくみえるかもしれないが、こればっかりはどうしようもなかった。
 客と同じようにコンビニの自動ドアを潜り、レジにいた顔馴染みの中年店員に声をかけてバックヤードに引っ込む。
 よほどのことでもない限り変化なんてない流れ作業に準じ、滞りなく業務が終了する。
 今夜は獅子王が遅くなると言っていたから自分の分の夕飯をバイト先で見繕って、数時間は一人きりであることが確定している自宅に帰り着く。


 夕陽の差し込む室内にはもちろん獅子王の姿はない。あと何時間待てばいいんだろうかと考えていると時間ばかり気にしてしまうから、適当にテレビをつけて買ってきた弁当に箸をつけた。なにも珍しいことではないが、一人の食事ってのはどうしたって味気ないもんだ。
 チャンネルを回してみても興味の湧く番組は見当たらず、時計を見れば短い針が九の数字を少し越えたところだった。思案したのはほんの数秒で、俺はテレビの電源を落とすと財布と携帯を手に座っていたソファーから立ち上がった。
 我ながら我慢がきかないとは思うが、駅まで獅子王を迎えに行くことにした。いつかのように飲食店や職場にまで押しかけたら不興を買ってしまうこと請け合いなため、譲歩した結果だ。
 最寄りの駅に着いて三十分と経たずに改札から姿を現した獅子王は、待ち構える俺をみて目を丸くした。
 徐々に細められた目が胡乱げな視線を俺に投げかけてくる。
「あんた、何やってんだよ」
「大事な恋人を迎えに来ただけだが?」
「よくもまあしゃあしゃあと…」
「ん?」
「何でもねえ」
 ふいと目を逸らして、獅子王は俺の横をずかずかと通り抜ける。一瞬機嫌を損ねてしまったかと思ったが、すぐにそうではないと思い直す。案の定、先を行っていた獅子王に追いつき横目に窺った顔はほんのり赤く染まっているようだった。
「…あんた、そんなに俺が信用できないのかよ?」
「いいや、ただ可愛い君を夜道に一人歩きさせるのが心配なだけだ」
「ばっかじゃねーの。つーか、それ言ったらあんただって…」
「俺が?」
「あんただって、綺麗なんだから、気を付けろよな」
「…それはそれは」
 獅子王の口から飛び出した意外な言葉に思わず吹き出してしまう。今となっては見かけについて触れられることなどほとんどなくなっていたから。獅子王は自分をそんな風に思ってくれていたのかと嬉しくなった。
「君がそんなことを言うなんて珍しいこともあるもんだ」
「あんたが突飛なことばっかりやらかすからだろ」
 見かけよりも行動が目に余るんだと獅子王は不貞腐れたように溢した。にやにやとする顔を隠しもしない俺に、余計なことを言ったと早くも後悔しているんだろう。
 自分の言動を抑えてまで見かけを褒められようとは思っていないから、それでどうこうという話にはならないが。
「昔からそうだ…」
「君が初めて俺に笑顔をみせてくれた時に、味を占めちまったんだろうぜ」
「…なんだよ、それ」
「忘れちまったか?」
「なわけないだろ!だってあんな…あんた、いきなり屋根から飛び降りるとかありえねーし」
「あれは若気の至りだったな」
 死に怯える獅子王をどうにかしてやりたくて。中学生だった俺は爺さん家の庭の木を伝って平屋の屋根に上り、無謀にも何の仕込みもないままそこから飛び降りた。いやぁ、若さってやつは凄いぜ。今同じことをやったらきっと足腰が大変なことになっちまう。
 あまりの驚きに大きな目を真ん丸に見開いた獅子王が、したり顔で傍に寄った俺をみて「ヒーローみたいだ」と向日葵のように笑った。あの笑顔を、今でも鮮明に覚えている。
 自らの意思じゃないにしろ、それを一度裏切ってしまった俺は、きっともう獅子王の中でのヒーローではいられないんだろうが。
「なんだよ、今だって十分若いくせに」
 無意識に口から零れた溜息を年齢のことを気にしているととったらしい。俺の中のこいつはいつだって、俺にとっての陽だまりだ。
 ふっと笑えば怪訝そうに俺をみる獅子王の前に、左手を差し出す。
「若いついでに、手でも繋いで帰ろうぜ」
「はぁ?」
「暗いし、そんなに人目があるわけじゃないし、いいだろう」
「あんた、ここが自分の職場の近くだってこと気にしろよ」
 そう言いつつも、自分より小さな手が差し出した手に重なる。普通に手を繋ごうとする獅子王の手に素早く指を絡めて恋人繋ぎにしても、獅子王は何も言わなかった。
「俺がこの世で獅子王以外に気にするものなんてないぜ」
「っ、ガキかよ」
「君の前ではそうかもな」
「……」
 黙り込んでしまった獅子王に倣って、俺も口を閉ざす。繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら行く静かな夜道を、まもなく満ちるであろう十三夜月が淡く照らしていた。


 蜜月は危なげもなく過ぎて行き、付き合いだして四年の歳月が流れた。
 幼い頃から一緒だった自分たちにしてみれば四年なんてまだ短く感じてしまうもんだが、世間一般では長い部類に入るんじゃないかと思う。
 頼もしい新人が入ったから頑張れば連休が貰えそうだと獅子王が言ったのは、俺がある計画を企てている最中のことだった。
 それなら話は早いと、俺たちは早速旅行の計画を立てた。獅子王の仕事の都合もあってここ最近は遠出といえるものすらしていなかったから。浮かれてパンフレットを吟味する獅子王を微笑ましげに眺めながらも、俺も心の内では相当浮かれていた――旅行そのものも確かに楽しみではあるが、俺にとっては密かな企ての方が重要だった。
 当日までの数週間をカレンダーに×印を刻みながら指折り数える獅子王が、サンタを待つ子供のように可愛くて、先走りそうになる自分を抑え込むのは結構な辛労だった。
 そうして待ちに待った旅立ちの日。興奮してよく眠れなかった様子の獅子王の最高潮に達していたテンションは、朝一番に室内に鳴り響いた電子音によって一気に落ち込んだ。
 電話の着信を知らせるそれは獅子王の職場からのもので、トラブルがあって午前中だけでも出てきてもらえないか、という内容のものだったらしい。
 仕事であれば断るわけにはいかず、申し訳なさそうにする獅子王に俺は努めて明るく笑って「気にするな」と項垂れるその頭をゆるく撫でた。
「鶴丸は先に行っててくれ。俺は今日中に空いてる便探して急いで駆け付けるから」
「わかった。けど、あんまり急ぎ過ぎて事故にでもあったらどうしようもないからな。旅行も俺も逃げやしないから、ゆっくり来い」
 頭を撫でていた手で前髪をかき上げ、晒されたおでこにキスを送る。次いで唇にもキスを落とせば、不安の色を濃くした瞳を伏せた獅子王が、ぎゅっと抱き付いてくる。
「ちゃんと、待っててくれよな」
「当然だろう」
 獅子王が何に不安を抱いているかは察しが付く。縋るような小さな体を安心させるように抱き返して、暫し体温をわけあう。「よし!」と気合の入ったらしい獅子王が体を離すまで。
 旅行支度から一変、仕事支度を終えた獅子王を送り出し、自身の荷物の最終チェックを済ませる。旅行用バックじゃなくショルダーバッグに忍ばせたそれをきちんと確認して、準備はばっちりだ。
 数日留守にする室内を見回し、ここ数年のことを振り返っていると、心に満ちるのは獅子王への愛しさばかり。今さっき別れたばかりなのにすぐにでも会いたいと思ってしまう若い自分に苦笑を漏らし、俺は愛の巣に暫しの別れを告げて空港に向かった。
 一人きりの機内はやはり味気ないもんで。窓の外の景色を見るともなしに眺めたり、転寝をしている内に目的地に到着した。国内だからそんなに時間がかかることもないが、二人でいればもっと短く感じられただろうに。本来なら遙か上空から臨める景色に目を輝かせる獅子王をみることができたはずなのにと思えば、仕事先に多少の恨みを向けるくらいのことは許してほしいもんだ。
 それはまた帰りのお楽しみにしようと前向きに思考を切り替える。特にすることも決まっていないから、まずは今日から世話になるホテルに荷物を預けに行くことにした。
 いつ獅子王から連絡がきてもいいように、ちらちらと携帯を確認しながら初めて訪れる土地を見て回る。肩からぶら下げた鞄の中に潜めたそれを気にかけながら。
 「さっき仕事が終わってちょうど飛行機もとれたから今からそっち向かう」と獅子王から連絡があったのは、昼を少し過ぎた頃だった。「鶴丸と旅行に行けるなんて夢みたいだ。ちょっと予定変わっちまったけど、楽しもうな」という無邪気な文の最後にらしくもなくハートマークが踊っているのをみて、全力で顔の筋肉がゆるむ。
 早く、早く来い、獅子王。そうしたら、俺は君に今までで一番の驚きをプレゼントしよう。
 ゆっくりでいいと言っておきながら逸る気持ちを抑えることのできない未熟な俺は、鞄の上からそっとそれを撫でた。


 約束をしよう。君に与えてしまったあまりに長い空白を埋めることは出来ないが、これからはずっと傍にいると。俺の持てるすべてをもって君を幸せにしてやると、神に誓おう。
 そんな想いをあざ笑うように、神は俺に無情に微笑みかけた。
 世界は常に、唐突に、残酷な表情を俺にみせやがる。
 目に映るそれが信じられなくて、体は影を地面に縫い止められてしまったかのように動かない。青天の霹靂として突き付けられた現実は瞳の奥で揺らいだ。
 その瞬間を何度も脳裏に描き、待ち遠しくて浮かれる足取りで目新しい土地を散策している俺の耳に、ふいに届いたニュース速報を知らせるメロディ。音の出所であった通り過ぎようとしていた電気屋が大々的に売り出している大型テレビ。その画面にでかでかと映し出された映像に、俺の頭は一瞬真っ白になった。
 煙を立ち昇らせる飛行機。“墜落事故”と強調するように太字で表わされたテロップ。綴られた自分が数時間前に乗ってきたのと同じ便名。その先は見たくないと、見てはいけないと頭の中で警鐘が鳴っているのに、目は自然と画面下部に表示された幾人もの名前の羅列を追っていた。
――なぁ、神様。君ってやつは、本当に無慈悲なやつだ。


 子供が泣いている。金色の隙間から覗く大きな瞳を潤ませて、小さな体を震わせて泣いている。
 愛しい愛しいその子供の涙を止めてやる術は、罪の代償として失われてしまった。
 斯くも愛しい俺の陽だまり。もどかしい気持ちをどこに向けることもできず、罪を償う機会も与えられないこの俺を、どうか哀れだと笑ってくれればいい。
 今は失われてしまった夏の日差しの下に咲く輝かしい笑顔で、俺を馬鹿野郎だと罵ってくれればいい。
 君の世界に存在しない俺には永遠に叶わぬことだと、嫌というほど理解しているが、どうか。
 もう、桜の下に君を探すことはない俺を。


 墜落事故を知らせる速報の中、映し出されたそれを目にした瞬間、俺の世界は終わったのだと思った。視界が絶望に支配されたように真っ黒に染まって、あまりの衝撃に硬直した体が宙に浮いたような錯覚を起こした。
 パッと闇の中からいきなり光の中に放り出されたように、視界がちかちかと眩んだ。
 気が付けば俺は、今朝みたばかりの光景の中に、一人飛び立った空港に立ち尽くしていた。目の前には失われたはずの金色が、怪訝そうな表情をしてこちらを見ている。
 こいつは夢だろうか。咄嗟に頭を過ったそれは、次の瞬間には綺麗に吹き飛んでいた。この感覚には覚えがあった。そう、これは――
「あんた、どうしてまだこんなところにいるんだ?先に行ってるんじゃ…」
 言葉を最後まで聞かず、俺は崩れるように目の前の金色を抱き締めた。本当にここにいるんだと確かめたくて。腕の力が強くなったのは無意識だ。
「なんだ、どうしたんだよ…」
 腕の中で獅子王が困惑しているが、解放してやることは出来なかった。
 自分を落ち着かせるように深呼吸をすれば、そのたび獅子王の匂いが鼻孔を擽って。早まっていた鼓動も次第にゆるやかになっていく。
 俺はそっと体を離し、戸惑いに揺れる獅子王の瞳をまっすぐに見つめながら、自分が今みてきたものを語った。この飛行機は墜落する。これに乗るのはやめてくれ、と。
 何を言い出すのかと目を丸くした獅子王は、変わらずまっすぐに自分を映す俺の目の奥を探るようにして、「本当なんだな」と確認する言葉を吐いた。普通なら笑い飛ばされても仕方のないそれを真摯に受け止めてくれた獅子王に頷きを返す。
 やがて、「わかった、乗らねーよ」と笑ってくれた獅子王に安堵の息を漏らす。深々と吐いた息と一緒に体から力が抜けて、倒れ込むようにした俺を獅子王が抱き留めてくれた。
 その体に腕を回してぎゅっと抱き締める――そうしたはずだった。
 ふっと体を預けていた高めの体温が消えて、腕が何の感触も捉えないまま空を切る。目を見開いたそこに、目当ての金色は存在しなかった。
 まるで魔法か何かのように、獅子王は消えてしまった。
 今度はいったい何が起きた。今のは夢だったのか。ならどこからが夢だったんだ。
 混乱しながら、何ものにも触れない手に落としていた顔を上げる。
 ひらりと一枚。薄紅が横切った。
――桜が舞っている。空はすべてを包み込むような紺青色で、ちかちかと星が瞬く。
 見覚えのある光景に、だが一つ、大事なものが欠けていた。
 自分目掛け降ってきたような薄紅を一枚掴まえて、漠然と覚えた嫌な予感に、ひどく胸がざわついた。



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