炎色反応(練紅炎) | ナノ


Magnesium(12)


「…そうか、まだ権兵衛は研究を続けてたんだな」



ここにいる理由を説明すれば、昔のように紅炎さんは口角を上げる。しかし、紅炎さんの瞳には、今まで見たことないような感情が込められていた。その感情の正体は、わたしにはわからない。しかし、8年ぶりに向けられた笑顔に、高校時代と同じようにわたしの胸は高鳴る。

「このシンポジウムのために、わざわざ紅炎さんもストックホルムに…?」

わたしの問いに、すぐ紅炎さんは否定した。大学卒業とともに煌々商事に入社した紅炎さん。東京本社で2年間働いたあと、ストックホルム支社に異動したという。

「4月でストックホルム生活も…5年目になった」

ストックホルムに来て最初の1年半、語学学校の夜間部に紅炎さんは通っていたらしい。日常生活レベルならスウェーデン語は問題ない、と紅炎さんは言う。

そのあとも軽い身の上話をするが、全然わたしの頭に入ってこない。馬の耳に念仏とは、まさにこのこと。8年ぶりに話す紅炎さんの変わったところを見つけては新たにときめき、変わらないところを見つけては心の奥で安堵していた。

そんなことをしていれば、簡単に高校時代の気持ちがぶり返す。紅炎さんと再会できた嬉しさと、もう一度想いを伝えたい気持ちで、わたしはいっぱいいっぱいだった。

「権兵衛、学部や院での生活はどうだ?」

「すごく充実しています。研究はもちろん、学部時代のサークルやバイトも、修士時代も、博士の今も。全部…全部紅炎さんのおかげです」

わたしの言葉は本心からで、そこに一切嘘はない。紅炎さんに視線を向ければ、またしても彼の瞳には先ほどの感情が灯っていた。

「…サークルにバイト?研究漬けで理系の学生は忙しいんじゃないのか?」

うまくやり繰りすれば学業ともバイトとも両立可能、とわたしは伝える。返答を聞くなり、わたしのバイトとサークルについて紅炎さんが掘り下げた。

「バイトは研究室近くのスタバで、学部時代からずっと同じ店舗で働いてます。えっと、サークルは…」

わたしが言い淀むと、紅炎さんは眉間に皺を寄せる。答えるのが恥ずかしくて、紅炎さんからわたしは視線を逸らした。

「どうした?言えないようなサークルか?それとも研究系のサークルで、文系の俺には説明が難しいって」

「そうじゃなくて…き、競技かるた…です」

尻すぼみになりつつ回答すれば、廊下での再会以上の驚きを紅炎さんは見せる。

「"過去のことを学ぶなんて無駄にしか思えない"と言ってた権兵衛が?どういう風の吹き回しで…」

「…紅炎さんを忘れられなかったから。入学したあとも好きで、紅炎さんの好きな世界を知りたくて…競技かるたのサークルに入ったんです」

いくら紅炎さんの好きな世界を知りたいとはいえ、古文が苦手なわたしにとって、競技かるたは退屈に見えた。"東口に住む文系御曹司"と"西口に住む理系庶民"は、最初から住む世界の違う人間。そう思えば諦められる気がして、踏ん切りをつけるために新入生のわたしは競技かるたの体験に参加した。

しかし、競技としての百人一首は思いのほかシステマティックで。学部時代のわたしは、すっかり競技かるたに魅了されたのだ。その証拠に、紅炎さんの好きな世界を知りたかったなんて動機は、今の今まで忘れていた。

「最初は決まり字と下の句の頭だけ覚えてました。でも…やっぱり"そういうものだ"じゃ、組み合わせを覚えられなくて。覚えるための理屈が必要で、歌の意味も勉強しました。思っていた以上に歌の内容に共感できるし、1000年前の人もわたしたちと変わらないんだなって思ったら、面白くて」

思ったままを口にすれば、「やっと古文の面白さがわかったか」と紅炎さんは口角を上げる。

「…今のわたしの気持ちは、"ちぎりお"です」

「…ちぎり、お。藤原基俊か?」

紅炎さんの目を見て、わたしは頷く。

<ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あはれことしの あきもいぬめり>

「契りを交わしたのに、守られることなく今年の秋も過ぎていく」という悲しみや恨みを詠んだこの歌。"大人になったら"なんて理由で振られなければ、失恋した日のうちに紅炎さんを諦められただろう。

方便だとわかっていても、どこかで"大人になったら"に期待し続けたわたしがいたのは事実。あのときは18歳だったのに、もう8回も秋が過ぎ去った。

「…まだ学生ですけど、わたしだって26歳の"大人"になりました。8年ぶりに再会して、30分も経たないうちに言うことじゃないかもしれませんが…紅炎さん、今も大好きです」

「その…気持ちは嬉しいんだが、一つだけいいか?」

気持ちを告げたはいいものの、恥ずかしさからわたしは俯く。正面から聞こえる予想よりずっと優しい紅炎さんの声色に、思わずわたしは顔を上げた。

「75番の藤原基俊は、『千載集』にも収録されてるだろう?『千載集』の詞書に、この歌の詠まれた背景が書かれている。この歌は…現代風に言うと、"毎年開催されるイベントにコネで息子を出演させたい"と基俊が頼んだところ、イベント主催者からいい返事をもらえた。しかし、何年経ってもそのイベントに息子は出られない。息子を出さない主催者への恨めしさを詠んだ歌が75番だ」

少し早口で説明する紅炎さんに、わたしの目は点になる。

「"契り"は男女間の恋愛の歌に用いるから誤解されやすいが…75番の場合、単純な"契約"だ。こういう親心を恋心と読者に解釈させる表現も、和歌の魅力であり基俊の技量だ。…それは置いといて、権兵衛の言いたいことはわかるが、この歌で詠まれた内容と俺たちの状態には相違があると思う」

「そんなの…!そんな話、知らないもん…」

紅炎さんらしい冷静な指摘に、減らず口をわたしは叩いた。もっとも、話の後半はちっとも頭に入っていない。せっかく想いを告げたのに、こんな態度を取ってしまえば、心証は悪くなるに決まっている。しかし、予想外の言葉を紅炎さんは口にした。

「この8年間で、何人かの女性と交際した」

告白の直後に聞きたくもない過去の女性事情を明言され、ずしりとわたしの心臓が抉られる。紅炎さんほど魅力的な男性なら、わたし以外の女性も放っておくはずがない。元カノたちは、さぞかし素敵な"大人の"女性なのだろう。

「その全員が、"煌々商事の跡取りの練紅炎"にしか興味なかった。でも、そういうところに関係なく…俺自身を権兵衛は見てくれていたと思っているが、違うか?」

「違わな…いです。御曹司だから紅炎さんを好きだなんて、思ったことありません。"煌々商事の跡取りの紅炎さん"が好きなら、水族館じゃなくてディズニーランドに行って、ディズニーランドホテルのシンデレラのお部屋に泊まりたかったです!」

そう口にすれば、初めて聞くような笑い声を紅炎さんはあげた。

「ディズニーランドはともかく、権兵衛が高校生だった以上、たとえ恋人同士でもホテルはさすがに無理だ」

「…確かに、当時の紅炎さんでもそう言ったでしょうね。あの日も18時過ぎで解散でしたから」

わたしに続いて、当時の考えを紅炎さんが吐露する。女子高生なんて年上に憧れる年頃なだけで、本気なはずがないと思っていたこと。それだけでなく、あの春で4年生になった紅炎さんは、単純に卒論に集中したいと思っていた。

学生生活の集大成としての論文執筆に集中したい気持ちは、痛いほどわかる。いくら授業やサークル、バイトで忙しい理系とはいえ、初めての彼氏ができれば当時のわたしが舞い上がらないはずはない。

そんなわたしと付き合えば、紅炎さんの卒論執筆をわたしが邪魔していただろう。そう思えば、今のわたしは当時の紅炎さんを悪く思えなかった。



「何より、俺の嫉妬を権兵衛にぶつけるのが怖かった」

紅炎さんに似つかわしくない"嫉妬"という単語に、わたしはオウム返しをする。

「中学生の時点で、俺の煌々商事就職は決まっていた。長男として…未来の後継者として、本当は経営を学ぶよう親に言われていたが、頼み込んで大学では好きな歴史を学ばせてもらっていたんだ。本当は院でもっと歴史を学びたかったが…諦めるしかなかった」

「紅炎さん…」

「それなのに、自分の好きな研究を修士や博士まで続ける権兵衛が隣にいたら、たとえ畑が違っても嫉妬せずにはいられない。さっき権兵衛がまだ学生だと聞いて、高校時代の希望通りに最先端の応用化学を研究していると知って、やっぱり嫉妬したよ…おまえが羨ましい」

先ほどの紅炎さんの瞳に込められていた、"今まで見たことないような感情"の正体は嫉妬。それが明かされたものの、どう返していいかわからずわたしは口を噤む。水族館で子供のように深海魚史の企画展を楽しんでいた紅炎さんが、ふと脳裏に浮かんだ。

将来も好きなことを続けようと受験勉強に励んで目標を叶え、8年後にこうして紅炎さんの前に現れた。それでいて、紅炎さんが諦めたことを叶えた旨を、"あなたのおかげ"と言って伝えたのだ。

8年前も今も、無自覚のうちにどれだけ紅炎さんをわたしが傷つけたのだろう。しばらく沈黙が流れたあと、わたしを紅炎さんが呼んだ。

「いずれは東京本社に帰るが、いつまでストックホルムにいるかわからない。それに、俺は長男だ。煌々商事を継ぐだろうし、あれだけの大企業を継げば、不要なしがらみに囚われる人生を恋人や将来の妻子に強いてしまう」

「えっ、紅炎さん…?」

紅炎さんの言いたいことがわからず、わたしは聞き返す。

「こうして海外にいても、観光もそこそこに休日は自宅で歴史研究ばかりしている。帰国すれば仕事漬けで、シンデレラの部屋なんて連れてってやれない。そんなつまらない男で、本当に権兵衛はいいのか?」

「…そんな紅炎さんだから、わたしは好きなんです。いえ、たとえ煌々商事が潰れて一文無しになっても、紅炎さんと一緒にいられれば」

「縁起でもないことを言うな」

不謹慎なわたしの発言に、眉間に皺を寄せながらわたしの元に紅炎さんが近づいた。怒られるかと思いきや、濃紺のスーツにわたしは包み込まれる。8年前に夢見ていたことが現実となり、まともに頭が働かない。

「そういえば、権兵衛の就職先は決まってるのか?うちは商社だから、さすがに研究職は用意してやれない」

突然シビアな話題を振られ、夢見心地から現実に引き戻される。今回のシンポジウムで海外就職に強く惹かれたことを、正直に紅炎さんに伝えた。

「ストックホルム生活が終われば、その先ずっと東京本社に俺はいる。帰国時期はわからないし、東京で働けと権兵衛に言うつもりもない。ただ、東京で権兵衛が待っててくれたら、俺は嬉しい」

「…それは確約できません」

いくら紅炎さんと一緒にいたくても、この9年間の研究を最大限に活かせる場所での就職が最優先である気持ちは変わらない。わたしの気持ちを分かっているからか、嫌だとは紅炎さんは言わなかった。ただし、言葉にしないだけで、顔には出ている。わかりやすく眉間に皺を寄せる紅炎さんですら、今はとても愛おしい。

「権兵衛、今泊っているのはどこのホテルだ?」

「えっと…このホールと幹線道路を挟んだところにある、白いレンガのホテルです」

「すぐに引き払って俺の家に来い。キャンセル料は俺が出すから」

有無を言わせない紅炎さんの強引さに、思考停止でわたしは頷く。わたしの返答ににやりと口角を上げたものの、何かに気づいた紅炎さんは顔をしかめて小さく声を漏らす。

「待て、今はあいつが…このシンポジウムには俺の弟も来ていて、俺の家に泊めてるんだ。あいつはどこかホテルにでも泊めさせ」

受験結果を告げに紅炎さんの家に押しかけたとき、彼の弟に会ったことがある。涼しげな眼差しが紅炎さんに似た人で、確か"こうめいさん"。

記憶が正しければ、"こうめいさん"は法学部生だった。このシンポジウムに参加するような研究者ではないだろう。煌々商事に就職したであろう"こうめいさん"も、仕事で来ているのかもしれない。

「紅炎さん、弟さんを優先してください。泊まれなくても、お家に遊びに行きますから」

そう言えば、自宅の住所を書いたメモをわたしに紅炎さんが手渡した。絶対に今夜ここに来い、と添えて。



「お仕事お疲れさまです」

「ありがとう。今日は弟が夕食を作ってくれてるから、権兵衛に紹介する。弟と一緒にシンポジウムに参加している先輩が体調不良で別行動らしく、久々に自炊したいと言い出したんだ。あいつの料理の腕はプロ並みだから、安心しろ」

メモをもらったものの、結局一緒に紅炎さんの自宅に行くことになった。仕事終わりの紅炎さんと待ち合わせ、恰幅のいいほうの付き人が運転する車に乗り込む。スウェーデンらしく、ボルボの最高級モデルが社用車。慣れない革張りシートの感触に、妙な緊張感をわたしは覚える。

会食続きの教授とは、どのみち今日の夕食をともにする予定はない。一方で、いつも夕食をともにする白龍くんには申し訳ないことをした。そんなことを考えていれば、大きな家の前でわたしたちの乗る車が停車する。1人暮らしには広すぎる平屋の前で、一足先にわたしは社用車から下りた。

「権兵衛、ベルを鳴らせば弟が出る」

先に家に入るよう、わたしに紅炎さんが告げる。社用車の横で小柄な付き人・青秀さんと紅炎さんが話す間に、北欧らしいベルをわたしは鳴らす。玄関から顔を出したのは、よく知る研究室の後輩だった。

「お帰りなさい、夕飯の準備はで…権兵衛先輩?どうしてここに?」

「はっ、白龍くんこそ、何で紅炎さんの…ああっ!」

"会社経営者の親戚"を持つ、"練"白龍くん。目の前の白龍くんも"2丁目の練さん"の一員だと、今ここで気づく。2丁目にも同じ高校出身の人がいるなんて発想は、通学に1時間を要したわたしにはなかった。

エコノミークラスに乗ったことがないのも、煌々商事の創業者一族なら納得だ。何より、決して練姓は多くない。紅炎さんと白龍くんの関係を示すヒントは、今までにも多く存在したはずだ。

「なぜ義兄を権兵衛先輩が知ってるんです?」

「それは…」

言い淀むわたしの右肩を、背後から紅炎さんが叩いた。振り向けば、軽く触れるだけのキスが唇に落とされる。

「なぜ俺の彼女をおまえが知ってるかは知らんが、こういうことだ」

そう白龍くんに告げた紅炎さんは、強く腕を引いて家にわたしを招き入れた。後輩に見せつけるようなキスに、顔に全身の熱が集中する。放心状態のわたしは、されるがままの状態で紅炎さんの家にお邪魔した。

紅炎さんとわたしが東京でともに暮らしはじめるのは、あと数年先の話。



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