Beryllium(04)
2学期の開始から一月が経ち、制服の夏服が出番を終えた頃。高校の進路相談室に置かれたいくつかの冊子を手に、わたしは帰宅した。今日は家庭教師の日で、冊子の内容で紅炎さんに相談したいことがあるのだ。
大学生に制服はないものの、紅炎さんの装いも秋色に移ろいつつある。わたしが家庭教師をつけるのはセンター試験前までで、家に紅炎さんが来るのもあと三月。それを思えば、しんどい受験勉強から早く解放されたい気持ちと、まだ紅炎さんと一緒に過ごしたい気持ちが相反する。
家庭教師の授業を終えた達成感から椅子にもたれて腕を伸ばすと、高校から持ち帰った冊子が視界に入った。相談を思い出したわたしは、教材の入った新品のクリアファイルをしまう紅炎さんにそれとなく問う。
「冬期講習か」
「夏休みの紅炎さんが来ない日は、高校の夏期講習に参加したり自分で勉強したりしたんですけど。冬休みは高校の冬期講習もないし、さすがに不安で…」
大手予備校の冬期講習の申込が始まった、と担任に告げられたのが今日の昼休み。長期休暇の講習は、普段予備校に通っていなくても参加できる。冬期講習で扱うのは本番の予想問題と聞いたため、わたしも参加を考えていた。
「これ、進路相談室から持ち帰ったんですけど」
「見せてみろ」
予備校の冬期講習の案内冊子を机に置けば、パラパラとそれを紅炎さんがめくる。一度トートバッグにしまったペンケースを取り出した紅炎さんは、ピンクの蛍光ペンを手に取った。
「書き込んでも大丈夫か?」
わざわざ律義に確認してくれる紅炎さんに、わたしは頷く。蛍光ペンで紅炎さんが線を引いてくのは、講師陣の名前。
「蛍光ペンでマークしたのは、現役時代に俺が受講したことある講師だ。あくまで俺の感想だが、かなりよかった」
「じゃあ、その先生の講義を取ればいいんですね!」
わたしの問いに、少し考えながら紅炎さんは首を捻った。
「…権兵衛と俺の講師の好みは違うだろうし、何より同じ国語や日本史でも、東大二次対策とセンター対策では教え方も違う。センター対策の講義を受けた記憶はないから、正直なところ誰がいいかはわからん。"迷ったら俺が薦めた講師を選ぶ"くらいにしとけ。理系の受験生にとっていい講師なら、理系の先輩に聞いた方が確実だろう」
冬期講習の話をしたついでに、冬休み中の家庭教師について紅炎さんは話を進める。年内最後の家庭教師はクリスマス直後、年始は三が日明けから。普段と変わらず、冬休みの家庭教師は月曜日と水曜日。紅炎さんの提案に、二つ返事でわたしは頷いた。
例外的に、夏休みは金曜日も含めた週3日わたしの勉強を見てくれた紅炎さん。しかし、年末年始が重なる冬休みとなれば、そうはいかない。夏休みより短期間にもかかわらず濃密なのが冬休み。親戚との集まりや大掃除で、毎年あっという間に冬休みは終わってしまう。
何より、紅炎さんは煌々商事の御曹司。わたしのような庶民の想像に及ばない、豪華絢爛な年末年始を過ごすはず。もしかしたら、海外で年越しするのかもしれない。お年玉だってたんまりもらえるに違いなく、冬休みに働く必要なんてないのだろう。
「講座の取り方のアドバイスくらいはできるが、講習代の予算もあるだろうし、まずはご両親と話し合え。そのあと具体的な話を聞いてやる」
「ありがとうございます!」
「こういう申込は塾生優先だから、権兵衛が申し込む時点で人気講座は締め切られてる可能性もある。希望講座を取れなかった場合も考えとくといい」
年明けの直前講習も含めて軽くアドバイスをもらったあと、流れで年末年始の過ごし方を紅炎さんに尋ねた。わたしは毎年母方の祖父母の家で年を越す。しかし、今年は受験を理由にずっとこの家にいる予定だ。
「まあ、100%勉強に集中する必要はない。…大晦日か元日か、どちらかで息抜きするのもありだと思う」
受験生なのに休んでいいなんて言われるとは思わず、紅炎さんをわたしは凝視する。わたしの視線に気づいた紅炎さんが訝しがるので、素直に疑問を口にした。
「大丈夫だ。今年の元日は妹がニューイヤー駅伝を見てたが、第一志望に受かった」
さすがに箱根駅伝は我慢していたが、と紅炎さんは続ける。
「たとえ志望校が優勝争いやシード権争いの渦中にいても、箱根駅伝は見れませんよ…それより紅炎さん、妹さんもいるんですね」
妹は大学1年生、と紅炎さんは言う。紅炎さんに妹がいるなんて初耳だ。年子の弟がいるのは知っていたが、妹までいたとは。"2丁目の練さん"がどんな人たちなのか一切知らなかった、と改めて実感する。
「紅炎さんが受験生のときは、どうしてたんですか?」
「見たい番組があったし、大晦日の午後は勉強しなかったな。その分、年始はしっかり勉強したが」
「えっ、それって…紅白ですか?ガキ使ですか?」
本筋から逸れるのはわかっていたが、好奇心が疼いて聞かずにはいられない。紅白歌合戦なら、紅炎さんというより練家のイメージ通り。笑いを堪えながらガキ使を見る紅炎さんなんて、想像するだけで面白い。何より、受験勉強よりガキ使を優先する紅炎さんは、ギャップがありすぎる。
「格闘技だ」
「かくと…うぎ?」
ガキ使とは異なるベクトルで意外性のある番組選びに、思わずオウム返しをしてしまう。改めて見るまでもなく、紅炎さんの身体は鍛え上げられている。紅炎さんのことだから単なる自己管理の一環で鍛えていると思いきや、格闘技好きが高じた結果とは思いもしなかった。
「弟さんや妹さん、大晦日に格闘技なんて嫌がりませんでしたか?」
「嫌がる…?受験勉強を休む間のリビングのチャンネル権は受験生優先だし、どうしても他の番組を見たければ自分の部屋で見るだけだろう?」
自室にテレビのない超庶民のわたしと、煌々商事の跡取りの紅炎さん。彼の発言を鵜呑みにすれば、少なくとも3人の子供に練家では平等に専用テレビを与えているわけで。リビングに40インチテレビ一台の名無しの家とは、天と地の差だ。ふう、とため息をついて紅炎さんにわたしは視線を移す。
「…自室にテレビのない庶民は、大人しく初詣で神頼みしますね」
「引きが悪いと落ち込むから、おみくじはやめとけ」
弟さんが大凶を引いたと言いながら、筆記用具や下敷きをトートバッグに紅炎さんはしまう。冬期講習の相談から始まって、年末年始の過ごし方について話し込んだ。わたしの家を紅炎さんが出る頃には、家庭教師の終了時刻から1時間が経っていた。
「権兵衛、ちゃんと寝てるか?」
「最近は寝不足気味です」
冬期講習や年末年始の話をした2週間後。せっかく紅炎さんが来てくれているのに、わたしはうとうとしてしまう。自分では踏ん張っていたつもりだった。しかし、目を凝らせば、紅炎さんの用意してくれたプリントには大量のミミズが這っている。
家庭教師が終わる時間になると、顔に疲労が色濃く出ていると紅炎さんが指摘した。居眠りを謝罪すれば、わたしの寝不足を紅炎さん疑う。
「ちゃんと寝ろ。睡眠は記憶の定着にも影響するぞ」
「はい。でも、今月は頑張らないと…」
どういうことかと紅炎さんに問われたわたしは、スマートフォンのカレンダーアプリを開いた。今月と来月の週末に、4週連続で模試の予定がある。そのうち二つが、第一志望校の入試を想定した模試だ。
どんなにセンター模試や一般の記述模試が高得点でも、第一志望校の出題形式に沿った模試で好成績を収めなければ安心できない。年間を通じて2回しかないチャンスに備え、万全の状態で腕試しをしたかった。
「とにかく無理をするな。体調管理も受験生の仕事だし、体調を崩して学校も模試も休むことになったら困るだろう?」
紅炎さんの言葉に、わたしは頷く。自費で受験するなら模試をパスするのも選択肢の一つだが、両親に負担してもらっている以上それは考えていない。それに、体調不良で紅炎さんの家庭教師をパスするのも嫌だ。紅炎さんの言葉を胸に刻んだこの夜は、かなり久々に日付が変わる前に眠りについた。
4週連続の模試が終わった最初の月曜日。昨晩は夜更かしせずにすぐ眠ったにもかかわらず、朝から身体が重い。ストレスや疲労が身体を蝕んでいたようで、電子音の鳴った体温計を左腋から取り出せば、液晶には"37.8℃"。
「今日は学校も家庭教師もお休みね」
「…家庭教師は、休みたくない」
月曜日になれば紅炎さんに会えるのを楽しみに、毎週末の模試を乗り切っていた。それなのに、月曜日に体調を崩すなんてあんまりだ。"体調管理も受験生の仕事"と、紅炎さんにも言われていたのに。体調不良で紅炎さんに会えないのも嫌だが、それ以上に体調管理ができないことに幻滅されるのではないかと不安になる。
「無理言わないの。ただの疲労が原因ならいいけど、風邪でも引いてて紅炎くんに移したら困るでしょう?」
そう言われれば、わたしは白旗を揚げざるを得ない。力なくわたしが頷けば、紅炎さんには連絡しておくと母が言う。わたしの部屋から去った母の背中を見届けると、熱で頭がぼーっとしてくる。気怠さに屈したわたしは、そっと瞼を閉じた。
数時間後に瞼を開けると、窓の外はすっかり暗い。枕元のスマホを開けば、高校の友達から体調を気遣うLINEやノートを撮った写真が大量に届いていた。画面左上に表示される時刻は、19時20分。本来なら、この部屋で紅炎さんと勉強している時間だ。家庭教師を休んでしまった事実を突きつけられる。
ただでさえ残り少ない紅炎さんと会えるチャンスを、自己管理できないせいでふいにしてしまった。悲しみからため息をつくと、部屋の扉をノックする音が聞こえる。扉の先にいるのは母で、返事をすればガチャリと扉が開く。
「体調はどう?」
「朝よりは大丈夫。少しお腹空いたかも」
軽くなら食べられると付け足せば、ハーゲンダッツでいいかと母が尋ねる。ハーゲンダッツなんて、滅多に我が家の冷凍庫には置かれていない。体調を崩したくらいで買ってくれるものではない代物がある理由を、母にわたしは問うた。
「さっき紅炎くんが持って来たの、権兵衛へのお見舞いにって」
「ええっ?起こしてよ!」
紅炎さんの訪問に、わたしは母を責める。わざわざ紅炎さんが来てくれたのを知っていれば、身体に鞭を打ってでも勉強したのに。一目でいいから、紅炎さんに会いたかった。後者を母に伝えるわけにいかないため、前者だけをわたしは口にする。
「権兵衛の部屋の前まで来てもらったけど、寝てたから。…それとも、勝手に部屋に紅炎くんを入れて、汗をかいて眠る権兵衛の姿を見せてもよかった?」
母の言葉に、首を振るしかわたしはできなかった。体調管理できないのを知られただけでも恥ずかしいのに、臥せった姿を紅炎さんに見せるなんて、とても耐えられない。
「…お母さん、ハーゲンダッツ以外がいい」
紅炎さんからのお見舞い品は、完治してからのお楽しみ。代わりに毎朝食べているアロエヨーグルトを持ってきてもらい、空っぽの胃に流し込んだ。
数日後に冷凍室から取り出したハーゲンダッツは、やっぱりラムレーズンだった。
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