「そこまで面倒見きれないよ…じゃあね」

呆れと怒りを孕んだ瞳と声音。衝撃に動けない自分を余所に踵を返し去っていく橙。引き止めたくとも、声が出なかった。手も、足も、己の体である筈なのに思う通りに動いてはくれない。
制止したその空間で、ただ…底冷えするような震えと、小さくなっていく橙だけは止まらなかった――…。



はっと目を見開くと、視界に見慣れた天井が飛び込んでくる。
…今のは夢だったのか。
安堵すると共に、自分がひどく汗をかいていることに気付く。

「…佐助」
「はい」

ぽろりと零れるように、その名を口にしたのは無意識だ。それなのに、身近から聞き慣れた返事がして、去った筈の橙が視界に色付いた。

「ぁ……佐助?」
「はい?」
「何故ここに……」
「何故って、今呼んだでしょ?」
「呼んでおらぬ」
「…嘘だね。確かに呼んだ」

あれは呼んだのではなく呟きで、まさか本人に聞かれているとは思っていなかったのだと、まだ脳が完全に覚醒していない幸村は小さく混乱していた。
あんな夢をみて、その後すぐに本人を前にしたせいで、それが現実になるのではないかという錯覚めいたものを覚える。途端に不安が全身に広がって、すぐ隣に腰を下ろした佐助の腕をギュっと掴んでいた。
今度は動いてくれた己の体に、これは夢ではないのだとわかって、安堵から吐息が漏れる。
突然腕を掴まれた佐助の方は、驚きも露わにこちらを見ている。

「どうしたの?」
「……どうもせぬ」

咄嗟に視線を逸らしたのは、夢を現実にはしたくないという怯みから。
佐助の腕を掴む手に自然と力がこもる。何も発せず俯いていると、やがて佐助の下げられた視線が接触している部分へと移るのを感じた。

「……ねぇ、何で震えてるの?」

そう問われ、反射的に目をやった先にあった己の手は、思い切り力を込めたせいもあって血管が浮き出、惨めに震えていた。
慌てて手を離し隠そうとしたが、既に赤く痕の残る佐助の腕に逆に逃げる幸村のそれを捉えられ、引き寄せられた。
軽い衝撃のあとに伝わる体温。先程よりも近くにある橙。
抱きしめられているのだと気付いた時には、もう容易に抜け出せないほど強い力が幸村を包む腕に込められていた。

「佐助、離さぬか!」
「嫌だ」
「っ、命令だ!!」
「…こんなに震えてる人に言われてもねぇ」

手だけに収まっていた震えは、今や全身に回っていた。震えを抑えることは、出来なかった。感情を制御できない己に、いっそ消え入りたいほどの情けなさが襲う。

「…実はさ、」

だんまりを決め込む幸村を見兼ねてか、若干気まずそうにしながらも白状するように喋り出した佐助の言葉に、幸村は目を瞠る。
佐助が今この場にいるのは、幸村が呼んだからではなく、ひどくうなされているのに気付き様子をみにきていたからだと。そうして目を覚ました気配を察して姿を消し、機を窺っていたところ、起きた幸村が自分の名を呼んだので好機とばかりにいかにも呼ばれて現れた風を装ったのだと。
道理で、呼んでいないといくら言っても引かなかったわけだ。

「ごめんね、起こそうかとも思ったんだけど…」

いつになく歯切れの悪い佐助に、言われずともその心の内はわかっていた。
そんな情けない姿をみられることを幸村はよしとはせず、己の不甲斐なさを責めるだろう。そう、なにより幸村を理解する佐助は思ったのだと。
しかし、悪夢の原因である本人がいうのだからなんだかおかしくて、思わず声を出して笑ってしまう。その間も伝わり続ける体温のおかげか、震えはもうだいぶ治まっていた。

「え?何?」

笑いを聞き咎めた佐助が、いきなりどうしたのかと訝しむ声を上げる。
それすらもおかしくて、それまでの震えを上塗りするように、肩を震わせて笑った。

「何でもない」

そう言って、今度は自分から佐助の胸に顔を埋める。すると佐助はいよいよ困惑した様子だ。幸村を捉う腕は、もうほとんど力がこめられてはいなかったが、敢えてそこから抜け出そうとは思わない。

あんな夢をみるのは、偏に自分が弱いからだ。

「佐助が」
「うん?」
「去っていく夢を見たのだ」
「…っ」
「某の未熟さに呆れて、去ってしまった…今、あの時の佐助の顔を思い出しても、ひどく胸が痛む」
「………」

弱さを曝すように夢の内容を吐露した。佐助は、黙ったままだった。
ふいに自分を包んでいた体温が離れて、もしや本当に呆れられてしまっただろうかと胸が苦しくなる。しかし次の瞬間、気が沈むままに俯けていた顔を佐助の手が包み込んだかと思うと、無理矢理上を向かされた。
そこには、真っ直ぐ自分を見据える、怒りを孕んだ佐助の姿。
あぁ、やっぱり。あの夢は正夢だったのか…と、自分の顔が歪むのがわかった。どうしようもなく視界が揺らぐ。

「ちょっと旦那!勘違いしないでよ」
「…勘違いなど……っ」
「してるって!」

佐助の顔がいっそう真剣みを帯びる。視界が橙に染まり、唇に温もりが重なる。
束の間、何が起きたのかわからなかった。

「さすっ…」

じわじわと事態を呑み込み、途端に慌てて離れようと身を捩るも、佐助はそれを許してはくれなかった。
それどころか、一度緩められていたそれがまた意思をもって幸村を捉えた。

「旦那、ちゃんと聞いて。夢なんかじゃなく、今目の前にいる俺様を見てよ」
「あ……」

薄っすら霞む視界に映ったのは、それこそ泣きそうなほど苦しげに歪んだ佐助の顔。
心臓が締め付けられたように苦しくなる。

「俺様がアンタを捨てるなんて、あるわけないっ!寧ろ、いっつも捨てられないか内心びくびくして、それを悟られない様に飄々と振る舞って、堂々とアンタに仕えてられるようにって頑張ってるのは俺様の方なのに!!」

感情が爆発したような佐助の滅多に聞けない本音に、幸村は目を見開く。あの何に対しても物怖じせず何でもやってみせる佐助が、まさか心の中でそんなことを思っていたなんて。自分と、同じ気持ちだったなんて。
ぽろぽろと目から溢れる水は、もはや自分の力では止められなかった。

「ねぇ、旦那…不安になって夢にみるほど、いなくなると思って泣いちゃうほど、俺様を必要としてくれてるの?想ってくれてるの?」
「当たり前だ!」
「…そっか、うん。なら、大丈夫だよ」
「大丈夫?」
「そう、お互いに離れたくないとしっかり想い合ってる二人は絶対に離れない…ね?」
「……」

佐助は笑っていた。幸村もきっと同意するだろうと確信して。
幸村は涙に潤んでいた瞳を丸くして、そしてニッと笑った。

「その通りだな」

涙の気配はどこへやら。すっかり引っ込んでしまったものの、目尻に残っていたそれを佐助の手が掬う。
目が合って、こんな夜更けに自分達は何をしているのだろうかと思えばおかしくて、顔を見合わせて笑った。
そしてもう一度、今度はただそうしたいと思ったから身を寄せ合い、体温を共有した。
結果的に互いの気持ちを深めることになったあの悪夢を、けれど幸村は心に留めておこうと密かに決めた。




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