「ついてない…」

目の前に広がる惨状から目を背けるように、紫原は人の気も知らないでからりと晴れ渡る真っ青な空を見上げた――…。



「どうしたんだ、アツシ?」
「なんか、最近全然ついてないんだよねー」

体育館の隅で項垂れるように大きな体を丸めて溜め息を吐き出した紫原に、隣で壁に凭れるようにして立っていた氷室が尋ねた。
紫原は視線を床から外さないままに、うんざりとした様子で溢す。

新発売のまいう棒はどれもハズレ続きだし、大切にとっておいたポテチは中身が粉々になっていたし、大好きなお菓子がどこの店でも売り切れていてやっと手に入れたと思ったら猫と鳥に奪われた。
なんてことをつらつら語る紫原に、ほぼ全てがお菓子に関するエピソードであることがどうにも紫原らしいなと見当違いに感心する氷室である。

話を聞き終えた氷室は何かを考えるように天井を仰ぎ、そして帰国子女という立場からは凡そ似つかわしくないような言葉を口にした。

「それって、もしかして疫病神の仕業じゃないかな?」
「疫病神…?なんか室ちんの口からそんな言葉聞くと違和感すげーし」

でも言われてみれば確かにそうかもしれないと納得する。
オカルト的なことには一切興味のない紫原だが、そういうもののせいにでもしなければやっていけないことだってあるだろう。

「一度、神社にお祓いに行ってみたらどうかな」
「んー、めんどい」
「けど、いつまでもそのままじゃ嫌なんだろ?」
「そーだけどー…うー」

お菓子をこよなく愛する紫原としては、今のこの状態が続くのは非常によろしくない。
だが、わざわざ神社でお祓いなどという仰々しい真似もしたくないというのが本音だ。
対して、このままの状況が続き、苛々と殺気立つ紫原が部活や他の場所で暴れたりしては大変だと危惧する氷室としては、なんとか現状を打破してやりたいところで。

「今日の帰りにでも、近所の神社に行ってみよう。お参りするだけでも何かが違ってくるかもしれないよ。僕も付き合うから」
「…わかった」

何かと格闘するように黙り込み、渋々といった様子で了承を返した紫原に、氷室はホッと息を吐き出した。
本気で紫原のことを心配し、ひいては周りの人間に対する被害も未然に防げそうだということで、胸を撫で下ろす。
相棒にはいつでも幸せそうにお菓子を食べていてもらいたいものだと、氷室は思っているのだ。
そんな氷室の気など知らず、まだ完全には納得していない様子の紫原は、のそりと立ち上がると気分転換に水を浴びに行ってくると告げて体育館を出た。


運動部にはある意味定番である水道で、紫原はその長身を屈め頭から水を被る。
頭の中は、まだ最近の不幸事をなぞるようにぐるぐると渦巻いていた。
そのせいもあってかどうにも糖分が足りず、また苛々としてくるのを水で冷やしやり過ごそうとしていると、ふいに甘い匂いが鼻孔を擽った気がして顔を上げる。
ぶるぶるっと猫のように頭を振って水を払い、蛇口を締めて辺りを見回すも、それらしいものは見当たらない。
糖分の欠乏による錯覚だったのだとしたら自分も相当やばいなと紫原が自嘲気味に見上げた先。晴れ渡る空に溶けるようにして見えたそれに、目を瞠る。
紫原と目が合ったことを認識したあちらも、驚いたように大きな目をくるりと回した。

「こんにちは。初めまして」
「は?」

すーっと上空に浮かんでいた体を紫原の本来の視線まで下ろしたそれは、いつの間にか貼り付けた無表情のままぺこりとお辞儀をした。
下ろしたと言っても紫原には到底及ばない小柄な体は未だに宙に浮いているし、僅かながらに向こう側が見えるほどにその体は透けている。
いよいよ嗅覚だけでなく視覚にまで支障をきたしてしまったのかと、紫原は眩暈を覚えた。
しかし、距離の近くなったその体から先程の甘い匂いが香って、反射的に手が伸びていた。
まさか本当に掴めるとは思っていなかったため、確かに伝わる感触に内心驚きながらも、その体を引き寄せる。
相手から困惑の気配が伝わってくるが、知ったことではない。
くんくんと鼻を鳴らすと、やはり、甘い匂いが鼻孔を刺激した。

「紫原君?」

堪えかねたのか、不安げに溢された自分の名に、紫原は体を離してその瞳を覗き込む。
吸い込まれそうな空色に滲むのは、ただただ戸惑いの色だった。

「何で俺の名前知ってるわけ?」
「他の方がそう呼んでいたので」
「へー…で、そっちは?」
「僕ですか?僕は黒子といいます」

よろしくお願いします、と言って黒子はまたも丁寧に頭を下げた。
あくまで紳士的な黒子の態度に、よろしくする気なんてねーけど、と紫原はそもそもの得体の知れなさに胡散臭げな視線を送る。

「あんたから甘い匂いがするんだけど、何で?」
「そう、ですか?よくわかりません」

指摘され、くんくんと自分の腕を顔に近付け匂いを嗅いだ黒子は、本当にわからないのか、無表情のままこてりと首を傾げた。
簡単に折れてしまいそうなほどに細い首だな、と今のこの状況には全く関係のないことをぼんやりと思う。

「俺さ、最近ついてねーの。もしかして、あんたのせいだったりする?疫病神ってやつ?」
「へ…ち、違いますよ。僕は疫病神じゃなくて、天使です」
「…はぁ?」

疫病神自体も信じていたわけではないが、同列程度に、いや、それよりいっそう怪しい天使などという言葉に、紫原は眉を寄せる。
宙に浮いていることは事実であるし、言われてみれば確かにその儚さは天使のように見えなくもない。けれど、その背には巷でよく目にするような羽は存在しない。
若干透けていて、宙に浮いている。疫病神や天使などというよりはむしろ幽霊に近いようにも思える。

「天使?どこが?」
「どこが…と言われても、説明が難しいです。それに、僕はまだ正確には天使というわけではなく、天使見習いというやつでして…」
「ふーん。まぁ、どうでもいいけど。で、結局どうなの?俺がついてないのはあんたのせいなわけ?何で俺にその天使見習いが見えるの?」
「それは……一言で言ってしまうと、僕のせいです…すみません。…実は、少し前から僕は紫原君の傍にいたんです」

黒子は無表情を徐々に申し訳なさそうに曇らせた。
全体的にぼんやりとした説明から、最近の不幸がこの黒子という天使見習いもどきが原因であるという一点だけは理解出来た。
しかし、まだ謎は残っているため、紫原は無言のまま視線だけで続きを促す。

「修行のために天界から地上に降りてきたんですが、対象者を探している最中にとても美味しそうな匂いがして、それにつられて紫原君に辿り着いたんです」

紫原は常にお菓子を携帯している。そのどれかしらの匂いにつられたのだと黒子は言った。
どこの野良猫だと思いながらも、紫原は黒子の話を聞いていた。

「あ、修行というのは、対象者…つまり地上の人間を一人選び、その人間を幸せにするというもので、僕はその相手を紫原君に決めたわけなんです。けど、その相手に僕の姿が見えるというのは通常ではあり得ないことで、僕も戸惑っています」

そう言いつつもあまり慌てた様子のない黒子に、紫原は怪訝そうに眉を寄せる。

「幸せにする?何それ。寧ろ不幸になってるんだけど?」
「それは、すみません。僕、本当に何も出来なくて…良かれと思ってやったことが全て裏目に出てしまっていて…」

もっと色々な味があった方がいいだろうと考えたまいう棒はどれも紫原の好みからは外れていて、自分の好きなお菓子が人気になれば嬉しいだろうと考えればそう上手い話でもなく、黒子は完全に初めての地上で空回りしているらしい。

「つまり、ダメダメなダメ天使ってこと?」

呆れたようにズバリそう言うと、申し訳なさそうにしていた空色の瞳が僅かに潤む。
しかし、そんなことはこちらの知ったことではなく、本当のことを言ったまでだと紫原はあくまで憮然とした姿勢を崩さない。
お菓子の恨みはなによりも恐ろしいものなのだ。
しかし、そうして尚も黒子を見ていると、天使というだけあって愛らしいつくりの顔が悲しげに歪む様に、少しだけ、ほんの少しだけ心が痛んだ。

「何それ、あり得ないんだけど」
「え?」

ぼそり、自分の中に湧いた感情に対して溢した言葉は、幸いと黒子の耳には届かなかったらしい。
紫原は逃げでもするかのようにそちらに背を向け、体育館へと引き返すべく歩き出す。正確には、更衣室に向けて。
背後から戸惑う気配が伝わってきたが、構わずに標準よりも長い脚をずかずかと進めた。


「あの、すみません。僕、頑張って君を幸せにします。だから…」
「はい」

紫原が更衣室で荷物を漁っていると、背後から弱々しい声がかかる。
謝らなければと後をついてきたらしい黒子の、その必死さの伝わる調子で告げられたまるでプロポーズのような言葉を遮り、紫原は鞄から取り出したそれを黒子の前に差し出す。
黒子は今にも泣き出しそうに潤む瞳をきょとりと丸くして、それを凝視した。

「あげる。だから、泣かないでよ。めんどくせーし」
「むらさき、ばらく…」
「ちょ、だから泣かないでって言ってんじゃん」
「すみません」
「あーもう謝んなくていいからさ」

子供のご機嫌でもとるように差し出したお菓子はその役目を果たさぬまま、受け取られることなく行き場をなくし、黒子は空色から透明な滴を溢した。
手に握ったままのそれよりも、紫原は目の前の光景に釘づけになってしまう。
薄っすらと透ける空色から、真っ白な肌を透明な滴が伝う様はどこか神秘的で、同時に甘い匂いが強く香った。
考えるよりも先に体が動いて、紫原の大きな手が黒子の頬に触れる。
触れた体温に弾かれたように顔を上げた黒子の、その瞳から溢れる滴を躊躇いなくぺろりと舐める。
それは、驚くほどに甘く、紫原の口の中にじんわりと広がった。
今まで味わった何よりも甘いそれに、感動にも似た感情が湧く。
そして、咄嗟に身を引こうとする黒子を許さず、非力で華奢な体を腕の中に捕えた紫原は、また一つ、滴を舐めとった。

「や、紫原く…」
「すっげー甘い。黒ちんって、砂糖で出来てるの?」
「意味が、わかりません」

いつの間にか涙は止まっていて、舐められた箇所を拭うように黒子が頬を擦る。
消えてしまった滴を名残惜しく思いながら、腕の中から解放した黒子を見て紫原は考えた。

「黒ちんって、もしかして全身甘かったりするのかな」
「知りませんよ、そんなこと」
「んー。きっと甘いと思うんだよね」

天使だからかな、と玩具を見つけた子供のようにキラキラとした瞳を向ける紫原の言わんとしていることがわからず、黒子は頭を捻る。

「だからさ、ちょっとくらい不幸になっても、黒ちんを食べさせてくれるなら、別にいいかなって」
「ふぇ?」
「まぁ、黒ちんを食べるってだけでも幸せは幸せだけど。別のちゃんとした方法で俺を幸せにしたいっていうなら、ちょっとくらい我慢して、付き合ったげる」
「それは…有り難いですが、食べるっていったい…」
「それはー、今みたいに…ほら」

困惑する黒子の唇に、チュッと唇を重ねる。
ぺろりと猫がするように舐めたそこは、やはり予想通りに甘かった。
軽く舌なめずりをして、わけがわからないという顔をしている黒子を余所に、紫原はあれこれと脳内で想像を繰り広げる。
あれ、天使にこんなことしていいのかな、という疑問が脳裏を掠めるが、まぁ、今更だしどうでもいいか、と頭の隅に放り投げる。

「ゆっくりでいいから、俺を幸せにしてね」
「はい。絶対に紫原君を幸せにしてみせます」
「うん。よろしくね」

これでは本当にプロポーズのようだと感じたが、黒子は全くそんな紫原の思考には気付いていないらしい。
天使とはそういうものなのか、それとも黒子が鈍感なだけなのか。
なんにせよ、どうやら紫原は、この可愛らしく体も考えも甘い天然ものの天使を手に入れたらしい。
これって結果的にラッキーなんじゃね?と、思わぬ収穫に口角を上げる。
不幸の分だけ幸せがあるというのはこういうことなのかもしれない。目の前に天使がいる今、神様というものを少しだけ信じてみてもいいかなと思った。


「アツシ、大丈夫か?」
「全然大丈夫だし。あ、そうだ。神社、もう行かなくて平気みたい」
「え…そうか、良かったな」
「うん」

上機嫌な様子で戻ってきた紫原に、氷室は今度こそ声をかけた。
先程、更衣室に向かう紫原に気付いてはいたのだが、何やら只ならぬ雰囲気を感じ取り、恐らくはまだ虫の居所が悪いのだろうと、結局声をかけることはしなかったのだ。
笑顔で返す紫原に、氷室も何かを察したように安堵の笑みを浮かべた。
その様子に、ここ数日紫原の傍らで彼を心配する氷室を見てきた黒子は、申し訳なく思いながらこちらも微かな笑みを浮かべた。

そして、ふと宙を仰いだ氷室が二人の様子を窺う黒子に向けて微笑んだ気がして、どきりと心臓を鳴らす。
しかし、それは本当に一瞬のことで、黒子はドキドキと不規則に脈打つ鼓動を抑えつけ、やはりこちらを見たのは気のせいだったのだろうと深く息を吐き出した。

「あんなに可愛らしい疫病神なら、僕も憑かれてもいいな」
「室ちん、何か言った?」
「いや、なんでもないよ」



(まだ知らない幸せの形とか)






我が家の黒子は紫原の主食か何かのようですね



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